河豚の呪い


 ある女性から面白い話を聞いた。

 私が贔屓にしている肉屋に勤めている方なのだが、愛想の良い方でいつも楽しい話をしてくれる。

 その中でも今日聞いた話は、不思議というべきか、なんとも妙な話だった。

「フグの呪いなんです」

 そんな事を言われたのだ。

 何でもその女性は人生初のフグ料理を、必ず誰かに奢ってもらうという誓いのようなものを立てておら

れ、それを実現すべく上司や付き合っている男性に対し、今までちょこちょことフグを食べさせてもらう

約束を取り付けてこられたらしい。

 そこまでなら単なる一つの話で終わってしまうのだが、この話にはまだ続きがある。

「どうもね、そうなるのですよ」

 何でも河豚を食べる約束を取り付けると、その願いが叶わない内に上司かその女性のどちらかが職場か

ら離れ、付き合っている男性とは疎遠になってしまったりと、どうしても成就されないらしい。

 だからこの女性は、それが自分を食べられまいとする為の、フグの呪いなのだと言われる。

 私はそんな事があるものだろうかと思うのだが。

「ありますよ、あります。フグの呪いは・・・・・あるのです」

 指摘する度、その女性は何故か小声になってそんな事を囁くのである。

 そんな風に真顔で言われると、私もふとそんな気になり、神妙な顔で頷いたりしたものだ。

 まあ、そんなこんなですき焼き用の肉を買い、帰宅して何故かしゃぶしゃぶにしてしまったりしながら、

私はその日は何事もなくすごしたのであるが、どうにもフグの呪いの話が頭から離れなかった。

 もしかしたらその女性だけの特異な呪いなのか、たまたま偶然が重なっただけなのか。そういう事は明

かしようが無い、だから考えても仕方が無い事なのだったが、人情としてそんな話を聞くと確かめたくて

たまらなくなる。

 そこで次の日、私は少ない貯金を全額おろし、財布を恐々持ちながら、見るからに高そうな河豚料理店

へと向った。柄にもなく予約まで入れてある。人生初予約である。

 しかし人間いざとなれば何とかなるものだ。

 店の方に色々聞きながら何とか河豚を堪能し、ああこういうものであったかと酷く満足した。確かに美

味かった。そして高かった。

 だが満腹の腹を撫でながら、よくよく考えてみると、これではまったく意味の無い事に気付く。

 まず誰かと河豚を食べる約束をしなければ、それはまったく意味が無いのである。単に河豚を堪能して

いて、私は一体何をしに来て居るのか。

 確かに河豚を堪能する事が、河豚料理店での正しいあり方だとは思う。しかし、しかしだ、私は今日そ

の為に少ない貯金をはたいた訳ではなかった。

 つまりはこの一食の代金を無駄にしたのだ。私は心が張り裂ける程の衝撃(それは金額の多さと生活水

準の低さに比例する)に打ちのめされ、数日立ち直れず。それから数日の間、貯金をおろした銀行を思っ

ては、しばしば溜息を洩らした。

 しかしいくら衝撃を受けようと、打ちのめされようと、そんな事で人の好奇心は止まらない。むしろこ

うなった以上、止めたくはない。

 巷で噂のリベンジである。ハイカラである。つまりはハイカラー、高い襟である。元は皮肉で使われた

昔の流行語である。

 こんな無駄話をする事から見ても、私の熱意が解っていただけると思う。

 私は毎日真面目に働き、河豚料理を食べられるだけのお金を貯め始めた。それはもう懸命に。

 確かに、今ではスーパーなどでも機嫌の良い所なら河豚を売っている。いくら高級品とはいえ、安い物

を探せば、おそらくいくらでもあるに違いない。しかしここまで来たからには、如何にもソレであるとい

う仰々しさを整えなければ、心から湧き上がる情熱を満足させる事は出来ない。

 もうそのような本当に河豚だか何だか解らないような物では満足出来ないのだ。

 河豚、そう漢字で書いて河豚。そういう物でなければ、決してこの心は満たされない。こう云う事は雰

囲気こそ大事なのである。河豚料理店へ行き、高い金を払って食べる。これはそういう儀式なのだ。

 もう食事とかいう軽々しいものではない。これは古来より伝われてきた儀式なのである。

 うむ、そうに違いない。

 だから貯めた。数月かかって私は貯めた。

 もう誰にも私を止められない。店員が門前払いでも喰らわせようとしたならば、この勤労の結晶たるお

札達でその頬をひっぱたいてくれよう。

 前と同じ失敗もしない。これは儀式なのだから、手順をきちんと踏む事が大事。

 私は意を決して例の肉屋へ訪れた。ここ数月の間は何分節約に勤しんでいたため、このお店とも疎遠に

なっていたが、道を忘れるはずがない。私は堂々たる足取りでその店へ向った。

 手にはお札達、もう誰にも文句を言わせない。

 私は店の前に立ち、店番の方にフグの呪いの女性を呼び出してもらった。

 しかし、それに対して返ってきたものは・・・・。

「あ、あの人は引っ越されてこの店辞められましたよ」

 その時の私の衝撃、それをどう言い表せば良いのか。

 手にしたお札を店番がじっと見ていたので、泣く泣くそれなりのお肉をいただき、意気消沈して自宅へ

ととぼとぼと歩いて帰った。

 私の数月の苦労は、一塊のお肉へと変わったのである。

 フグの呪い、それはかくもおそるべき呪い。

 まさか約束する前に疎遠になってしまうとは、流石に予測する事が出来なかった。もしかすればあの女

性は、知らず知らずの間にこうして河豚を食べる機会を逃していたのかもしれない。

 今までも、そしてこれからも。


 河豚、それは庶民が望んではならないものなのだろう。

 やはり庶民は肉なのか・・・・。


                                                     了              




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