カボチャの気持ち、ピーマンの気持ち


 カボチャにはみっしりと身が詰まっている。

 その奥に大事にしまわれた種には、きっと豊かな才能が詰まっているのだろう。

 どんな才能かは解らない。

 でもきっと素敵なものに違いない。

 素敵なものを芽吹かせる為に、大事に大事に育てないといけない。

 種が発芽するまで、たくさんたくさん栄養を与えて、たっぷりと水を注ぐ。

 その為にみっしりとした身が詰まっている。

 身の中にはたくさんの栄養と水分が入っている。

 カボチャは豊かな才能を発芽させる為に、全ての力を栄養に変えて種に注ぎ込む。

 水、土、風、様々なものから少しずつ少しずつ栄養を摂取して栄養の塊を作り出す。

 種を育てる為に身を育てる。一見遠回りな方法だけど、一番確実で大きな効果を生む方法だ。

 遠回りした分だけ多くの栄養をたくわえる事ができる。

 それが本当かどうかは知らないけれど。

 そう思ってカボチャは今日も頑張っている。

 ピーマンには身がない。皮だけだ。

 空っぽの実の中には種がぽつんと置いてある。

 でも種には色んなものが繋がっていて、直接栄養が流れ込む仕組みになっている。

 身を作る分の栄養を、そのまま種に流している。

 全ては種に栄養を与える為。目的はカボチャもピーマンも変わらない。方法が違うだけ。

 カボチャは回り道を選び、ピーマンは率直な道を選んだ。どちらがえらいとか正しいとかは多分無い。どちらも

正解で、多分どちらも不正解なのだろう。

 元々どちらでも良いのかもしれない。答えなんていつもそんなものだ。

 どちらがどちらになったって何も変わらない。種は芽吹き、育ち、花を付け、実ができる。

 カボチャはカボチャに。ピーマンはピーマンに。色も形も味も違うけれど、それはきっと同じ事。いつもきっと

同じ事。

 皆同じ事をしている。

 こうなるとやっぱりカボチャは無駄な事をしているんじゃないかと思ったりもする。

 目的も結果も同じ、それなら回り道している分が無駄なんじゃないか。そう考えてしまう。

 ではこう考えてみよう。

 今までは種を育てるという一点に関しての話をしてきた。だからこそみっしりと詰まった身が無駄なんじゃない

か、という疑問に繋がる。ピーマンのように直接栄養を流した方が早いんじゃないかと思うからだ。

 なら別の見方をしてみれば、その誤解を解く(もしそれが誤解であるなら)鍵になるんじゃないだろうか。

 例えば、護っている。

 あの分厚くてみっしり詰まった身と硬い皮は種を護る為にあると考えてみよう。

 すると今まで疑問だったあのみっしりが、逆に必要性を帯びてくる。

 みっしり厚く詰まった身と硬い皮には鎧としての効果が期待できる。あの鈍器としても使えそうなカボチャの姿

なら、充分その役に立てると思える。

 みっしりとした身は無駄じゃない。

 しかしそうするとまた別の疑問が出てきた。

 今までとは逆の疑問。それなら何故ピーマンは護ろうとしなかったのか。

 いさぎよいまでの直接的な方法が、防御という点においてひどく不安になってくる。

 あの空っぽのすかすか、皮自体もそれほど硬くはないあの実では、とても種を護れない。

 ここに矛盾が生まれる。

 けれどそれも解決した。

 ピーマンにはカボチャにない苦味がある。カボチャがびっくりするくらい甘みがあって美味しいのに比べて、ピ

ーマンは苦くて食べられたもんじゃない。

 誰も食べる気がしないのであれば、そもそも護るという行為自体が必要でなくなる。

 ばんざい解決だ。

 と思っていたのに、また別の疑問が出てきてしまった。

 また逆の疑問。

 何故カボチャは甘いのか。何故苦くしなかったのか。という疑問だ。

 別にみっしりとした身で種を護るという発想はおかしくない。誰もが苦味を目指す必要は無い。目的を遂げられ

るなら、方法は何でもいい。

 でもわざわざ甘くして食べたくさせる必要はないと思う。

 不思議だね。けれど大丈夫。それにもちゃんと答えがある。

 植物は虫や鳥を種の運び屋として使う事が多い。その理屈から考えると、むしろ苦味を求めたピーマンは失敗だ

ったと思えてくる。

 つまり野菜は甘くてもいいのだ。

 鎧を作るのも種が完成するまでの時間稼ぎと考えれば説明が付く。

 本当かな、と思うのなら、ちょっと聞いて欲しい。

 初めから上手くいく事ばかりではないし。本当は失敗かなと思っていても、今更やり直すのは面倒だなと思う事

もあるし。何か変な事になったけど結果は出てるからまあいっかと思う事もある。

 人間と同じように、野菜も自然もいつもいつも上手くいく訳ではなくて。案外失敗する事の方が多いんじゃない

かな。

 一つ一つ見ていくと何かちょっとおかしいとこがあるけど、全体的に見るとまあ成功している。そんな感じで全

然大丈夫だと思う。

 ちょっと失敗したからやり直すんじゃなくて、最後まで諦めずにがんばるって気持ちも必要なんじゃないかな。

 カボチャとピーマン。どちらも仲良く成功して、仲良く失敗している。

 それでも何となく上手くいっているのだから、良いんじゃないかな。

 いつもいつも性急に正確な答えと効率的で完璧なものを求める人間の方が違うんじゃないかな。

 それって楽しくないよね。

 カボチャとピーマンも日々頑張って生きている。そしてこういう仕組みを作り上げた。その結果繁栄しているし、

今も生きている。それで良いんじゃないかな。

 そういう心を持って、今から語る話を聞いて欲しい。



 カボチャは重荷に感じていた。

 何に対して?

 自分の体に、である。

 この身には夢、希望、才能がみっしりと詰まり、溢れんばかりのそれによって身は甘く熟れている。でもその分

重い。このままでは身動きがとれないどころか、自分自身の重みによって潰されてしまうだろう。

 最初は良かった。夢はいくらでもあるし、豊富な才能によってどんな夢でも叶える事ができた。どれをやろうか

迷うのも楽しかったし、時間はあっという間に過ぎていった。

 でも迷っている内にどんどんどんどん身が詰まってきて、今では自分でもどうする事もできない。もう要らない

のに、才能や夢なんかもう要らないのに、どんどんどんどんやってくる。

 もうぱんぱんだ。お腹も心もぱんぱんだ。これ以上詰まると弾けてしまう。

 そんなカボチャを隣でピーマンが羨ましそうに眺めている。

 ピーマンには何もない。夢も希望も才能も無い。実の中は空っぽだ。貧相な種が申し訳程度に入っているだけで、

どこを探しても何も見付からない。

 だから苦い。自分の中身を見ていると口の中がじんわりと苦くなってくる。見ているだけでもそうなのだから、

食べたらもっと苦いだろう。

 種もだらしなくぐちゃぐちゃに入っている。みっともないと自分でも思う。

 どうしてこんな事になったのだろう。

 初めはピーマンにも夢や希望はあった。実の中に甘くぎっしり詰まっていた。でも余計な物を取り払い、要らな

い物をそぎ落とそうとして、大事なものまで全部捨ててしまった。

 必要な栄養だけは残したが、こんな貧相で苦い実なんか、誰も食べてはくれない。

 食べられないから長生きできるけど、誰からも求められないのは辛い。

 昔は野菜同士の繋がり、交流、そういったものは全てめんどくさいと思っていた。何でも自分でできるし、自分

だけが居ればいい。自分さえ良ければよくて、他の野菜なんか必要ない。親兄弟も邪魔だ。そんな風に考えていた。

 だからその全てを捨てていい気になっていたけれど。今になって思えば、それは自分を捨てているのと同じだっ

たような気がする。

 自分にまとわりつくだけで邪魔だと考えていたものは、実は自分自身の一部だった。

 おかげで今はこの通り空っぽだ。全てを捨てた当然の結果として、ピーマンは空っぽになっている。

 俺は孤独ではない、孤高である。天才とは常に凡人には理解されないもの。だからこれでいい。これが自分。な

んて言い訳を並べてみても、自分に嘘をつく事はできない。

 寂しい自分に嘘はつけない。

 ピーマンはそれを痛感している。

 だけど、カボチャを見ているとそれで良かったような気もしてくる。

 このカボチャは何でも欲しい欲しいと欲しがって、おそろしい事にそのほとんどを手に入れてしまった。

 溢れるほどの夢と才能、つまり際限の無い欲望で甘く熟れた体は、ピーマンから見てもとても美味しそうに見え

る。おさまっている種も幸せそうだ。

 でもその幸せ、あまあまな感じにカボチャ自身が今押し潰されつつある。

 何故なのだろう。こんなに甘いのに、幸せだろうに、みっしり詰まっているのに。

 空虚もなくて、寂しさもなくて、そんな気持ちなんて入り込む余地もないくらいに詰まっているのに。

 何故、こんなにもかわいそうに見えるのか。

 カボチャはいつまで膨らみ続けるのだろう。そしてピーマンとしての自分は、このカボチャをどうしてやればい

いのだろう。

 そんなピーマンの気遣わしげな視線を、カボチャは勿論知らない。

 カボチャには自分しかない。だから誰かに助けを求めるという考えも、いや自分以外に生きている野菜が居るの

だという認識すら失っていた。

 カボチャはたった一野菜、疑念をどこまでも大きくしていく。

 自分はいつまで膨らみ続ければいいのだろう。

 何故夢はいつまでも増える一方なのか。

 叶えても、叶えても減りはしない。増えるだけ。

 もうたくさんだ。もう面倒見きれない。

 全てを自己解決できるはずだった。

 何でもできるし、何でも叶えられる。自分だけでいつも満ち足りているし、どこにも隙間なんかない。カボチャ

はみっしりと甘みで埋まっている。

 これでいいはずだ。

 何が間違っている。

 才能と夢があれば、誰だって幸せ。一人で叶えて幸せになれるはずじゃなかったのか。

 全部上手くいってたし。望むように望むままに、自分の為に、自分の為だけに好きな事をやってきた。なのに何

故、こんなに苦しいのか。

 これが自分が求めていた答えじゃなかったのか。

 夢も才能もたくさんあればいいはずじゃなかったのか。

 一体何を間違えてしまったのだろう。

 それともこのまま弾ければいいのか。

 潰されて、砕かれて、中身を出せば良いのか。

 そうだ、思い切り弾ければいい。そうすればその中から種が芽吹き、新たな自分が誕生する。元々それが目的だ

ったんじゃないのか。

 悩む理由なんかない。黙って弾ければいい。

 苦しいのは一瞬だ。すぐに弾ける。潰されて、弾け飛ぶ。全ては予定通り。

 なのに何故、こんなにも疑問が浮かぶのか。

 これが望んでいた答えのはずだ。

 それとも違うのか。

 本当はこんな事を望んでいたんじゃなかったのか。

 自分でも解らなかったけれど、本当は別のものを求めていたのか。

 じゃあそれは何だ?

 解らない。解らない。

 解らないよ。誰か、誰か助けてくれ!

 ピーマンは確かにその声を聞いた。

 カボチャが助けを求めている。あの満ち足りているはずのカボチャがだ。

 それはピーマンに向けられたものではないのかもしれない。でも確かに誰かには向けられたもので、その誰かが

ピーマンであってはならないという理由は無い。なら、その助けはピーマンに向けられたものだと受け取ってもい

いはずだ。

 しかしどうすればいいのか。

 空っぽの自分に何ができるだろう。夢も才能も無い。あるのは空っぽの実だけ。風が吹けば飛ばされてしまうよ

うな自分が、カボチャという満ち足りた野菜をどう助けられる。

 満ち足りてない空っぽのピーマンに、誰かを助けるなんてできるのか。

 ピーマンは悩んだ。悩みに悩み、悩みぬいた。

 答えはいつまでも出てこない。

 当たり前だ。空っぽのピーマンに答えなんかあるものか。答えは常に満ち足りたカボチャの中にあり、ピーマン

にできる事はただ悩み、答えの無い疑問に諦めという結果を与えるだけ。

 いや、待てよ。諦め。そうだ諦めだ。その言葉は空っぽの自分にはひどく寂しく響くが。諦めも逆に言えば満足

という事。カボチャが満ち足りすぎて苦しいのなら、そこに満足という感情を与えれば良いんじゃないだろうか。

 これは空っぽのピーマンにしか思いつけない発想だった。

 面白い事に、空っぽである事が今のカボチャには必要なのだ。

 もしかしたらどちらも同じものを求めていたのかもしれない。形を変えた同じものを求めていたのかも。

 そしてピーマンはカボチャに諦めという感情を与えた。

 簡単な事だった。ピーマンの姿を見せればいい。自分しか見えてなかったカボチャに、ピーマンという貧相な空っ

ぽを見せる。それだけで事足りた。そしてそれを行う事は至極簡単な事であった。

 カボチャが誰かに助けを求めた時点で、その視界に入り込む事は簡単になっていたのだから。

 こうしてカボチャは満ち足りたまま満足する事を覚え。ピーマンは空っぽだからこそできる事があるという自信

を得る事ができた。

 求め過ぎるのも、諦め過ぎるのも同じ事。行き着く先はどちらも同じ。でもだからこそ分け合う事ができる。そ

してそれは与える方にとっても幸せな事なのだ。

 とはいえ、この満足感にもそのうち飽きるだろう。

 長く続けば何でも飽きがくる。

 でもそれでいい。その時はまたみっしりと空っぽに戻ればいい。そしてまたお互いにお互いが必要となったら、

もう一度くっ付けばいい。

 離れたい時は離れ、くっ付きたい時はくっ付く。永遠に離れ続ける事も、永遠にくっ付き続ける事もない。必要

な時に必要な方を求めればいい。

 丁度いい所を目指すのが難しいのなら、両極端を繰り返せばいい。そうしている内に見えてくるものもあるだろう。

 そんなお話。




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