ばか者教


 世に蔓延るばか者教。勿論そんな名の宗教が実際にある訳ではない。ただ私が個人的にそう呼んでいる

だけだ。

 人は日々色々なものに支配されている。いや、自ら望んでそうすると言った方が良いか。

 誰でも判断する基準、絶対的な物差しを求めている。例えそれが多少おかしくとも、ちょっと信じられ

ないような事であっても、強引に信じ込み、それだけが良いものであるかのように振舞い、考える。

 それは愚かな妄信でしかなく、最も忌むべき信仰であり、私はそれらを解りやすくばか者教と呼んでい

るのである。

 ならその全ては迷信か。違うだろう。そう問われれば、私は違うと答えるしかない。

 確かに似ている。道理に合わない事を頑ななまでに信じる、という意味ではその言葉が相応しい。だが

誤った信仰という意味だと少し違うように思う。

 何故なら、それが本当かどうか解らないからだ。

 例えば鰯の頭を毎朝一分頭に乗せれば金持ちになる、という教えがあったとする。人はそれを馬鹿馬鹿

しいと言うだろう。大多数の人間はそう思い、だからこそそれは間違っていると言う事にされる。

 しかしその考え方もまたばか者教である。大多数の人間が信じているからといって、いやもっと根源的

に、人間がそれを信じたからといって、それが本当になる訳ではないのだから。

 だれかが信じたから、多くの人が信じているから真実なのではない。真実とはいつもそこに誰の意思と

も関係なく、歴然として当たり前にあるものであり、自分が信じるとか誰かが信じたからとか、そういう

事は一切関係ないのである。

 これは確かな事だ。別に私が信じているからではない。これが論理的な答えという奴だからだ。多分。

 だからこの頭の上に鰯乗せ教も、馬鹿馬鹿しいから間違っている、とは言えない。確かに間違っている

可能性はあるが、間違っていない可能性も同じだけ存在する。それを実証しない限り、正否の可能性は常

に同じだけ存在するのである。

 まあ、鰯がどうのこうの言われてもぴんとこないだろうから、もっと一般的な事にしよう。

 例えば服装とか化粧の方法とかはどうか。

 昔の映画やら写真やらを見てもらえれば解るが、人の服装と髪型、化粧方法などはその時代時代で大き

く異なっている。詳しくそれがいつの時代かは解らなくても、今と離れた時代の事だと言う事は誰にでも

解る。一目で解る。

 そしてそれが今と違えば違っている程、ださい、遅れている、と言う事になり、皆馬鹿にする。みっと

もないと思う。

 だが今馬鹿に出来ているそれは、確かにその当時の最先端であり、おしゃれであり、それのみに価値が

あったという、そういう姿である。

 だからこそ人はその格好をしていたのであり、誰もみっともないと思ってそんな姿をしていた訳ではな

い。今とは基準が違うからおかしいと思うだけで、その姿自身が本当にみっともなく遅れているのかは誰

にも解らない。

 何故なら、それもまた実証する方法が無いからだ。

 今の服装や髪型なども、十年もすれば十年後の自分に笑われる事になるだろう。その程度のものを真理

と呼ぶ訳にはいかない。

 しかし人はそのようなものを至上とし、まるでそうでなければ人でないかのように考えてしまう。

 そして誰もがああだこうだと十年後の自分が笑うような寸評をしては、過去の自分を笑い、今の自分を

一生懸命に擁護する。

 これは論理的に考えて、確かにばか者教である。そうに違いない。確かな事だ。多分。

 そう考えるとして、ではその根源となるものは何なのだろう。

 ばか者教の御神体は一体何なのか。何をもって尊しとしているのか。

 時代と共に価値観が移り変わる。その価値観の変化によって過去の自分を笑いものにし、おそらく未来

の自分さえ笑いものにするのだとしたら、この価値観こそがばか者教の御神体、教義と言えるのかもしれ

ない。

 もっと簡単に言えば、流行に追われ惑わされる事、それがばか者教の正体なのだろう。

 ばか者教はありふれて存在している。

 もっと解りやすい例えがある。

 占いがそうだ。

 占い師の言葉、そんな見知らぬ他人の言葉を、一体どうしてそこまで信用できるのだろうか。

 自分をよく知っている筈の友人や家族の言葉は無視するのに、何故当たる占い師というだけで、その言

葉があれほど尊重されるのだろうか。

 その言葉を聞いてみれば、友人や家族と大して変わらない事を言っているのに。何故同じ言葉でも素直

に聞くのか。

 そこには多分、一定の形式があるからだろう。

 儀式と言ってもいいが、人とは別の理解できない何かによって定められている、という前提が占いには

ある。個人的なものではなく、もっと普遍的なものですよという、暗示がある。

 この時は不思議な事に曖昧であればある程、理解出来なければ出来ない程、それはありがたがられる。

誰も解らない、人知を超えた力、そういう勘違いが尊ばれ、そうであるからこそ人は受け容れている。

 もし占い師という肩書きがなければ、誰もその人の話など聞かなかっただろう。

 おかしな話だが、良くある身近な話でもある。

 だから一定の形式さえ踏まえておけば、それを利用しない言葉、はっきりいえばでまかせの言葉であっ

ても、その形式に敬意を表して、人は無防備にその言葉を受け容れてしまう。

 しかしその儀式とか一定の法に従って行う何かというものは、一体何だ。

 そんなものは、昔、或いは近い過去の人が、思い付きや思い込み、そして想像と空想によって何となく

作り上げたモノに過ぎない。

 自然というものはもっと遥かな過去から存在するのに、たかだか数十、数百といった程度の歴史しかな

い形式が、一体どれ程の何かを悟っているというのだろう。本当にそれが当たっているのか、一体誰が証

明できるのだろう。

 確かに当たる事もある。何百、何千、いや、そこまでいかなくとも、何十も居れば、その中の何人かは

当たるに違いない。それもきっと確かな事だ。しかしどう考えても、外れている人間の方が多いのではな

いだろうか。

 そしてその言葉を考えてみよう。その言葉ははっきりした言葉だろうか。抽象的な、ぼやかした、どう

とでも解釈できるような言葉ではないだろうか。大雑把な言葉ではないだろうか。

 貴方には何かよくない事が起きますよ。貴方にはきっと良い事がありますよ。そんな言葉が当たるのは

当然である。誰でも一日に何度かは、良い事も悪い事も同じだけ起こるものなのだから。

 それなのにそんな言葉がまるで唯一無二の真実のように人は考えてしまう。

 これもまたばか者教である。その真髄に違いない。多分。

 何となくありがたい気がする。そういう心もまた、ばか者教を生むのである。

 世の中には沢山のばか者教が存在する。そしてそれと同じだけ、或いはもっと多くの御神体が有り、日

々新たな御神体と教義が生まれている。一度廃れても、また形を変えて出てくるモノもあるだろう。

 人はいつまでそんなものを必要とし、縋りつくのか。

 人は自分に虚しさと寂しさを見るからこそ、確かなモノを感じられないからこそ、そのような不確かな

モノにすがるのかもしれないが。ひょっとしたら、そういうものにすがっているからこそ、虚しく寂しい

のではないだろうか。

 自分自身を誤魔化し、ばか者教と知りながら、心の底では馬鹿馬鹿しいと思いながら、しかしそれを信

じるしかない。そんな自分だからこそ、虚しく悲しい。

 でも解っていても、何かが欲しい。

 だからばか者教は廃れないし、いつまでも存在する。

 人が欲する限り、それは無くならない。逆に言えば、それが存在すると言う事は、人がそれを欲してい

るからだ。この世には誰も要らないモノは存在できないのである。多分。

 ばか者教という終わりなき繰り返しの円道の中を、人はいつまでもぐるぐると回り続ける。

 それが人生だと悟ったような事を述べてみても、誰も救われないというのに。

 誰にでも信仰の自由があるから、それをするなとは言わないが。もっと自分を心配してくれている人、

本当の人間の言葉の方を、大事にした方が良くはないだろうか。

 大切な人の言葉以上に、ばか者教が大事だとはどうしても考えられない。

 人はもっと人を大事にするべきだ。

 それが論理的な答えである。




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