梅雨前から、途端に彼奴が増え始める。

 毎年何処から出でて、何処に消えて行くのかは解らぬが。まったくもってけしからぬ奴。彼奴らからは

誰も逃れられぬ、それが蚊、恐るべきは蚊。

 話に寄れば、病気感染の原因にもなるという。日本にはそれほど害の強い蚊はいないが、さりとて彼奴

らの鬱陶しさが減じる事はない。

 どの国であれ、彼奴らの鬱陶しさと腹立たしさには悩まされている。

 人だけではなく、全ての生命にとって、彼奴らは大敵だと思える。厄介な存在だ。

 それは逆に言えば、その栄養摂取法に利点が多いと云う事で、おそらくは永遠に滅びる事はなく。例え

既存の種が滅びたとしても、似たような生物が発生してくると考えられる。

 血液、それはとても大切で便利な器官ではあるが、それだけに狙われやすい。

 何しろ全身を回っているのだから、これくらい都合の良い物も無いだろう。病原菌などにとっては、こ

れ以上無い温床、栄養も豊富で感染も容易、実に厄介である。

 しかれども、問題はそんな事ではない。いや、確かに彼奴らによる被害は深刻だが、それは言わば二次

的なもの、故に今は除外したいのである。今私が言いたいのはそんな事ではない。

 何が私をこうまで彼奴らへの怒りへと駆り立てているのか。それはつまり痒みである。

 蚊の奴は麻酔代わりに、自らの体液を人体へと注入しおる。それで痛みはひくのだが、異物であるから

には当然のように拒否反応が出る。それが私を犯している痒み。

 痒い。身体にとって深刻なものではないが、精神的には何よりも深刻な感覚。

 痛くはない、確かに痛いまではいかない。放っておいてもどうにかなる訳では無い。血も止まっている。

そのままでも死にはしない。数日もせずに治る。

 だが止められない。その死へ直結しない余裕からなのか、不思議と我慢が出来ない。何故こんな感覚を

生み出したのかが、まったく理解できないくらい、この気持ちは止められない。

 痛いならまだ解る。しかし痒いとはなんという残酷な仕打ちか。

 しかもかけばかくほど痒くなる。しかも傷が広がり、下手すれば新たな病気の原因になる。

 かといって、我慢していても、痒みは治まらない。人の為に作られたはずのこの感覚が、耐えようもな

く私を苛立たせ、解決しようがないだけに、深刻な苛立ちをもたらす。

 痒み。要らないのではないか。一体こんな気持ちを味わって、それで何の得があるのだろう。

 かけばかくほど痒くなる警告。なら何故痒さなのだ。かいてはいけないのなら、何故かきたくさせる。

我慢できるはずがない。どうしようもない。放っておけば数日で消えるけれども、それがどうだと言うの

か。私は今痒い、とても辛抱たまらない。

 彼奴ら、彼奴ら、何故このような憎むべき感情を、例え様も無い憎悪を、我らの心に芽生えさせるのか。

 全人類の敵、全生命の敵である痒み。そしてその使徒である彼奴ら蚊。まるで新興宗教のように伝染さ

せ、深刻な被害を及ぼす。死にはしないが、それだけに救い様が無い。半ばどうでも良いことだけに、こ

の苛立ちは深まっていく。

 しかしこの痒みもいずれ治まり、どうにか耐えられてしまう。そして耐えてしまえば、その痒みを忘れ、

憎しみもいつの間にか消えている。厄介至極。

 こうして巧みに蚊に操られ、我々人間は彼奴らの存在を許してきたのである。

 なんという不覚、なんという苛立ち、なんという罪悪か。

 これだけ憎まれながら、何故彼奴らは増えていくのか。何故消えないのだ、誰も消さないのだ。

 確かに数は多い。繁殖も早い。しかもしぶとい。だが本気でやれば、彼奴らを消し去る事は、おそらく

不可能ではなかったはずなのだ。

 人間は病原菌すら消す。伝染病、感染症という恐るべき病気をも消し去ってきたのだ。

 目に見えない物も消せるのに、蚊程度が消せないはずはない。しかし、ああ、なんと言う事か。彼奴ら

は今日も生き残る。そして私の血をすすり、家族の血をすすり、未来永劫繰り返しながら、永遠に私達の

前に現れるだろう。

 害虫、それは最も忌むべき、人類の敵。昆虫こそが人類の敵なのではないか。

 ノミ、ダニも同様、忌むべき生物。いや、これこそが大量痒み兵器に違いない。彼奴らこそ、最も恐る

べき、最も進化した生体兵器であろう。

 彼奴らを止める事は、不可能と思える。その被害が痒み程度で留まっているが故に、そして人類には他

にもっと深刻な問題が多い故に、彼奴らは生き延び続ける。おそらく、いつのいかなる日々も。

 しかれども、私は彼奴らを侮辱できるという、一つの方法を発見した。せめてそうでも出来ねば、まっ

たくもってこの腹立ちを鎮める事は出来ないが。救いのある事に、私は発見したのだ。

 彼奴らは、こんな事は言いたく無いが、実に見事に血液を採取する。針を刺され、血を吸われているの

に、誰も気付かず。その吸血方法は真に巧みだ。それもまた英知であろう。

 だが思い出してみると、彼奴らが吸血する際、たまに痛みを覚える時がなかっただろうか。

 そう、人間にも得手不得手があるように、蚊にもその子孫を残す上で最も大切なはずの吸血が、事も有

ろうに下手くそな奴がいるのである。

 これを笑わずして、何が笑えるだろう。

 そして痛みを覚えれば、即座に叩かれる。少なくとも気付かれる。彼奴らはその時、最も惨めな瞬間を

味わうのである。そう、彼奴らは人に敗北するのだ。他でも無い、自らの失態で。

 さあ笑おう。この愚かしくも惨めな生物を。

 生涯晴れる事の無い憎しみと悲しみも、これで少しは晴れるかもしれぬ。

 蚊によって痛みを感じた時、それが最も彼奴らが嘲笑されて然るべき瞬間なのだ。さあ、同胞達よ、せ

めてその時を待とうではないか。我らはただ摂取されるのではなく、彼奴らを笑うべきその時の為に、彼

奴らをおびき寄せる罠を、常に張っているのである。

 蚊に吸われるのではない。彼奴らを嘲笑するというその瞬間の為に、わざと吸わせてやっているのだ。

 勿論見事に吸う奴も多い。それは良いだろう。そうしてそやつが子を産めば、また来年彼奴らを笑う機

会が増すのだから、それも良いとするべきだ。それはしくじりではない。それもまた謀略である。

 こうして幾重にも罠を巡らせ、その嘲りの時を待つ。これは戦いである。犠牲は多い。しかし確かに勝

利ある戦いである。

 さあ、同胞達よ。共に待とう、その時を。

 蚊などに悩まされてたまるものか。悩まされるべきではない。そうではなく、こちらが悩ましてやるべ

きだ。耐える時はもう過ぎた、今こそ人類と全ての生命に変革を。

 蚊に支配されるのではなく、我々こそが彼奴らを支配下に置く。

 今この時、人類、いや生命は進化を遂げる。その為ならば、この痒みとて微々たる犠牲である。


 などと考えなければやってられないこの季節、皆様いかがお過ごしでしょうか。

                                                        了




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