一匹の羽虫


 ある湿っぽい昼下がり、ぼんやりとまどろんでいると、ふと脛の辺りに痛みを感じた。

 何事だろうと目をやると、一匹の羽虫が止まっている。

 私は反射的に手を放つ。

 ぴしゃりと音が響き、羽虫は潰れた。

 潰した手を返すと、べったりと赤い物が付着している。それは私の血であった。

 これだけの血を含んでいたとなると、さぞかし丸々と赤らんでいたに違いない。しかしその報いは受け

た、ならばこれ以上辱める事はあるまい。

 私はその死骸をくずかごの中へと捨てた。

 落ち着いて考えてみると、惨い話だと思うが。私にとって、その羽虫はその程度の存在にすぎない。だ

からこそ私は残酷にもなれ、当たり前のようにごみとして捨てられるのだろう。

 それを人の本然と言うよりは、私の本然としよう。

 羽虫の方もそれを承知でやってきているのか、それとも知らず知らず求めている内に、私という存在の

怒りをかったのか。つまりはそれが本然なのか。

 どちらにせよ、私の痒みは治まらない。恨みと怒りを晴らしても、私の受けた傷は治らないのである。

 これを治めるには、時間を待つしかない。されど我慢は出来ぬ。あまりにも痒い。我慢しきれぬ痒みに、

大して効き目はなかろうが、薬を塗っておいた。

 すうっと患部に寒気のような気持ちが広がる。少しだけ痒みが晴れたような、それでいてまったく誤魔

化しきれていないかのような、複雑な感情が私の中を去来した。

 アロエの方が良かったのではないかとも思ったが、さりとて塗ってしまった以上、仕方がない。それに

何を塗ろうと、所詮痒みは消えぬのだ。痒みは膨らむばかりで、薬の効果も気休めでしかない。

 むしろ何か他に集中できる事が欲しい。痒みもまた心に酷く作用する現象であれば、これも感情と呼べ

ぬではない。だとすれば、感情を食い止めるには、やはり感情を用いるのが最善だと考える。

 しかし我が家の貧乏住まいでは、興味を惹く何があるでもなく。ただ開けっぴろげにした窓から、不愉

快な喧騒と空気が流れてくるばかり。

 私は苛立ちを覚え、ぴしゃりと強く窓を閉めた。

 そうだ、初めからこうしておけば、羽虫なども入ってこなかった。まったくもって不愉快である。

 痒い。不愉快になると、尚更痒い。

 だがここで患部をかいてしまえば、益々痒くなる。それは私でも知っている自明の理。今ここでかく訳

にはゆくまい。良い大人がこの程度も我慢できないようでは、胸を張って生きられぬ。

 しかし痒い。こればかりは大人でもどうにもならぬのではなかろうか。

 仕方なく患部の周辺をちらちらと窺うようにかいてみた。いや、かくというよりは、擦ると形容してお

こうか。断じて、私は痒みに負け、そこをかいた訳ではない。物事は正確に伝えねばならん。

 確かにかくと形容した方がわかりやすいとしても、嘘を付く訳にはゆかぬ。そう、私は患部周辺を、あ

くまでも擦ってみたのである。

 多少すっきりしたような気がする。しかし何故だか益々事態が悪化したようにも感じる。

 まさか周辺までもが、すでに羽虫に毒されていたというのか。羽虫の毒は、そこまで強靭でしぶといも

のだというのか。

 私は流石にひるみ、擦っていた指を慌てて離した。

 こうなれば、放っておくしかあるまい。万策は尽きた。私の知恵など、この程度のものだ。

 だが放っておいても痒みはひかぬ。紛らわす何かが欲しい。

 そこで様々と考えてみる事にした。何かを思い浮かべていれば、その内興味が湧くような事を、ふと思

いつくかもしれぬ。

 それさえ思い付ければ、或いは痒みを誤魔化せるかもしれぬ。

 私が痒みと戦いながら、必死に思考へ沈もうとし、一体どれほどの時が経ったろう。

 諦めかけていた頃、それでもふっと思い浮かんだ事がある。それもまた羽虫に関係する事だったが、今

は藁にも縋りたい想い、この幸運を逃す訳にはいくまい。

 そう、あれも今日のようにぼんやりとした気候で、湿っぽくも暑いのか寒いのか解らぬ時期であった。

その時に、またしても今日と同じように、私は羽虫をぴしゃりと叩き潰したのである。

 しかしその時の羽虫はまったく血を吸っておらず、その後も大して痒みが出る事も、患部が腫れる事も

なかった。

 羽虫達は吸血能力だけは実によく優れ、私とて最前のようにまったく気付かないものだが。何故だがあ

の時は痛みを感じた。はっきりと覚ったのである。だからその痛みに反射的に手を出し、事なきをえた。

 そういえば度々あの羽虫にたかられる際、痛みを感じる事があった。

 数は少ないが、確実にそういう事がある。おそらく誰にでも思い当たる事があるのだろう。

 つまりそれは、手練揃いの羽虫の中にも、吸血の下手な者がいるという事ではなかろうか。

 例えば人間は誰しも走る事が出来るが。その速度、また持続力は人によってまちまちである。

 また人間は誰しも飛び跳ねる事が出来るが。その高さ、距離は人によってまちまちである。

 とすれば、この羽虫も生来吸血能力を持ちながら、やはり巧みな者と、不得手な者とがいるのではない

か。生物とは、そのようなものではなかろうか。

 だとすれば、羽虫も羽虫でなかなかに苦労しておるのかもしれぬ。

 最前の羽虫も、下手な羽虫も、結局はどちらも私に潰された。吸う前か吸った後か、それだけの違いで

しかない。

 確かに後者は吸った満足を得たのだが、だからこそその死が余計に惨く感じられる。

 前者は吸えもしないが故に、惨さを感じる。

 どちらも同じである。

 つまりは何が大事なのかといえば、ようするに生き残る事なのだろう。何を成し遂げても、生き残らね

ばどうにもならない。死ねばそこで全ての可能性は潰えるのだ。

 だからどうということはなく、今更言うまでも無い、ごくごく当たり前の事なのだが。それを改めて考

えると、なかなかに不思議なものと言わねばなるまい。下らない事でも、人間は感心をし、何事か悟った

ような気になれるもの。

 そしてありがたい事に、ふと我に還ると、少しだけ患部の痒みがひいていた。

 明日には今あった事も、すっかり忘れているはずだ。この痒みと患部の腫れとともに。




EXIT