幸せな贈り物


 人は生まれながらに一つの大切な箱を持っています。

 その箱はいつもひっそりと貴方のそばにあって、いつか開けられるのを待っているのです。

 でも誰もその箱の開け方を知りません。

 ある男が大きな大きな箱を背負っておりました。

 その男は取り立てて何がどうというのではありませんが、とにかく大きな大きな箱を持っていて、押し

潰されてしまいそうなくらい大きな箱を持っているのです。

 初めは小さな箱だったのですが、望む幸せを探して生きている間に大きく大きくなっていって、今では

もう持ち歩くだけでひーひーはーはーと息が切れるくらいです。

 置いておけば良いのかもしれませんが、誰かに盗られたらと思うと怖いですし、いつ開けられる時が来

るか解りませんので、いつきてもすぐ開けられるよう、ずっと背負って歩いているのでした。

 男はいつも幸せを求めていたのです。

 それを開ける事ができれば、必ず幸せになれる。

 そう聞いていましたし、男はずっとそれを、それだけを信じて生きてきたのです。

 だからいつも一緒、重い重い幸せの箱といつも一緒に居たのです。

 でもいつまでも開け方が解りません。

 何をやっても開きません。

 どうして良いか解らなくなったので、取りあえず歩く事にしました。

 そうすれば誰かから教えてもらえるかもしれない。そう思って、どこまでも歩いてきたのです。

 その間中男は箱の中身の事ばかり考えておりました。

 行きかう人。街の風景などは何も憶えていません。

 天高く突き抜ける青空、どこまでも広がる豊穣の大地。そんなものには見向きもしませんでした。

 ただただ箱の事を考え、それがもたらしてくれる幸せだけを考えて生きてきたのです。

 珍しがって男に話しかける人もいましたが、男がそれに答えた事は一度もありません。

 どう答えて良いのか解らなかったのではなく、箱以外の何も目に入らなかったからです。

 どこをどう歩いたのかさえ解りません。

 ここがどこか、どこに向かっているのかさえ解りません。

 とにかく箱だけを想い、箱と共に歩いてきました。

 でもそんな人生に、もう疲れ果てていました。

 歩いても歩いても、願っても願っても、いつまでも箱は開きません。

 それどころかどんどん重く、大きくなって男を苦しめます。

 救いなんかどこにもなくて、毎日毎日幸せに疲れ、幸せに絶望し、幸せに嘆いて生きてきたのです。

 もうこれ以上歩けません。

 もうこれ以上背負っていられません。

 男は限界でした。

 疲れきり、しゃがれた声で助けを求めましたが、男に興味を持ってくれる人はいません。

 この箱を持った男は随分有名になっていたのですが、それと同じだけ人に嫌われていたのです。

 まずその顔を見るだけで嫌になります。

 全てに疲れ、憔悴しきった顔。全てに絶望した、暗い暗い顔。

 人は自然と光、あたたかさを求めるものです。

 でもこの男には陰と疲れしかありません。

 その上今まで散々人を無視し、好きなように好きな場所を歩いてきたのです。

 誰かに好かれるような事は何もした事がありません。

 嫌われるような事ばかりをしてきました。

 人は気味悪がって道を空け、何かされても関わらないようにと諦めていますが。腹を立てていない訳で

はありません。今更何を言われた所で、不気味がって逃げて行くだけでした。

 男は益々疲れ、全身から力が失われていくのを、乾いていくのを感じました。

 ああ、こんな事になるなんて、自分は一体何をしてきたのだろう。

 自分の幸せを求めていただけなのに、何故こんな不幸せになっているのだろう。

 男は恨みました。

 この箱も、箱に幸せがあるなどと吹き込んだ誰かをも。

 突然叫び出したかと思うと、男は泣きながら箱を殴り始めました。

 何故泣いたのかは解りません。

 でもこの箱を殴る為には、もう一度力を出す為には、泣く事が必要だったのでしょう。

 怒りと悲しみは同じでした。

 そしてそれは時に力を生みます。

 でも一時の事でした。

 すぐに疲れ、倒れ込み。その後は指一本動かせません。

 無理矢理力を出したせいで、本当に動けなくなってしまったのです。

 男はもうどうでも良くなって、そのまま目を閉じました。

 幸せも不幸せも、今となっては意味のない事です。

 疲れきった体は眠る事だけを欲していて、それ以外の何もかもを無意味なものとしました。

 このまま眠れば死ぬかもしれませんが、それもどうでも良い事です。

 生きている事に意味なんかあるのだろうか。

 これ以上生きて苦しんで、一体どうしようというのか。

 男には何も解りませんでした。

 今まで信じ、希望を持ち、どんなに疲れても背負って必死に歩いてきたこの箱も、結局ただの重くて大

きいだけの箱。

 自分は何故こんなものに執着し、何故こんなものと生きてきたのだろう。

 冷静になって見回せば、自分以外の誰も箱なんて持っていない。

 例え幸せになれないとしても、箱にしか幸せが無いのだとしても、こんなに不幸せになるよりは良いじ

ゃないか。

 誰よりも幸せにとか。誰よりどれだけ自分が幸せか、不幸かなんて、この箱のようなものだ。所詮重く

て大きく邪魔なだけの、無意味な考えなんだ。

 そんな風に今の男には思えたのです。

 そもそも幸せって何だろう。

 それを追う事で本当に幸せになれるのだろうか。

 誰かの言う事に従って、ずっと生きて生きて歩いてきたけれど、この最後の最後になっても箱はちっと

も開かない。

 降ろしてから大きくなるのは止まったみたいだけれど、だからといってどうだと言うんだろう。

 もう重いも大きいも関係ない。例えこの中に世界で一番の幸せが入っていたとしても、開けられないん

じゃあ意味がないし、じきに死ぬだろう自分にとっては何の意味もない。

 男は襲い来る眠気に身を任せながら人生を振り返り、誰もが一度は想う、あの自分は一体何だったのだ

ろう、何をしてどう生きてきたのか、そしてそれが一体なんだというんだろう、という疑問に向き合い、

じっと考えました。

 後は死ぬだけだからこそ、その意味を知る必要があると思ったのです。

 そして今初めてそれを考えるだけの余裕が生まれた事を悟りました。

 もう何も背負わなくていい、全てを投げ出した後の脱力感、哀しい程の無意味さ。しかしそこには解き

放たれた喜びが、確かにあったのでした。

 自分はもう死ぬかもしれないけれど、箱から逃れられた事を心から喜びました。その引き換えに命が奪

われるとしても、ほっとできるくらいに。



 目覚めた時、男は酷く腹が減っている事に気付きました。

 喉も渇き、眠気だけが消え去った不思議な感覚の中で、ただただそれを求めるだけの心が湧いてきます。

 すると男の前で箱がむくむくと縮んでいきました。

 おどろく事に、しおれるのではなく、ふくらむように縮んだのです。

 そしてはちきれそうに小さな箱から、今にも何かが飛び出してきそうです。

 男は慌てて手を伸ばしました。

 そして掴み、開きます。

 箱は何の抵抗もなく開きました。

 そういえば今までそれを開こうとした事が一度でもあったでしょうか。

 いつも夢見るだけで、一度も自分の手で開けようと考えた事がなかったような気がします。

 開け方を誰も知らないのは当たり前でした。そんな事を知る必要はなかったのです。初めから鍵なんて

かかっていなかったのですから。

 開いた箱からはとても良い匂いがしてきました。

 それは男が今一番欲しかった物。あたたかい味噌汁です。

 火傷しそうな程ではありません。丁度良いくらいにあたたかく、ゆっくりとそれを喉に流し込むと、全

身に命が吹き込まれていくようでした。

 子供の頃からずっと、このあたたかさと共に生きてきました。

 箱の中にはご飯もあります。

 男はゆっくりとそれを噛み、何度も何度も噛み、その度にやわらかな甘みが口いっぱいに広がるのを感

じ、つらつらと涙が流れてくるのが解りました。

 何故、こんな事に気付かなかったのでしょう。

 男が箱を開かなかったのは、本当に必要な物、欲しい物が解らなかったからです。

 この箱が重く、大きくなっていたのは、何一つ解らないのに、どこにも無い物を望むからでした。

 妄想だけが膨らみ。それはただただ箱を圧迫して、背負う男を苦しめていたのです。

 音は自分の願望と、幸せになれない自分への苛立ちに押し潰されそうになっていたのでした。

 幸せはきっと、そんな漠然としたものではないのです。

 その時に、ほんの少しだけ満たしてくれるものがあれば、それが幸せなのでしょう。

 具体的で、その時だけに必要な物。それが幸せなのです。

 願う必要はありません。どこにでもあるありふれたもので、それは感じられるのです。

 探す必要もありません。ありもしないものではなく、そこにあるものに幸せがあるのですから。

 どこにもないものに幸せも不幸せもないのです。

 それを悟った男は、もう二度と箱に触れようとはしませんでした。

 誰もがいつかそうするように、男はそれを心のどこかにしまったのです。

 万能の箱。夢の叶う魔法の道具。確かにそうかもしれません。でもそんなものに意味はありませんでし

た。必要でもありませんでした。

 本当に望んでいるものが解らない人には無用の箱。

 そしてそれを解る人には、もう必要の無い箱。

 幸せの箱はそういうものなのでした。

 おしまい。




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