浮遊学士


 私は夢でも見ているのか。

 ここはどこなのだ。

 どこならば私はこの光景に納得できるのだろう。

 解らない。

 何も無い空間に一つ道がある。

 その道は一本道だが真っ直ぐではなく、所々曲がりくねり、蛇のようにも見える。

 どこまでも続く、長い長い一本の蛇。

 私はその蛇の背中に居て、どうしていいか解らずその景色を眺めている。

 独りではない。

 道の両端には学士が浮いている。彼らは私より少し高い位置に居て、真っ直ぐに向けた目線を合わせない

よう左右交互に綺麗に並んでいる。

 静かで、何も話さない。

 互いに関わり合おうとはしない。

 何故浮いているのか、浮く事で何になるのか、そう言った事も解らない。もしかしたら彼ら自身でさえ解

らないのかもしれない。

 学士は浮いていて、浮くがままに浮いている。

 浮くことだけが目的であるかのように。

 ここがどこなのか、どういう場所なのか、彼らなら知っているのかもしれない。

 しかし話しかけられるような雰囲気ではない。

 学士達は全てを無視し、前だけを見ている。何も無い空間の先を。誰も居ない正面を。

 道は一つしかない。人生と同じだ。そこ一つしかない。

 気味が悪いが、進むためには、ここから出るには彼らの前を通るしかない。

 私はしかたなく一歩その道を踏み出した。

「私は知っている」

 突然視線に触れた学士が声を発す。

 目線は動かない。彼らは前だけを見ている。

 そして独り言を投げかけるかのように言葉を続けた。

「お前が生まれた時、三度だけ大きく泣いた。お前は何も解らず、捨てられた子犬のように怯えていた」

 私は立ち止まり、こわごわと彼を見上げた。

 その言葉は私に向けられたものなのだろうか。

 だとしても意味するものが解らない。何も解らない。

 そのまま黙って待ってみたが、彼はそれ以上何も言う事はなかった。

 私は諦めてもう一歩進む。

「私は知っている」

 次の学士が言葉を発す。

 私が彼らの前に出る事、視線の方角に入る事が彼らを動かす鍵となってでもいるのか。

「お前は何度ももらし、泣きわめいた。母を求めて。何もできないお前は、ただ呼ぶ事しかできなかったの

だ。そしてそうする事が愛情であると勘違いしていた」

 私は何故かその言葉にぞっとしたが、その言葉が意味する事は何一つ解らなかった。

 ただ何かおそろしい事を言っている事だけは感じ取れたのだ。

 彼らは私にとって、何かおそろしい事をしている。それだけは解る。

 嫌だ。引き返したい。この場所から少しでも離れ、どこかへ消えてしまえたら、もしそうできたらどんな

に良いだろう。

 全ては嘘だ。こんな事が起きるはずが無い。これは夢なのだ。

 恐怖に怯えた人間が誰しもそう思うように、私もまたそう思っていた。

 だがその意に反して、足が前に進んで行く。

 一度踏み出せば、立ち止まる事も戻る事も許されないという事なのだろう。

「私は知っている」

「私は知っている」

 学士の前を通る度、彼らは一つ一つ言葉は発した。

 初めは解らなかったが、それはどうやら私自身の人生の記録であるようだった。

 赤ん坊から次第に大きく成長し、彼らの話す私自身の人生が今の私の年齢に近付いていくにつれ、身に覚

えのある事が増えてきた。

 というよりも、後半全ては身に覚えのある事ばかりだった。

 忘れたくても忘れられない思い出達。

 私は耳をふさいだが、ふさいでも無駄だった。学士の声は直接頭の中に響き、その朗々たる響きは否定を

許さない。

 彼らは私が何を言っても答えてはくれなかった。

 一つだけ、学士が知っている私の人生の出来事一つだけを私にぶつける。

 次々と、私の心と頭にぶつけてくる。

 子供の頃、祖母の財布から小銭を盗んだこと。

 自分の失敗を友達のせいにして、もっと恥をかいたこと。

 皆と一緒に怒られるはずだった時、私独りだけが隠れていたこと。

 良い事もあったが、ほとんどはそういったどうしようもない、小さな、そして自分を卑下したくなるだけ

の出来事であった。

 それを延々と一つずつ学士が私にぶつけてくる。

 引き返せないのならば、せめて立ち止まりたかった。もうこんな事は止めてくれ、私はそんな事は聞きた

くない。何度そう叫んだだろう。

 でも足は止まらない。学士達に導かれるが如く、一歩一歩進んでいく。

 それでも必死に耐え、何とか私が知っている、私が体験した最も近しい出来事までやってきた。

「私は知っている」

 学士が言葉を発す。

「お前はお前の愚かな判断のせいで交通事故に遭い、死ぬ所であった。しかしすぐに目を覚まし、自分を取

り戻した。失った記憶もあるが、お前である事は変わらなかった」

 それを聞いた瞬間、私はすうっと自分が浮き上がるのを感じた。

 そして頭が真っ白になり、何も解らなくなった。

 目を開けた時、私は病院のベットの上に寝かされていた。

 起き上がろうとすると全身に酷い痛みが走り、情けない声が出た。

 ひーひーと臆病者のような吐息をもらしていると、少しずつ痛みが和らぎ、落ち着いてきた。

 大人しく寝ている限りは痛くないらしい。

 そばには誰も居なかったが、少し目を泳がすと部屋の向こうに誰かが居るのが解った。

 しばらく見ているとその誰かと目が合い、その誰かは興奮したように私の側に寄ってきた。

「ああ、良かった。もう大丈夫です。もう大丈夫ですよ」

 私は何を言われているのかさっぱり解らなかったが、その言葉に不思議と安心した気持ちになり、ゆっく

りとまぶたが落ちてくるのを感じた。

「今はおやすみなさい」

 最後にそんな声が聞こえたような気がした。

 再び目を開けると同じベットの上で、頭に光が差し込んでいるのが解った。

 まぶしい。

 光を見るのが随分久しぶりであるかのような気がする。

 そばには昨日見た顔があり、簡単にだが経緯を説明してくれた。

 私は交通事故に遭い、意識不明のままこの病院まで運ばれ、昨夜三日ごしにようやっと目を覚ましたらしい。

 どうも危険な状態だったようで、皆容態を心配していたのだが、思っていたよりも私の意識がしっかりし

ているらしく、安心し、また喜んでもくれた。

 私はあの学士の事を聞いてみようかと思ったが、せっかく目覚めたと思ったら変な事を言い出した、など

と思わせるのもよくないと思ったので、黙っておく事にした。

 もう一度あの場所へ行くことになった時、きっとこの事もまた、私は知っている、という言葉と共に語ら

れるのだろう。

 私はそのままゆっくりと考える。

 あれはただの夢だったのかもしれないが、もしあそこが死後の世界、或いは死という事であったなら、あ

れこそがまさに地獄という場所なのだろう。

 人を罰するに暴力も罵声も要らない。ただその人がしてきた事を一つ一つ並べ立てて、告げるだけでいい

のだ。

 私の人生は恥の連続だった。

 多分、多くの人間の人生もまたそうなのだろう。

 それを一つ一つ、生まれ出でてから死ぬ瞬間までの事を告げられる。そのなんとおぞましい事か。

 逆に人を讃えるのにもこれ以上の方法は無い。

 事実をありのままに告げる。

 それが最高の名誉であり、最悪の罰なのである。

 私の人生があとどれくらい続くのかは解らないし、解りようもないが、なるべく恥の少ない人生を歩みたい。

 心からそう思った。

 そんなお話。




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