不確定未来


 時間というものが枝分かれする無数の水の流れのようであるならば。

 この星に住まう何十億という人間の、そしてそれ以外の無数に居る動植物達。

 更には宇宙に居るだろう数多の生命とそれに近い物々。

 その全ての行動一つ一つに対して未来は無限に変化するという事だろうか。

 もしそうだとすれば、今目の前に無いもの、居ないはずの誰かの思いや考えにさえ自分の未来が左右される

という事になる。

 いや、自分というものが所詮はその無限分の一の選択一つでしかないとすれば、自分以外の圧倒的多数の意

思の集合体によって自分の運命が決まっている、と考える方が正しいのかもしれない。

 では自分の意思や行動に意味は無いのだろうか。

 おそらく、そうではない。

 自分もまた他人から見れば、その圧倒的多数の一人であるからだ。

 そう考えていくと、自分の行動というものは、自分よりも他人の方により大きな影響を及ぼしてしまう、と

いう事になる。

 不思議だが、本当の事だ。

 自分の生、意志というものがはっきりと自覚できないのも、そのせいかもしれない。

 自分より他人の方がよく見える事も、自分より他人の方が自分により大きく関わっているからだ、と理由付

ける事ができる。

 おかしな話だが、普通の事だ。

 だから他人の事ばかり考えているような、他人の見方や考え方だけを気にして生きているような昨今の我々

の生き方も、当然といえばそうなのだろう。

 自分よりも他人の方により大きな影響を与える事を皆解っているから、他人の事ばかりを気にして、そこか

ら自分の行動の結果、自分というものの世界への影響を知ろうとする。

 他人を気にする事が、自分を知る事に繋がるという訳だ。

 納得いかないが、そういう事だ。

 とはいえ、そうして他人ばかり気にして、そこから自分を見出そうとしても、所詮は圧倒的多数の内の一つ

でしかないのだから、どうにも薄い。

 薄く薄く引き延ばされた自分から何かを探そうとしても、それは無理な話である。

 どれだけ知ろうとしても、見ても、満足できるようなものを他人からは見付ける事は不可能に近い。

 つまり他人にも、自分にも、どこにも自分が見付からない。

 見えたとしても、限りなく薄い。

 それでは到底満足できない。

 だから懸命に探した分だけ疲れ果て、空虚になる。

 自分が空っぽである事を思い知る。

 まるでこの世界に自分が存在していないかのように思えてくる。

 でもそうでは無い事も知っている。

 或いは認めたくない。

 だから人は家族、友人、恋人というものを作ったのだろう。

 薄くて見出せないのなら、もっと深く濃い関係を築き上げればいいのだと。

 最も良いのは子供を作り、育てる事である。

 子供は親の肉からできた分身であり、他人ではあるが、半分は同じ姿形を持つ。

 だから自分の生を最も実感できるのは、わが子を見た時なのだ。

 ペットを飼う事もいい。

 彼らは異種族であっても子供に最も近しい存在だ。

 そして切ない事に彼らもまた我々を好いてはくれる。

 子供でもペットでも我々の世話が必要だから、その生そのものが自分の行動の結果という事になる。

 そこには確かな自分が居る。

 大切な人との関わりがある。

 記憶がある。

 赤ん坊ともペットとも言葉が完全には通じ合わないという事もそれを助けるのかもしれない。

 よく解らないからこそ、より相手を知りたいという願望に変わるからだ。

 その想いは愛と呼ばれ、最もそこに自分を感じ取れる瞬間でもある。

 一人ではとても感じられない喜びだ。

 自分を実感する為には、誰かの力が必要なのである。

 大切な誰かと共に生きる事が、自分が生きているという実感に変わる。

 自分にこもっている限り、自分だけの心で考えている限り、何も満たされない。常に渇き、飢えてしまう。

 他人と共に生を見出す事が喜びであり。

 その誰かと共に未来を選び取る事が幸せなのだろう。

 あなたがどれだけ求めても満たされないのは。

 それを自分の中だけに求めているからである。

 幸福は相手と自分が結び付いた中にある。

 一人だけでは実感できない。

 それはきっとあなた自身も解っている事であるはずだ。




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