韋駄天足君


 ある所に韋駄天足君(イダテンソクン)という子がおりました。

 この子は余りにも足が速く。駆けるとその場に竜巻が出来てしまって、彼の通った跡はまるで台風が通り過

ぎたかのような惨状になります。

 父親の頑固履鬼(ガンコリキ)は困って韋駄天足君が走るのを禁じたのですが、韋駄天足君は走るのを止め

ようとしません。

 いや、止めようとはしているのですが、ついついうっかり走ってしまうのです。

 何しろ彼は生まれた時から非常にせっかちでして、ゆっくり歩くという事にもう我慢ならないのです。

 頑固履鬼に怒られるのは怖いので気をつけてはいるのですが、どうも自制心が足りなくてうっかり走り出し

てしまったり、歩いていたと思っていたらいつの間にか走り出していたり、どうにも上手くいきません。

 見かねた母親の地血窪(チチクボ)が韋駄天足君の足に錘(おもり)を付けてしまいました。

 いつもはいている靴や靴下なんかに重い錘を付けて、素早く動けないようにしたのです。

 韋駄天足君は初めはこの事にとても腹を立てたのですが、錘のおかげで他人と足並みをそろえる事ができ、

自然と友達も増えてきた事と、単純に錘有りの生活に慣れてきた事で、母親に感謝するようになっていきました。

 そうして韋駄天足君はすくすくと成長し、立派な青年になりました。

 この頃になると韋駄天足君は錘が付いたままでも人の倍も速く走れるようになっており、配達の仕事をして

いるのですが、その速さと確実さは評判でした。

 どれだけ速く走ろうと錘無しの時の十分の一にも満たない速さなので、行き過ぎたり、見間違えるという事

は無いのです。

 韋駄天足君にしてみれば、それは歩いているよりも遅い速度だからです。

 頑固履鬼も地血窪もそんな息子の成長に満足していたのですが、同時に哀れにも思っておりました。

 確かに韋駄天足君は自分の足を封印する事で大多数の人の世界に溶け込む事ができ、友達を得たり、人と解

り合える機会を増やす事ができました。

 誰かと一緒に同じものを同じように楽しめるということも幸せの一つには違いありません。

 人と一緒という事は詰まらなくもありますが、安心できる事でもあります。

 でも本来持っている自分の力をほとんど使わない、いや使えないというのはとても心苦しいものです。

 そんな生活を何年も何年も続けているのですから、口では何と言っていたとしても、やはり韋駄天足君は物

凄く我慢をして、辛い思いに毎日耐えているのではないか。

 もしそうだとすれば、親としてこんなに哀しい事はありません。

 けれど彼の力を使わせる訳にはいきません。

 あれだけの錘を付けて人の倍も速く走れるようになっているのです。今錘を外してしまえば、子供時分より

大きな大きな被害が出るに決まっています。

 台風どころの話ではないでしょう。大地を蹴り剥がし、空を蹴り裂き、この世界そのものをめちゃくちゃに

してしまうかもしれません。

 たまには思いっきり走らせてやりたい、とは思うのですが、それは叶わぬ夢であります。

 だから哀れで、悲しくて、頑固履鬼も地血窪も韋駄天足君を見る度に溜息をつくようになっておりました。

 韋駄天足君も父と母の気持ちには気付いていたのですが、どうしようもできません。彼にできたのはいつも

通り、辛くないよ、楽しいよ、と笑顔で生きる事だけでした。


 そうしてどれだけの時間が流れたでしょうか。

 大きな事もなく皆過ごしてきたのですが。ある年、吹き流れる風の勢いが急に強くなりました。

 初めは少し強いな、最近は何だか風の勢いが強くなってきてしんどいなあ、と話していたくらいなのですが。

あれよあれよという間に外出もできない程強く、激しくなったのです。

 台風や竜巻の来る頻度も増え、その規模も強さも益々大きなものになっていきます。

 人や家畜が飛ばされた、といった話も聞くようになり、ついには家までばらばらにされただの、屋根を吹き

飛ばされただのといった話まで当たり前に話されるようになりました。

 人々は恐怖し、外出を避けるようになりましたが、こうなると満足に生活していく事ができません。

 外に出なければ必要な物を得られなくなりますし。折角育てた農作物などもほとんどが吹き飛ばされてしま

って、どうにもならなくなっていきました。

 このままでは生きる事さえ難しくなると皆不安がっていたのですが、かといってどうすれば良いのか解りま

せん。

 中には風が来る方角を調べてみようという話もあったのですが、風の勢いが強すぎて行こうにも行けないの

です。

 そうして対策が進まないまま時間だけが過ぎていったのですが。ある時、韋駄天足君が決死の表情で自分に

行かせてくれと皆の前で言いました。

 確かに彼の足ならどんな強風でも平気でしょう。錘を取れば、彼の足で行けない場所なんてあるはずがあり

ません。

 しかしそんな事をすればどうなるか。また以前のような惨状になるのではないか。誰もが不安に顔を見合わ

せます。

 そこで初めて頑固履鬼と地血窪が立ち上がりました。そしてこう言ったのです。

 息子は以前皆に大きな迷惑をかけた。それを改めようとさえしないような時もあった。しかし今では自分を

抑え、それに腹を立てもしない。穏やかに、健やかに、息子は一生懸命に頑張ってきた。努力してきた。それ

は皆解っているはずだ。それならば今だけでもいい、どうか息子を信じてやってくれないだろうか、と。

 二人のこの言葉、気持ちには誰も何も言えず、韋駄天足君に全てを任せる事に決まりました。


 韋駄天足君は深い使命感と責任感で身を震わせながら、しかしそれ以上の悦びに満ちていました。

 ようやく抑えてきた力を発揮できるのです。思う存分に走れるのです。嬉しくない訳がありません。

 でも彼は以前のような子供ではありませんでした。力を揮える悦びを抑え、まずはゆっくりとゆっくりとい

つものように走り出しました。

 努力したおかげで錘がなくてもある時と同じように力を抑える術を身に付けられていたのです。

 本当はずっと前から錘を付けていても皆が思うよりずっと速く走る事はできました。この程度の錘なんか物

ともしないくらい、韋駄天足君は大きく成長していたのです。

 それを自分の心だけで必死に抑え続けてきました。両親に、誰にも心配をかけないように。

 韋駄天足君はそのままゆっくりとゆっくりと足を動かし、住んでいた村から遠く離れた所まで静かに速すぎ

ないように進みました。

 それから少しずつ速度を上げていきます。

 すぐに普段の数倍の速度に上がりました。もっと上がります。どこまでも上げられます。

 韋駄天足君にとっても未体験の速度であったはずですが、何の問題もありませんでした。それどころか、自

分が本来持っている速度域には到底及ばないと感じられたのです。

 けれど彼は我慢を続けました。大地を海を傷付けないように、必要以上の力は出さないよう走り続けたのです。

 そうしてどれくらいの時間駆け続けたでしょう。

 彼はとうとう出会ったのです。

 その元凶に。

 暴風の源に。


 それは風の塊というのか、何か得体の知れないものでした。

 小さな空間の中に恐ろしい勢いの風が吹き荒び、雷を呼びながら暴れています。

 この強風もそこからわずかにもれるすきま風のようなものに過ぎませんでした。

 韋駄天足君は速度を一気に上げました。そうしないととてもその場所に居られないと思ったからです。

 大地をえぐり、空間も歪みましたが、気にしていられません。速く速く駆け続けなければその場所にさえ居

られないのです。

 呼吸でもしているかのように風の勢いには強弱があるのですが、強くなった時の風がとんでもないのです。

まるで台風を圧縮してぶつけられるかのようでした

 韋駄天足君は手足の回転速度を上げて風を生み出し、相殺する事で何とかしのぎました。

 そしてそれは同時に悦びでもありました。

 ようやく彼は自分の力を最大限に発揮できる機会を得たのです。まだまだ全力には遠いですが、それでも楽

しいと思えました。自分の体を思うままに動かす事は、とても気持ちの良い事でした。

 韋駄天足君は少しずつ風塊に近付きました。彼の速さの方が強いのです。

 すると風塊はそれに驚いたように風の勢いを強めます。もう呼吸ではなく、思いっきり吹いているような感

じで、絶え間なく強い風が吹き荒れました。

 それでも韋駄天足君の力には敵いません。確実に二人の距離が詰まっていきます。

 風塊は初めて本当の恐怖を感じた幼子のように必死に風を吹き出しますが、韋駄天足君を止める事はできま

せんでした。

 韋駄天足君はもう力を抑える事をしていません。最大の力、速度をもって風塊にぶつかるのです。今お互い

の風をぶつけ合う事で相殺しているように、自分そのものをぶつけることで風塊を打ち消してしまおうと考え

たのです。

 何をそんなに荒れ狂っているんだい?

 何でそんなに怒っているんだい?

 そんな腹を立てなくても良いんだよ。そのままでもそんな悪いものじゃない。

 そんな思いを込めて、いつも自分に言い聞かせてきた言葉をそっくりそのまま渡すように、韋駄天足君は自

分の全てを賭けて風塊を受け止めようとしたのです。

 けれど風塊にとっては恐怖でしかありません。恐れ、嘆き、ひたすらに風を起こし、韋駄天足君を拒否しま

した。

 韋駄天足君はそんな風塊を哀れに思いました。

 もし自分もこうして一人であったなら、このように誰にも届かないだろう思いを、ただただ周囲に叩き付け

るだけの人間になっていたのかもしれない。

 自分にとっての両親のように受け止めてくれる、精一杯受け止めてくれようとする誰かが居なければ、こん

な風になっていたのかもしれない。

 まるで風塊がもう一人の自分であるかのように思えたのです。

 そしてそう思えばこそ、風塊を消さなければならないと考えました。自分のように過ぎた力を持ち、それを

抑えられないのだとしたら、それが例えどんなに素晴らしい力であっても、ただの暴力、災害にしかならない

事を誰よりも知っていたからです。

 風塊には風塊の想いがあり、考えがあるのかもしれないけれど、そのまま放っておく訳にはいきませんでした。

 例え望んでこの世界に生まれてきたのではないとしても、この世界に居場所を借りている事には違いありま

せん。それをたった独りが無闇に荒らす事は、やはりよくない事だと思えたのです。

 それをする事は哀しいだけだと感じられました。

 韋駄天足君はもう終わらせてあげようと思い。全ての力を尽くして風塊以上の大風塊になってぶつかり、風

塊を消し飛ばしてしまいました。

 それはまるで自分で自分自身を殺すかのような、自分で自分の生き方を否定するかのような大きな悲しみと

寂しさを伴ったものでしたが、後悔はありません。それが自分であればこそ、自分で決着を付けることに満足

というのか、不思議な妥当性があるように思えたからです。

 全てを終え、韋駄天足君はゆっくりと反対を向き、両親の許に帰ろうとしました。

 でも動かないのです。

 今までのように軽快に手足が動きません。初めて錘を付けた日のように思うように動かせないのです。

 そうです。韋駄天足君の力は風塊と一緒に消えてしまっていたのです。もう二度と先程までのようには走れ

ないでしょう。

 それでもやっぱり後悔はしませんでした。力が弱まったからこそ、思い切りその力を揮う事ができるように

なったからです。彼はもう何も我慢する必要はなくなったのです。それはとても嬉しい事でした。

 例えそれまでの全てを引き替えにしたとしても、です。

 韋駄天足君はようやく当たり前の悦びを知る事ができるようになったのでした。

 それは本当の意味での自分への理解だったのかもしれません。

 彼は一つにこやかに笑い、軽やかに走り出しました。

 いつ実家に着けるか解りません。来た時の何倍、何十倍もの時間がかかる事は間違いありません。

 しかしそれこそが、きっと韋駄天足君が生まれてからずっと望んできた事なのです。

 彼は今初めて、本気になれたのです。

 精一杯生きられるようになったのです。

 そんなお話。




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