祈り


 私は今日も神に祈る。人の世が穏やかであるようにと。

 人の世は毎日毎時毎分毎秒、世界の何処かで、必ず誰かと誰かが争っている。

 誰が見ても明らかであるようにか、或いはそっと心の中で、争いは続けられている。

 人である以上、それは仕方の無い事だという意見もある。

 私も半分はそれに同意せざるをえない。否定するだけの材料が、人の世の何処にも無いからだ。

 哀しくも、虚しくも、争いは常に在る。

 スポーツなどのように、まだそれを楽しむ、楽しめるのなら良いのだが。その争いは大抵、本人にとっ

て切実で、それ以上に醜いものである。

 しかし私も人である以上、それを愚かと笑えはしない。私もまた、そういう感情があり、争いを心中の

中で、或いは実際に、そこかしこで行なっている。

 ただどうしても否定したい事がある。それは宗教、神、つまりは思想を理由にした争いだ。

 神は決して争わない、宗教家は皆そう言う。哲学者も争いは愚かな事であると言う。

 私もそう思う。いや、人は誰しも、自然にそう思えるのではないだろうか。結局争って得た物は、勝っ

ても負けても、いつも虚しいものであるから。

 だが現実にして、人の歴史は争いの歴史。信仰と神、思想の違いを理由に、大きな争いが、何度も何度

も繰り返されてきた。そして今も繰り返している。神の名の下に、神の為に、自ら信ずる存在の為にと。

 だが先ほど述べたように、人は誰も争いを好まない。ましてや神がそれを好むはずはない。

 ならば何故争うのか。一体誰が、それを、本当は何の為に、望んでいるのか。

 原因は神ではない。それは人に在る。

 神が争いを生むはずがない。であるならば、やはり人が争いを起こしている、そう考えるしかない。

 では何故、そこに神や信仰が持ち出されるのだろう。何故人は神に争いの理由を押し付けるのか。

 神とはそこまで都合の良い存在なのか。それが信仰なのか。

 神を信じている。だから争いを起こす。そこに矛盾はないと、何故胸を張って、堂々と言えるのだろう。

 神は争いを否定し、愛をこそ望んでいる。人は人の為あれと、そう教えている。

 それはどの宗教も変わらない。それを生み出し、成長させ、布教した誰もが、ただ人の為を思い、世の

中を良くしたいが為に、神を愛と唄い、愛を教えてきた。神は人に愛を与える。愛こそが全ての人を救う

のであると。

 しかし現実には、その神自体が、人を幸せへ導くはずの教えが、絶対認め合うはずのない、争いの理由

にされている。平然と、当たり前に、人は神の名で、神に罪を着せて、身勝手に争い合っている。

 何と嘆かわしい事だろう。

 そしてそれに対し、人は何も言わない。平気な顔で、その矛盾を受け入れる。神を信仰している、神の

為と言いながら、平気な顔をして神と教えを冒涜している。

 それはいわゆる悪魔の姿であり、人が忌み嫌うはずの、悪魔信仰者そのものではないのか。

 人を争いへ導く教え、それは神と聖人が言う所の、悪魔の業である。

 否定するのならば、鏡に映った自分を見るが良い。鏡はきっと酷い顔をしている。今まで見たくもなか

った顔が、今まで向かい合う事を恐れていた顔が、そこにははっきりと映されているだろう。

 私もそうだ。否定したいが、これは事実である。

 何と言う悲しみ、何と言う畏れか。

 悪魔は正に、我が傍に、いつも傍に、すぐ目の前にいたのだ。

 しかしそんな私でさえ、天罰を受けて然るべき愚かな私でさえ、やはり理解できない。

 何故信仰の違いが、争いへ行き着くのか。何故そんなものが、争いの理由になるのだろう。

 どの宗教も同じ存在を信仰している。神と言う絶対的な何か、神としか云えぬ、言葉にも出来ぬ、人知

を超えた何か。偉大であり、愛に溢れ、全ての生命の父にして母、至高の存在。

 言葉は違えども、呼称は違えども、全ては神をのみ信仰している。

 それなのに、驚くべき事に、同じ宗教でさえ、様々な宗派へ分かれ、同じ神の名を呼びながら、愛を教

えるべきはずの神に仕える者同士が、当たり前のように争っている。

 これは一体どう云う事なのか。何故彼らはそれをおかしいと、それこそが神への冒涜だと思わないのだ

ろう。何故自ら愛を否定し、神を冒涜していられるのだろう。

 何故誰もが、自分に都合の良いように、信仰を作り変えるのか。

 それこそ悪魔の邪悪なる所業であろうに。

 つまりはそれが、天の罰であり、人の罰。だからこそ、人はいつまでも救われないのだろうか。

 いや違う。神は人を見捨てはしない。神はそこへ目を向けろと、いつもそう言っているのではないのか。

神が人を見捨てるのではない。人が、神を見捨てているのだ。だから救われないのだろう。

 そもそも、本当の悪魔は身近にいるのだと、教えは述べていなかったろうか。悪魔は天使の姿をして、

人に近付いてくる。光り輝く姿で、人の耳に触りの良い言葉を伝え、人が自らそれを望むようにして悪へ

と導く。そう警告してなかっただろうか。

 悪魔は人の思い描くような、禍々しい姿などしていない。その声も、姿も、人の望む欲望のままである。

だからこそ悪魔であり、悪魔とは恐るべき存在なのだ。

 恐怖と絶望ではない。彼らは快楽と希望とで人を貶め、その後に支配するのだ。

 内なる欲望に耳を傾けてはならない。都合の良い方に流れてはならない。

 悪魔は確かに快楽と希望を与えてくれる。しかしその先には必ず破滅が待っている。人は僅かな喜びに

惑わされ、本当に救いようの無い場所へ落ちてはならない。

 誰の為と思う事は無い。人は人である為に、自らの為に、誇りと良心に耳を傾けよう。

 永遠の絶望の為に、その心を犠牲にしてはならない。救いを求めているのであれば、まず身勝手な欲望

を脱ぎ捨てなければならない。

 何故かと問うか。耳障りの良い言い訳を並べるか。それでもそんなものが何の役にも立たない事は、他

ならぬ人自身が知っているはずだ。利己的な慰めでは、何も救ってはくれないのだと。

 人は何故、悪魔に身を委ねる。神の名を語る悪魔に、何故疑いも無く、いや疑う心を無理に抑え、どう

しても従おうとするのか。

 例えば、信じる神の名が違う。それが何であろう。

 どのような名をしていようと、全ては同じ、自然の中にある大きな存在、老子の述べた道というべき、

真理の法則、それが神ではないのか。

 あらゆる自然現象を起こし、あらゆる生命へとあまねく作用する、その絶対的な何か、それが神。

 無数にある宗教、そこに絶対的な愛を注ぐ存在としておわす神、それは全て同一の存在。

 名は違えど、全て神ではないか。全て愛ではないか。

 ならば何故、愛と許しの為に、正義と慈悲の為に、争いを起すのか。

 それが一神教であれ、多神教であれ、何も変わらない。

 一神教はその全てを一つの名で呼び。多神教は全てを一つでなく、自然の現象、人の心の動き、そのそ

れぞれを、それぞれの名で呼んでいるのでしかない。

 神の全てを一つと呼ぶか、神のそれぞれを神々と呼ぶか。

 違うようでいて、実際にはどちらも同じ。経典を見比べてみるといい。どれも同じ事を述べ、同じ事を

望み、同じ事を教えている。ただ違うのは、人の捉え方、呼び方だけである。

 つまり、人である。人が違う、当たり前の、それだけの差異でしかない。個性、性格、そう呼んでもい

いくらいの、当たり前の違いでしかないのだ。

 そんな人の頭の中にしかない事で、神を持ち出して争うなどと、何と言う罰当たりな所業であろう。

 神はそのような事で怒りはしない。神が怒るのは、人が神を争う理由に使うからである。神は例え冒涜

されても、憐れまれるだけで、人に絶望はしない。しかし愛を否定し、人を貶め、悪魔へと導く悪魔には、

必ずやお怒りになる。

 悲しみながら、お怒りになる。諭そうとされる。改心させようとされる。

 人は天罰の意味も、神の怒りという意味も、勘違いしている。それは人の言うそれではない。解るはず

だ。本当は解っているのだ。すでに人は罰せられているのだと。神は悲しんでおられるのだと。

 全ての神は人を見、全ての神は等しく人を悲しまれている。

 神は争いや痛みなどを尊ばない。それを尊ぶのは人だけである。

 人と争う事が正義であれば、それが神の御心に適うのであれば、そんなものは神ではない。正しく、そ

れこそが悪魔である。

 神はいつも人を見ておられる。

 そこは天ではない、宇宙でも、見知らぬ何処かでもない。この地上、我ら一人一人の心の中で、神は人

を導くべく、常に声を届けて下さっている。

 そう、人の心にある良心、それが神の声である。

 誰の心にもある。何処から、そしていつからあるのか誰も知らないが、確かに誰の心にもある。確かに

ある良心、罪悪感、優しさ、許し、情愛、確かに神はそこへおわせられる。

 それは誰もが知っている。誰もが理解している。

 欲望と同じく、それは生れ出でた時、或いは生れ出でる前から持っているものだ。

 欲望もまた、欲するだけでは悪ではない。欲するは意志である。それは人にとって必要なもの、その心

自体が悪に結び付く訳ではない。

 もしそうであるなら、とうに人は滅んでいる。欲望そのものが悪であるならば、意志が悪であるならば、

人はすでに自滅していよう。

 では何が悪となるのか。それは人の身勝手な考えである。

 全てを都合よく解釈し、無理矢理自身を正当化する理由を作り出す、その愚かしくも浅ましい心こそが、

悪である。欲望があるから、それをするも当然、その欺瞞に満ちた心こそが、悪なのだ。その考えこそが

悪魔なのだ。

 神の心に、自らの良心に目を瞑れば、人はその心に悪を産む。

 しかし神は常に人を導いている。聴こえるはずだ、神の声が。誰にも在る良心は、いつも人を救おうと、

いつも人を正しい道へ導こうとしている。

 自分が望む、理想の自分、理想の未来へ導く為に。

 それを否定したのは自分である。神のせいでも、時代でも、運命でもない。自分自身がそれを否定し、

そこから自分で逃げたのだ。

 人が絶望へ導かれるのは、この世に神が居ないからではなく、人間が神の声を無視したからである。悪

魔にすがり、自分自身を悪魔と変えたからである。

 例え神でも、いや絶対的な愛であるからこそ、神は人に否定されれば、人を救う事は出来ない。決して

見捨てた訳でも、力が足りないのでもない。人が受け入れなければ、どうにもできないのだ。

 人を愛するが故に、人を見守る親である為に、神は人が望まねば、人を救えない。愛するが為に、どこ

か許してしまうのだ。悪魔と化した人間でさえ、愛さずにはいられない。

 人も同じ。例え親でも、どれだけの力を持っていても、いつも子を正しく導けるとは限らない。むしろ

間違えた道へ導く事も多い。それはその子供の心に、その意志がないからである。

 子を愛するが故に、盲目になってしまい。一番大事な、子供の意志を育てる事を、悪魔に打ち克つ心を

育てる事を、見失ってしまうのだ。

 自分自身が望まなければならない。人は自らを救う為に、神の声に耳を傾けなければならない。

 心からそれを望んだ時、初めて神の声が、本当の意味が、人の心に届くのである。

 その時初めて、人は満たされる。許されている事を知る。愛されている事、愛している事を知る。

 それをせず、自分に問いかける事をせず、いつも他者に、良く解らないモノに理由を押し付けて、身勝

手な信仰、つまりは悪魔信仰をしていれば、どうして救いが得られよう。

 過ちを犯した時、犯す前、それが心を過ぎった時、必ず人の良心はそれを警告する。その声にまず、耳

を傾けようではありませんか。

 人の心は悪を産む、時に悪魔となる。しかし案ずる事はない。神は常に人を導いている。悪魔でさえ、

改心すれば、救われる。悪魔の声に耳を傾けず、神の声に耳を傾けよう。さすれば理解できるだろう。

 気付くのです。全ての悪も善も、己が心に在るのだと。

 神の名を語って争いを起こす。これは正しく悪魔ではなかろうか。

 人はそもそも何を信仰するのか、神は何をお教えになったのか、それを今一度考えるべきである。

 人が人である為に。人が救いを望むなら。




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