一睡の夢


 夢を見る。

 それ以上に不可思議な事があるだろうか。

 妄想でも想像でも無く、時に現実以上にリアルであり、確かにその時その場所に私は居る。肌に感じるモ

ノは無くても、あくまでも真剣に生きている自分が居るのだ。

 後で思えば、まったくもってへんてこで、まるで在り得ない話であるけれども。それは確実にその時間に

私が体験している事なのだ。それ以外にあのリアルさは考えられない。

 しかしおかしな事にその夢の記憶の九割方は目覚めると同時に失われてしまう。

 それは何故なのだろう。何か悲しい事、辛い事、楽しい事、嬉しい事、ようやく叶った事、正に夢と言え

るような事すら体験したはずなのに。何故にそれほどに濃い確かな時間を忘れてしまうのだろうか。

 もしかすればそこは別の確かな何処かであって、自分は存在しているけれども、今の現実とはかけ離れた

場所であり。そして違う場所であるからこそ、その中で体験した記憶をこちら側へ持ってくる事が出来ない

のであろうか。

 そうであるとすればそこは何処なのか。そしてまた同じ場所へ行ければ全てを思い出せると言うのだろう

か。確かに私であったあの時の記憶を。



 たかだか夢である。

 そう言えばそれで終わる事かも知れない。しかしそこに何かの力を感じ得ないだろうか。

 俗に夢幻と例えられるように、夢とはそれほど不確かで、まったく現実とかけ離れたモノであるとされる。

しかしこれほど身近にあって、しかもあれほどリアルな体験を当たり前に出来る事は、それは素晴らしき力

とは言えないだろうか。

 昔から続く永劫の記憶、体験のツギハギ、パラレルワールド、ただの夢想、潜在意識の具現化。そんな風

に色々と推測されているのだが、夢とは果たしてそのようなものなのだろうか。

 もしかしたらあれもまた現実なのでは無いだろうか。

 昔、今の自分は夢の中の存在であり、本来の自分は蝶であると、そう考えた者もいた。そうであるから、

死ねば目が覚めるとも考え、実際死んだ者もいるそうだ。彼らは現在の生きている自分こそが大いなる夢で

あると、そう考えたのだろう。

 確かに考えてみれば、自分と言う自己もまったく曖昧な存在である。それは自分でしか正確に知覚出来ず、

そして確実に自分が在る事だけしか解らず。自分以外の他者は、もしかすれば全て自分が生み出した幻想で、

本当はそこに誰もおらず、世界に自分一人である可能性も否定出来ない。決して誰にも。

 何故ならば他者の存在をはっきりと認識出来る術が無いからだ。人間はそこまで便利に出来ておらず、他

者を感じるのには視覚、聴覚と言った機能に頼るしか無い以上。そして時に幻覚と幻聴を当たり前のように

体験している以上は、やはりそれを否定する事は出来まい。

 外界を感じ取ったと思っている世界は、所詮は己の脳一個が脳にとって都合良く解釈しているだけであっ

て。もし、その脳が幻想を見せていたとしても、私はそれを現実と認識するしか無く。そして幻想と現実の

区別が出来るようには作られてはいない。

 私が見ている世界、聞いている世界、感じている世界は、全て自らの脳の中にある世界なのだ。ある意味、

その全てを脳が作り出した作り物の世界と言える。

 そう考えれば、自らの存在すら不安になってしまっても仕方が無い。

 自分が蝶では無いか、本当はこんな世界はあるはずが無く、ただ夢を見ているのだ。本当の世界はもっと

素晴らしく、或いはもっと凄惨で胡散臭いモノかも知れない。

 そう言う風に考えるのも、ごくごく自然の事とも言える。それを考えた所で楽しくも無いのだが。



 そしてその先にあるのが死である。

 彼らは夢の覚める瞬間をこそ、死である、と考えていたようだ。

 しかし死とはなんであろうか。自分が終わる時。そのような瞬間が在る事がまったくもって私には信じら

れない。その現象に何ら現実味を感じ無いのは何故なのだろう。いずれは私もそこへ辿り着くと言うのに。

 この私と言う精神が消えると言うことは、それはこの自分の居る世界の終わりも意味し、それは全ての消

滅をも意味している。そんな事が果たして在りえるのだろうか。在り得るとすれば、私の見ているこの世界

は一体何の為にあると言うのだろう。

 そして私が死した後も、やはりこの世界は当たり前のように続くのであろうか。

 とすれば私の死も夢の中にあり、夢もやはり現実、現実もやはり夢になるのだろうか。そうなれば死も生

も区別は無いだろうに。生が夢中であれば、死は単に夢の終わり。始まりがあれば終わりがあると言う、た

だの一法則に従った現象にすぎない。

 ようするにこの自分と言う存在も、この大自然の中にあるちっぽけな一世界と言う事なのだろうか。それ

は無数に存在し、ただそれだけの物になる。

 そんな風に雑多考えれば考える程に、ただ自分と言う存在の不確かさだけが浮き彫りにされていく事を感

じられる。

 夢は夢、浮世も所詮は夢と片付けられれば楽なのだが。

 夢は生であり、夢の終わりが死。つまりは死のイメージ、人間が生ある時に体感出来ないその未知の感覚

を、或いは体現できているのが夢なのかも知れない。いや、ひょっとすると未知を追う人の心が生み出した

幻想世界なのかも知れない。

 そうなれば夢とはもう一つの人生である。儚く短い、一夜限りの人生。正に夢。

 ひょっとすると私のこの人生も単なる夢であろうか。こちらは少し長過ぎる夢であるが・・・・。過去も

過ぎてみればあっという間と思う感情も、何やらそれを証明している気もする。

 10年の過去も過ぎてみれば昨日のように。それもまた不可思議な感情であろう。

 何にしても、この人生と言う夢の終わりに一体何があるのか、それとも何も無いのか。それもまた楽しみ

である。おそらく生涯でたった一度だけ、死と言う終点を感じられる時であるから。 




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