生への不条理な恐怖


 私は生きる為に生きている。馬鹿馬鹿しい言い方だが、それ以外に言いようはない。生きるという事を

突き詰めて考えれば、確かにそういう事になる。私は生きる為に生きている。

 しかしこの生きるというやつが、何故か私を酷く苦しめる。

 生きる為に生き、そうであるからには最善の状態である筈のこの生きているという状態が、何故かとて

も怖くなる時がある。一体どうしてなのか。

 生まれて初めの頃は、つまりはよく言われる子供の頃はこんな事はなかったと思う。何の不安もなかっ

た、とは言えないが。それでもこの生に対し、恐怖心も何らの疑問も抱かなかった事を覚えている。

 私は生まれながらにして、生に恐怖心を持っていた訳ではない。それは確かな事だ。

 しかしいつからか、生に対して恐怖心を持つようになった。今ではむしろ死の方が身近に感じるくらい、

生が解らなくなっている。

 何が、と問われれば、私にも解らない。生というものを解っていた訳ではないし、そうはっきり問われ

ても、確かに漠然として言いようがないのだが。ともかく、ある時を境に生へ疑問を持つようになってし

まった。

 原因やそれが何かははっきりとは解らないし、これからもその答えが出るとは思えない。

 ただそれに対し、幾らかは想像出来る事がある。

 私が生に不安が無かった頃、つまりは子供の頃、私には確かな道が見えていたように思う。一生とは言

わないが、進むべき道、進める道、は確かに見えていた。

 小学、中学、高校、大学、そして就職。それらは漠然としているものの、確かな道筋として私の前にあ

り、そこに絶対的な強制力はなくとも、これを進めばまあ無難である、という一つの道が見えていた。

 しかし今は違う。何の道も見えないし、これから作られる事もないだろう。この先何があるのか、何を

すべきか、何処へ向かうべきなのか。そういう昔見えていた道は、とうに踏み越えてしまい、別のどこか

解らない場所へ立っている。

 決められた道、無難な道というのが、無いとはいえないのかもしれないが、昔ほどには感じられないし、

そこに安心とかそういう気持ちが芽生えない。不安がある。

 それは、初めて私が私の道を自分で決められる、自由である、という事なのかもしれないが。今更そん

な事を強いられた私は、負担としか感じられない。そんな物はもう望んでいないのだ。

 お前の自由にしろ、私の自由にしていい。その言葉の何と恐ろしい事か。

 何も無い。そこに何があるか解らない。そこは常に未知なのだ。だからこそ怖い。解らない事が怖い。

私は先の定まっていない未来が怖い。私の自由が増せば増す程に、私はそれが怖くなる。何の保証もない

道を進むのは、恐怖でしかない。

 地図も無く、見知らぬ場所へ放り出され、しかしともかく何処かへは進まなければならない。そんな状

況に対して、私は恐怖を感じている。

 初めは頑張ろうとしたのかもしれない。それに応じようとしたのかもしれない。しかし次第に未来その

ものにさえ、嫌悪感を抱き始め。現状のままで、このまま一生居られればそれで良い。もう変化など必要

なく。今のまま、今の暮らしが永劫に続くとしたら、何て幸せだろう、とまで考えている。

 そんな固定された状況が、本当に幸せかどうかは解らない。しかしその方が遥かに楽だと思ってしまう。

そして私は、その楽というものから逃げたくないのだ。

 もし今が口にするのもはばかられるような凄惨な状態であったなら、かえって開き直れたかもしれない。

一年先十年先の心配をせず、ただ今日の飯、今晩の寝床だけを心配できたとしたら、それだけを考え、そ

の事だけに力を注げば良いのだとしたら、きっと私は幸せだろう。

 間違っている。それは不幸だ。などと誰に言われようと、今の私なら、それを迷わず幸福と呼ぶ。勿論

そういう状態にある時の私がどういうかは知らないが。

 しかしこんなおかしな不条理な恐怖を味わわずに済むのならば、私はその状態を幸福と呼ぶだろう。こ

の苦しみを知っていれば、例えこれが幸せな悩みだとしても、私はそれが消える事を望んでしまう。

 皮肉な事に、今日の心配が要らない、そして多分明日も無事に飯を食える、ゆっくり眠れる。そういう

今の状態が、言ってみれば生として満たされた状態が、私に恐怖を与える。

 この満ちた状態が崩れるのが恐ろしいからかもしれない。或いは恐怖心というものは、人にとって必ず

必要な何かなのか。

 とにかくこの恐怖には耐えられない。一度手に入れたモノが、未知なる未来では奪われているのかもし

れないという可能性。良くなっているかもしれないが、悪くなっているかもしれない、という曖昧さ。そ

ういう未知への、しかし必ず来る何かへの、恐怖心が私を捕らえて放さない。

 それが未来ならば、私は未来などいらない、今さえあればいい。今がずっと続けば良いではないか。

 時間など今という時のまま永遠に続けば良いのだ。変化無く、永遠に。そして安定し、同じ時を過ごせ

ば良いのだ。

 子供の頃は焦がれていた未来が、今では重荷としか感じられない。

 私の事は私の変化が理由となるしかないのだから、きっとそう云う事なのだろう。私にはもう未知なる

未来など、恐怖でしかない。

 一体どこへ行けと言うのだ。この先私に何処へ行けと言うのだ。

 何もありはしない。何処にも、何もありはしないというのに。

 ただ未来であるというだけで、私はそこへ踏み入れねば、歩き続けねば、いや走り続けねばならないと

いうのか。

 私の肉体と精神は、身勝手に未来へ進み続ける。

 未来は死ぬまで永遠に訪れる。そこへ潜む未知への恐怖を絶えずもたらしながら。

 今もまた一瞬前の未来を生きている。だから恐怖が止まらないのだろう。

 私は不安であった未来を、常に生き続けているのだ。怖くない筈がない。

 このまま何処へ行こうとしているのか。何処に流されようとしているのか。私は自らの意志で未来へと

進んでいるようには、子供の頃の夢想のようには、もう考えられない。私は何かによって、無理に未来へ

引き摺られている。

 ただ死に向かって流されている。それだけは決まっている終わりへと、無慈悲に流されて行く。

 恐ろしい。未来への恐怖から、どう自分を助けられるというのか。未来というものが怖くなった私は、

どう希望を持てば良いのだろう。そんな事は誰も教えてくれなかった。誰も考えていなかった。私にも勿

論解らない。

 好きに生きろ、それが世界から放り出されてしまったように感じる私は、異常者なのだろうか。恥ずべ

き臆病者なのだろうか。

 それとも、他の人間もそうなのだろうか。皆そうなのだろうか。

 誰もが自分の好きなように生きたいと願ってきたというのに、それが叶ったら絶望するのだろうか。

 私には制約と指針が必要だ。航海に地図と目的地が必要なように。

 あれをしてはいけません、あそこへ行ってはいけません。こうすれば立派です、こう考える事が正しい

のです。そういうものが、私を救ってくれる。楽にしてくれる。

 私の望む自由とは、あくまでもそういう約束事の中での、限定された自由なのだろう。何も縛られない、

完全な自由ではない。何かがあって、その中で決められる、その選択肢の多さと広さ、それが例え錯覚で

も良いから、そう見える事が、そう感じられる暮らしが、私にとっての幸せなのだ。

 全てがある程度決まっていて、その中をある程度望むように動けるのだとしたら、それが一番の幸せで

ある。後は決められた流れの中を進んでいけばいい。決まりきった道、しかしどうなるか解らない恐怖は

おそらく無い、少ない。そこにはそうなるべき未来への、安らぎがあるだけだろう。

 私は常に保証された人生が欲しく。自分の未来でさえ一人で決めたくない、無責任な人間なのだ。

 だとすれば、私のかんじる恐怖は、生そのものへ向けられているのではなかった。それは一つの言い訳

に過ぎない。私に相応しい言い訳に過ぎなかった。

 私は本当は、私にのしかかる重みが、怖いのだ。

 自分を定められない。そんな人間なのだ。

 だからもう、自由など、未来など、口にするのは止めてくれ。

 それが私を苦しめる。そんなものは初めから、望んでいなかったのだから。




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