生き焦り


 ただ生きていくだけでは満足出来ず、何故自分はこうも焦ってしまうのだろう。

 誰に何を言われた訳ではない。誰かに何かをしたい訳でもない。取り立てて何かがあった訳でもなく、

今までと同じように生きている。何も変わらない。でもそれに満足出来ない。今まで満足だった事にさえ、

何故か不満を抱き始めている。

 今のままではいけない、何かをしなければ、何かを残さなければ、そういう強迫観念にも似たものが湧

いてきて、私をゆっくりと責め立てる、追い立てる。

 面白い事に私を焦らせるこいつは全く焦らない。ゆっくりと確実に私を追い込み。策士が術中に陥れて

いくように、狩人が上手く獲物を誘き出すように、冷静かつ着実にそれらを遂げていく。

 そして私が気付いた時にはもう遅い、と言う訳だ。 厄介な事にこいつは私を追い立てるだけで、道を示そうとはしない。

 ただただ気を焦らせ、何かをしなければならないという気にさせ、その癖そこには何の意味も目的もな

い。ただ自分を焦らせて満足するかのように、こいつは私の心に焦りというものを産み付け、いつの間に

か去っている。

 何をしろというのか。私に何をしろというのか。

 いや、解っている。ある程度は解っているのだ。こいつも私の心が生み出したモノ、その全てを知る訳

ではないが、私から生まれたのだから少しは解る。

 それは私自身が常々思っている事。果たして私は今のままでいいのか、という疑問と不安である。

 私の心をかき乱し、どうにもさせなくさせるこいつの正体は、自分の自分自身に対する疑問なのだ。

 確かに現状に大きな不足や不満はない。小さな不足や不満、願望なら多くあるが。さりとてそれがなけ

れば生きていけない、という事もない。今の自分に満足している。ある意味、満足している。

 しかし、これからはどうか。

 今は概ね満足しているとして、一年先、二年先、そして十年先、これからもそうなのだろうか。そして

例えば十年後もこのままだとして、本当にそれで良いのだろうか。十年もこのままで、果たして私はそれ

で良いのだろうか。

 何の変化もなく、ただ生活を続けるだけの人生。それは良い事だろうか。

 一人で良いのだろうか、自分の暮らしがあれば平気なのか、幸せか。確かに今はそうかもしれない。し

かし人は今だけでは生きられない。過去もあれば未来という人生がある。そして過去も未来の自分も、今

の自分のままでは居られない。

 自分の心が変化していく中、環境は変わらず今のままだとしたら、そこに普通は大きな違和感を感じて

しまうのではないだろうか。そう、今ほんの少し抱いている疑問、これが十年後には恐ろしいくらい、私

という心を圧迫するモノになってはいないのだろうか。

 今はいい。でも将来は解らない。

 これは今が満たされているからこその不安と言えるのかもしれない。もし今が切羽詰った状況であった

なら、それを乗り越えようと目の前にのみ集中でき、それが結果として私を迷わせない。

 ぎりぎりの目標が私を引っ張って行ってくれる。

 でも今はそうではない。余裕がある。余裕があるからこそ先の事を考える時間が出来る。そして先の事

を考えれば、どうしても先は見通せないだけに、いつも小さな棘のような不安が私の心に刺さる。

 今はいい。生きるに問題はない。しかし将来はどうだ。

 それは考える必要のない事だ。

 そうかもしれない。無用の不安である。今、特に何かがある訳ではなく、それなりに順調にいっている

のだとしたら、それに満足すべきで、何も不安を感じる必要はない。

 それはそうだ。

 だが慌しく変わる世の中を眺めていると、余りにも速いその変化の流れを見ていると、どうしようもな

い不安にかられてしまう。

 それは余りにも速く、そして驚く程大きく変化する。今の常識が一年後には全く通用しなくなる事さえ

珍しくない。

 品物を見てもそうだ。一年どころか、一季節もすれば型番遅れになってしまう。新商品という札も一月

も持てば良い方だろう。

 だとしたら、自分もすぐに型番遅れになってしまうのではないか。今の自分も、一年先には黴臭い自分

になっているのではないか。

 今に満足しているからこそ、それが変わる未来に満足があるとは思えない。

 今が良ければいいと思っていた時代もあったが、今となっては今が良いからこそ先が怖い。

 多分その為に私は未来に怯え、自分が生み出す不安に追い立てられているのだろう。

 このままではいずれこの平穏が破られる。だからこそ何かをしなければならない。何かをし続けなけれ

ばならない。変化を、それもより良き変化をし続けなければならない。

 一つでも早く、一つでも新しい物に飛び付き、遅れないようにしなければならない。今何が流行るのか、

先に何が流行るのか、それを見極め、時代の流れに付いて生き続けていなければ、私はどうなってしまう

のだろう。

 何も解らない将来が不安だ。

 この恐怖を抑え、安心する為には、皆と同じという愚かな状況が必要なのだ。一人ではない、そういう

安心感がどうしても必要である。

 自分と同じ道を進み、自分と共に意地を張り合える誰かが必要なのは、その為だろう。

 別に流行好きという訳でも、仲間好きという訳でもない。ただただ未来が怖い。だからそれを和らげる

為にそれらが必要なのだ。好きとか嫌いではなく、はっきりと必要なのである。

 私は常に変化を欲している。そしてそれと同時に激しく変わるのを恐れている。だから皆と同じように

慌しく変わっていく事が必要なのだ。皆と足並みを合わせ、同じように変わっていきたい。それもまた偽

らざる私の心。

 そしてその上でこう思う。

 自分が世の中の為に何かをしたという満足感も欲しいと。

 皆と足並みを揃えて変わっていく。そうでいながら、その中で自分だけに特別な何かが欲しいと。

 それさえあれば、私は自信を持って自分に言い訳出来る。

 環境が足りている今、私は私自身も満ち足りていたいと思う。

 だから満たされないのだろう。

 私が願うだけで何もせずにいる限り、私は救われない。何故なら、それは皆やっている事で、特別では

ないからだ。

 楽をしようと誰かに縋るのも、同様の理由で無意味だろう。

 何をしても自分が何もしていない事は自分が良く解っている。だから幾ら言い訳してもそれでは通用し

ない。そこには自分を説き伏せるだけの理由がない。

 誰かに従うでも、誰かの為でもなく。私が今何かを為さなければならない。他でもない、自分自身の為

に、自分の心で。

 しかしこの想いこそが、生き急いでいるという事なのかもしれない。

 それは私が私を追い立てている事と、何も変わらないのだから。




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