生き急ぐと云う事


 慌しく過ぎて行く事。追い立てられているように感じる事。心も体も世話しなく騒ぎ立て、いつも何か

に押し流されるように、留まろう留まろうとしてもそれが叶わず、抗えぬままに焦る事。

 今日という人生が果たして意味があったのか、そして今日という時間を自分は有意義に使えたのか。

 そう言う事を考えながら気ばかり焦り、何となく落ち着けない、自分で自分に納得できない。

 だからといって特別に何かをするではない。何が出来る訳でもない。ただ生きるだけ。解っているから

こそ、余計に焦りが生まれる。

 何かをしなければならない。今日と言う時間、今と言う時間が、実りある時間の積み重ねでなければな

らない。

 無駄にしてはいけないのだ。一分一秒たりとも無駄にしてはいけない。人の時間は限られている。その

中で良い人生を送る為には、一秒たりとも疎かにできない。一分一秒を無駄にせず、計画的、合理的、効

率的に生きなければ。

 生き急ぐという事。それはそうしなければならないと自分に規定する事である。

 何故こうも忙しないのか、余力がないのか、落ち着かないのか。何故自分はこうも焦り、そして懸命に

生きながら、しかし何一つ実りを感じる事無く、ただただ追い立てられているのか。

 それは自分がそう求めているからである。

 確かにそう言い切れば、語弊があるかもしれない。だが自分の心に追い立てられると云う事は、自分が

そうしているからと考えるより他にない。自分以外の誰も、自分を追い立てる事など出来ないのだから。

 外部に理由がある場合もある。きっかけとなる何かが外部にあったという場合も多い。しかしそれも結

局は自分で自分を焦らせている事に変わりない。自分がこうしなければ、こうしなければならない、そう

思うからこそ焦り、余力を失う。

 例え切羽詰った状況であれ、余裕を持って行動する事は出来る。人がどう焦ろうと何も早くはならず、

逆に落ち着いた方が上手くいく事が多いのだとはっきりと理解し、その経験を積めば、そうする者の方が

多くなりさえするかもしれない。

 人が焦る時、人は他の理由ではなく、自分が焦りたいから焦っている。焦りを浮かべる事で、何となく

何かをしたような、自分はそれに対してちゃんと向き合っているのだと言い訳できるかのような、自分で

納得できるかのような、そんな気分になっている。

 落ち着いていると真剣さが足りないような、いい加減なような、そんな申し訳なさを考えてしまう。

 例え焦る事で余計な手間や時間がかかったとしても、焦る事で申し開きをしている。だから焦る。焦っ

ても仕方がないのは重々知っているのかもしれない。それでも焦る。少しだけ申し訳が立つような気がす

るから。

 人は本当はどうであっても、その時の気分を大事にするような所がある。

 本来は別に時間を無駄にしたって良いのだ。人間はそんな合理的、効率的には出来ていない。むしろ無

駄の方が多い。思想に耽ったり、どうでも良い事に拘ったり、自己満足の為に遠慮なく時間を費やしたり、

生きる為に本当に必要な事をやっている時間は、実はとても少ない。

 試しに今日一日の自分の生活を振り返ってみて、生きる為に本当に必要な事がいくつあったか数えてみ

るといい。

 そしてそれにかけた時間の中には一切の無駄がなかったのか、よくよく考えてみるといい。

 食事、風呂、洗濯、そういった必要だと思われる時間の中にも、必ず無駄はあった筈だ。無駄な思想、

無駄な手間、だらだらと引き延ばす。面倒だと思い、それを行うまでに少し躊躇した時間、それもまた無

意味だろう。

 どういう時にも人は必ず無駄な時間を作っている。それは何故だろう。

 思うに、人はそういう無駄な時間をかける事で心を調整しているのだ。

 無駄な時間、しかしそれは不安定な心を安定させる為に調整する時間なのである。

 どうでも良い事を延々と考えたり、すぐに出来る事に倍も三倍も時間を費やしてしまう。そういう事で

人は何かと釣り合いを取っている。

 時間に追われるという非常に心に負担がかかる事に対し、それを少しでも和らげようと無駄な思索と行

動を取らせ、ぼんやりと頭を使わないようにし、それで釣り合いを取っているのである。

 何もしない時間、何も出来ていない時間、或いは現実逃避をする時間にはそういう意味がある。

 生き急ぎ、焦っただけの時間、それが多ければ多い程、それを安定させる為に無意味と思える時間を多

く費やさなければならない。

 つまり生き急げば急ぐ程、目的と反する無意味な時間を多く必要とする事になる。

 一分一秒を無駄にしまいと思い、人は余計に無駄な時間を費やしてしまうのである。

 それが進むと、一方では無駄にしまいと思い、一方では無駄を得て安定しようと思い。結果として、手

足は懸命に動いていながら、頭の中は別の事を考え、何事にも集中できないと言う事が起こってくる。

 これこそ一番の無駄だろう。

 人は何かをした分の反動を、どこかで受け取らなければいけない。やりっぱなしという訳にはいかない

し、何かをすれば良くも悪くも何かが返ってくる。体に対しても、心に対しても、そうだ。

 だとしたら、本当に実りの多い生き方、良い人生というのは果たして全てを急ぐ事なのだろうか。なる

べく沢山の事をする、それが幸せなのだろうか。

 結局、疲れだけを感じる人生なのではないか。

 別に働くな、勉強するな、努力するな、とは言わない。それは必要な事であるし、そうしないと人は満

足を得られない。

 苦労に苦労を重ね、必死に頑張ったからこそ、満足という心も生まれる。

 そうしてこそ初めて自分の人生に誇りを持てる。

 しかしそれはただ焦り、急げば良いというものではない。生き急ぐ必要はないのだ。何も焦る事や急ぐ

事に義務感を感じなくていい。一分一秒くらい無駄にしたって、何が変わる訳でもない。

 自分が本当に望んでいるのなら、それに一秒を惜しんで打ち込んでも良いだろう。むしろそれが正当な

事かもしれない。しかし自分の望まぬ事、意味を見出せぬ事、納得できない事、に対し、何となく続ける

事は危険である。まずはそこに望みを見出し、意味を感じ、納得するだけの何かを見付ける。そうしてこ

そ初めてその努力は実りあるものへと変わる。

 自分に言い訳しながら、無理にやっても仕方がないのだ。

 別に自分に言い訳せずとも、人に申し訳なく思わなくていい。時間を無駄にしたっていいのだ。その無

駄な時間もまた、人にとっては必要な時間なのだから。

 本当に無駄な時間というのは、気ばかり焦り、意味もなく急ぎ、ただ焦る為急ぐ為に使う時間の事であ

る。それは何も生み出さない。何も残してくれない。無意味な満足感はあるが、それもすぐに徒労に変わ

る。疲れだけが心に残る。

 そういう時間こそが、ただ疲れるだけ、という人生において全く余計な時間なのである。

 焦る必要はない。ゆっくり考えればいい。時間というのは有限だが、短くはない。いつも必要なだけの

時間は残されている。例え人がそれをどう思おうとも。

 そして人に本当に必要な事などは、小指の先程もありはしないのだ。人生の十分の一もあれば、それで

事足りる。それだけの事だ。

 人は本来生きる事に疲れるようには出来てはいない。生きる事に疲れるという事は、その生き方が間違

っているという事だ。

 穏やかに考えられる、そんな人生を送られる事を願う。

 時間というものは、人を追い立てる為にあるのではない。生きた時間に、焦る必要なんてないのである。




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