皮肉屋ねずみの介五郎


 私の名前は介五郎、しがないねずみでございます。

 人家の軒下にて生まれ、人様の食べ残しなどをいただいて生き延びて参りました。その私も大人になり

まして、身体も立派なもの、感謝しなければならないのでしょう。確かにお世話になりました。

 しかし何故に感謝する事が必要なのか、という気持ちも、正直ございます。

 私は人様のおこぼれをいただいてきましたが、だからといって特別に温情をいただいた訳でも、私の為

にわざわざ残しておいていただいた訳でもありません。

 人にとっては余分な物、ゴミでございます。それを横から頂戴(ちょうだい)したとしても、一体感謝

などする筋合がございましょうか。

 私は自分自身の力で生きて来たのです。自分で食べ、巣を作り、伴侶(はんりょ)を見付け、今まで生

きて参りました。今更誰に感謝する事がございましょう。

 感謝するとすれば、食べれる物をこの世にお作り頂いた自然に対してでございます。私がこの世に居る

事を許していただいた、大自然様に対してでございましょう。それ以外にはありますまい。

 けれども人は私に今生きていられる事を、感謝しろと申すのです。人間様に感謝しろというのでござい

ます。そんな事を当たり前に言えるとは、何と傲慢(ごうまん)な存在なのでしょう。この世の主にでも

なったつもりでしょうか。

 先日、このような事がございました。

 私は朝から今日の糧を探す為、必死に家中をうろついていたのです。私共も腐った物は食べません。常

に新鮮で一番良い物、そして一番良い所を食べたいと欲しております。それは人と変りございません。

 例え人からどう見えていようと、私共も私共なりに贅沢もし、より良き生活を求めておるのです。

 そうして様々な場所を探したのですが、その日は寒かったからでしょうか、不幸な事に家人が外出せず

におりまして、もっと運が悪い事にその一人とばったり出くわしてしまったのです。

 私の生もこれで終わりだと思いました。何故ならその人間は私を見ても悲鳴をあげるではなく、じっと

睨んでいたからでございます。

 怖くなかったかと問われれば、勿論怖かったと答えます。何しろでかい、人間と言うのは山のようなの

です。そんなモノに睨まれれば、流石のねずみといえど、それは怖いのでございます。

 場所も悪く、とうてい逃げられるとは思えませんでした。近くに隠れ場も無く、丁度行き止まりになっ

ていたのですから、あれですな、人が言う袋のねずみというやつです。

 目の前にはドアという物があったのですが、私共では開く事など出来ません。あれもまた壁ですな。

 こういう場合ですと我々はほぼ間違いなく叩き潰されるか、むんずと掴まれて罠へと投げ込まれます。

 どちらにしても助かりません。人間と出会ったのが運の尽き、真に恐ろしい存在なのです。

 しかしその人間は何を思ったのか、見逃してやるからさっさと失せろ、と言ったではありませんか。

 そのような事言われるまでもございません。私は必死で逃げました。気が変わらない内に逃げなければ、

殺されてしまうのでございます。私はその声を聞いて思い出していたのです。この人間がこの家で一番恐

ろしい人間である事を。

 この人間は後始末が物憂い性質なのでございましょう。止めを刺さずに睨みつけるだけの事が多いよう

でございます。それならば確かにありがたい存在と言えなくはないかもしれません。

 ですがこの人間は、いつもきっちり殺虫剤などをお見舞いし、散々暴れた後に初めて、見逃してやる、

などというのです。

 そして逃げなければ、間違って刃向おうでもしようものならば、怒り狂って容赦なく止めを刺されてし

まいます。

 その時にもこの人間は、別に殺したくも無いのに何故ここに来るのだ、お前らにも縄張りというものが

あるだろうに、外へ居れば良い、こんな所に来るから悪いのだ、などと申すのでございます。それも涙で

も出しそうな、如何にも哀しげな顔をして。

 まったくおかしな人間です。性質の悪い悪鬼でございましょう。

 私共といたしましては、このような嬲(なぶ)り殺しに合うのは辛うございます。いっそ一思いに殺し

て欲しいと思います。見逃すと言いながら、この人間は決して私共を許さないのですから、辛いといった

らありません。

 この人間は私共に情をかけているのではなく、ただ自分の目の触れぬ所で、自分が知らない内に死んで

いて欲しいのでございましょうな。

 罠を仕掛け、負傷させる事も辞さないのでありますのに、見逃してやるなどと何と言う言い草でしょう

か。私共は確かにちっぽけな存在と思われているのでしょうが、こんな惨い目に合ういわれはございませ

ん。ちっぽけだからと言って、好きなように弄(もてあそ)ぶ権利が、一体誰にございましょうか。

 外に出ろ、縄張りなどと申しますが。人の縄張りなど我々には関係なく、このくそ寒い日に外になど居

ようものならば、確かに死んでしまいます。

 確かにこの家は人の作った物、そういう意味で人に権利があるのかもしれません。

 しかしそんな事は私共にはまったく関係の無い事。人が人の勝手で生きるように、ねずみもねずみの勝

手で生きておるのです。生きる為に他の何者にも遠慮しないのは、人間も同じでございましょう。

 人家が居心地が良く、付近で生きる場所が他に無いから、危険と知りつつもここに居るのでして。ねず

みが何処に居ようが、それを許すも許されるもございません。人に何を言う権利がございましょう。

 この世の全ては大自然様の居場所でございます。それを人が勝手に奪って、さも初めから居、自分が全

てを創ったかのような顔をされては、流石の私も黙ってはおられぬのです。盗人猛々しいとはこの事であ

りましょう。

 確かに盗人から奪う事も、罪に変りはございません。悪い奴に悪い事をしても平気などと思うのは、そ

れこそ盗人猛々しい考えでございます。

 しかしそれを人間などに言われる筋合はございません。まったくもって腹立たしいのです。

 ねずみとはいえ、いつもいつも怯え耐え忍ぶと思ってもらっては困ります。私共も生きておるのです。

言う時には声を大きくして言わせていただくのです。

 けれどもそれもまた虚しくも思うのです。

 所詮は同じでございますから。私共も人間も同じなのでございます。

 腹が立つと言うのなら、そのような生きる仕組みに対して、文句の一つも言いましょうか。

 奪わねば私共は生きられません。ならば生そのものが罪となりましょう。何故私共のような罪深い存在

がいるのでしょうか。どうしてそういう風になってしまったのでございましょうか。

 人間と私共だけでなく、自然から生れた者達は、皆同様に他者を喰らって生きております。しかし誰も

がその事に罪の意識など抱きません。当たり前なのです、それが生きると云う事。奪い合う、或いは命を

繋ぎ合う事で、私共は生きておるのでございます。

 人間はそれに対し、罪の意識を抱くようです。

 しかも罪に思いつつ、いや、その罪に浸りながら、恍惚さえ覚えながら、遠慮なく喰らうのでございま

す。私共も遠慮なく殺すのでございます。

 そのくせ私共の生存を許す、許さないなどと、そのような事を平気で申すのです。生かしてやる、生か

してやらない、何故そのような事を人間なんぞに決められる筋合がございますか。

 真に人間とは嫌な奴でございます。

 ぺらぺらぺらぺらとろくでもない事を言うものでございますな。喋れば喋るだけボロが出ましょうに、

何故にああもうるさい存在なのでしょうか。

 他にも色々考えますな、人間は。そうそう地獄とやらがありますか。でもあれは実に人の世にそっくり

でございますな。一生懸命生きながら、常に罰と罪の意識を強いられる。何処を見ても不満しかない。真

にそのままでございます。

 あれを考えた人間は、きっと自分の世を見て、そのように思ったのでしょうな。

 しかし人間達はその皮肉さえ理解できず、教えとやらをいつまでもありがたがって、都合の良いように

使っておるのでございます。

 ようするに死ねば極楽、生きるは地獄でございましょうな。

 そんな風に言われても、ねずみの私にはどうでも良い事でございますが。たまには人間に皮肉の一つで

も零してみたくなるのです。腹が立って腹が立って、どうしても何か言いたくなるのでございます。それ

だけでございます。

 私共も人と同じ、しかもよりちっぽけでございますれば、何を言っても無意味なのは解っておるのです。

 所詮ねずみは人に踏み付けられるだけの存在。人が何かから常に追いたてられているように、私共は人

間に追い立てられる存在です。先程の地獄を引き合いに出せば、私共にとっては人間が鬼になりますか。

 誰も彼もが好き勝手やっております。

 ただしねずみもねずみで好き勝手やっております。同じなのでしょう。

 大きいか小さいかだけで、お互いが良く解らないだけで、何でもない事なのかもしれません。

 人間が何をしようと、ねずみには解りません。

 ねずみが何をしようと、人間には解りません。

 多分、初めから解る必要も無いのでございましょう。

 一つだけ言わせていただくのならば、自分にとって都合が良いだけの存在など、何処にも居ないという

事でございます。


                                                          了




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