この腹という奴


 この腹という奴は如何ともし難いものがある。

 我が一部でありながら、何と身勝手な奴である事か。

 全く私の言う事を聞かず、まるで私ではない別の何かであるかのように、私を苛む。私に逆らう。

 それがいつくるか私自身にさえ知らせない。突如襲いかかる。

 一瞬だ。一瞬で決まるのだ。

 腹が不可思議な動きをし、不意に痛みが走ったその時が、もうすでに私というモノの終りの時だと言っ

ても過言ではない。

 誰もが避ける事は出来ず、来ればもう後はやる事は一つしかない。

 それは防ぎようがなく、その上唯一つの事でしか解消出来ない。

 しかもその唯一つの方法が、非常に厄介ときている。

 まだ我々が野生動物として生きていた時は良かっただろう。それでも良かった。突如来たとしても、何

に気兼ねする事なく、思うさますればいい。誰も文句は言わない。それどころか、それが自らの縄張りを

知らしめる事にもなったのだ。

 しかし今の世、我々人間の世というものは勝手が違っている。

 清潔、衛生、そういうものに拘り始め、生活の上での快適さを求め続けている我らにとって、これは由

々しき敵である。

 もっと正確に述べれば。我々がそれを行う為に、わざわざ別の、それ専用の場所を作った時から、我ら

人類の共通する敵となったのだと言えよう。

 そしてその行為の為に有無を言わさず現在行っている何かを中断、或いは放棄しなければならない事も

また、非常に不愉快な事である。

 もし人がその行為をせず、睡眠はとるとしても、それ以外の時間を全て自分の意志だけで使えたとした

ら、これは真に結構な事で、間違いなく幸福であると言える筈だ。

 我らが一生の内、その行為に捧げなければならぬ時間の、何と膨大な事か。

 その行為から新たな考えが生まれるという副産物はあるものの、それだけではその膨大な時間を埋める

代償にはならぬ。

 まことにこの腹という奴は厄介なものである。

 何故に我々はこの腹という奴を自在に動かす事が出来ぬのであろう。

 我らの脳が動かしているのは確かだというのに、何故それを操る事が出来ぬのか。

 指先や足のように思うまま動かす事が、何故出来ないのだろう。

 野生で過ごしていた頃は、確かに我慢する必要がほとんどなかった。だからそういう機能が備わってい

なかったとしても、或いはあったとしてもさほど進化していないとしても不思議ではない。

 だが今のような世、それに耐える事が必要になってから少なくない時間が我々の歴史の上に流れている

というのに、何故我々はそれに応じた進化を遂げていないのか。

 人が必要に応じて進化してきたのならば、この腹具合という一大厄介事に対し、何らかの対処、処置を

講じていてもまったくおかしくはない。

 我慢する事にも慣れる事が出来る。

 確かにそうかもしれぬ。耐える時間を延ばす事は可能であろう。だがそれではそれに伴う苦しみを解決

する術にはならぬ。

 この苦しみ、この耐えようもなく、我らの意識を全て奪い、他へ集中する事を許さぬこの痛み、これは

果たして必要な事なのか。はっきりと不必要だと言えないのか。

 何かそれを知らせる機能は必要だとしても、何故それが痛みなのだろう。単に腹にそれがたまってしま

っていると、それだけを知らせれば良いではないか。

 例えば満腹を覚えるように、それを覚えれば良いではないか。

 何故ここまでこんなものに我々は苦しめられなければならないのか。

 ここまで意識を奪われなくてはならないのか。

 一時耐えるだけで、こんなにも苦しみを味わわせられなければならぬのか。

 不条理ではないか。

 誰かが生物というものは胃腸を中心として出来ており、脳でも手足でもなく、胃腸、要するに食うとい

う事を如何に成し遂げるかだけを考えて作られている、と言っていた。

 生殖行為も大事で、子孫繁栄も結構な事であるが、まずは自身の生存が目的であるのだと。

 確かにそうかもしれぬ。我らの生を総合してみても、結局は食う為に生きている。いや、食うからこそ

生きていける。生命が何をするにしても、まず生きていなければならない事を思えば、それは至極当然の

事であろう。

 だから一番重要な胃腸、つまり腹に関する事は一番強い感覚で伝えられる。確かにそうであるのかもし

れぬ。ならば痛みで伝える事は合っているのかもしれぬ。

 しかし食うという行為も随分変わってきた。その内胃腸をさえ必要としなくなるのかもしれぬ。

 今でもそうだ。今の胃腸というものに、野性で暮らしていた時ほどの価値があるのかと言えば、それは

疑問であろう。その機能が衰えたとしても、平気で生きていける社会が生まれつつあるからだ。

 吸収しやすい物もあれば、直接血管に流し込む事も出来る。

 勿論それだけでは厳しいかもしれぬが。将来的にはそれが進み。胃腸の調子に煩わされない世の中にな

ると思える。

 そうである今、人はいつまでこの腹という奴に振り回されなければならぬのだろう。

 その行為によって苦しみと邪魔を与えられる必要が、今あると言うのだろうか。

 疑問である。大いに疑問である。

 この腹という奴のありがたみを忘れる訳でも、不当に評価する訳でもないが。あまりにもこの腹という

奴は厄介ではないか。そろそろ肉体の重要性を腹よりも脳へと持ってくるべきではないのか。食う為に進

化するのではなく、考える為に進化する。そういう段階に達しても決しておかしくはない。

 生命と言うものは、少なくとも人というものは、そろそろ今までとは別の方向に抜け出しても良いので

はないだろうか。

 毎日毎日この腹という奴に悩まされる度、私はそんな事を思う。私がやりたいのは、生きるのは、こん

な事をしたいが為ではないのだ。何故に自分自身にさえ苦しめられていかなければならないのか。何故に

毎日毎日こんな事に煩わされなければならぬのか。それは愚かな事ではないのか。

 私が生来胃腸を強くしないからそう思えるのかもしれないが。この意は強ち外れてはいないと思う。

 最早腹を中心として生きる時は、終わっているのではないのか。

 一体我々はいつまで腹に生かされ、腹によってその生を終わらせられる事を続けていくのだろう。

 自分の腹にさえ振り回されるような人生は、そろそろ終りにするべきではないのか。

 その為にこそ人は他の動物とは別の進化、別の道を選んだのではないのか。

 自然にさえ収まらぬ、ともすれば自滅へ導くその道を、我らが選んだのは何の為だったか。もう一度考

えなければならない。

 人がもし食べる、消化する、排泄する、そういう流れからも抜け出せたとすれば、それは自然に与える

有害さも大きく減少し、地球環境そのもにさえ迷惑をかけず、ある種完全に別個の存在として、今よりも

遥かに無害に生きられるのかもしれぬ。

 いや、そうする事で自然の恩恵を少なくし、今よりも更に自然に対する感謝を忘れさせてしまう事にな

ってしまうのだろうか。

 それは解らぬが。しかし結局人間は自然の中が一番住みよいという事実が、食うという行為を別として

も変わらぬのであれば、食うという腹の定めから逃れる事が出来れば、より良い環境を作る事が楽になり、

感謝を持ちつつより無害になるという、誰にとってもまことに良い状態となるのではないか。

 いや、違うか。作物というものに拘る必要が減じれば、それは人の利益と離れ、そうする事で人はそこ

に価値を見ず、より暴力的になるのかもしれぬ。

 だがしかしこの腹という奴から逃れる事が出来れば、人の思考は確かに大きく変化し、それに伴いその

行動も大きく違ってくる事は確かであろう。

 それが何を生むのかはその時になってみないと解らないとしても。

 自然を食うのではなく、ただ共に暮らす。もしそういう日が来るとすれば、それこそがもう一段進化し

た姿と言える。

 それを願わない者などいまい。

 ただ、それは文字通り、味気ない日々には、なるであろうが。




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