かむかむすぐり


 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 貴方は何処へいらっしゃる。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 あの子はあそこへおらっしゃる。

 在る所に小さいお子がおりました。我侭一つ言わない子で、いつもにこにこ甘えん坊、皆から愛され、

その子も皆を愛しておりました。

 けれどもその子の母は嫉妬深く、その子を容易に誰かへ見せようとはしません。

 今まで母に散々縛られていた父はほっとしましたが、その父にさえお子を見せようとはしないので、父

もいつもいつも困っておりました。

 父は何度も母に言いましたが、母はちっとも話を聞いてくれません。

「この子は私が見ておりますから、他の誰も見なくて良いのです。この子の甘えは私の物、この子の笑顔

も私の物、他の誰にも渡しません」

 こんな風でしたから、もうどうにもならず、皆寂しい生活を送るしかありません。

 この子の笑顔が見たくて、何度も何度も訪れているのに、母はすげなく追い返し。その内母はお子と一

緒に部屋へ閉じ篭り、父の前にさえ姿を現す事がなくなりました。

 二人が心配な父は祖父や祖母、母の友達と考え付く限りの人を頼り、何とか母の考えを改めさせようと

しましたが、一向に利く様子は見られません。

 母はますます意固地になって閉じ篭ります。

 今頃あの子はどうしているだろう。大きくなったろうか、どちらに似ているだろうか、お腹は空かせて

いないのか、退屈していないだろうか。

 父は毎日毎日悩みましたが、とうとうそのままいつまでも会う事は出来ませんでした。

 あの子と母は部屋でどうしているのでしょう。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 あの子は母に連れられた。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 住んではいても交わらぬ虚しさよ。

 お子ははいはいとよちよち歩きが出来るようになっておりました。

 側にはいつも母、じっとお子を見守っています。

 お子はにこにこ、母もにこにこ、けれどもほんとはどちらも疲れていたのです。

 お子は母の機嫌を取る為に、母は慣れない育児を一人で背負った為に、どちらも大変疲れていました。

 この部屋に閉じこもって早一年、いや二年?、それとも三年?、もう時間さえ忘れてしまい、塞がれた

窓は外の景色も見えません。

 母は窓越しにお子を見せる事すら許さないのでした。

 けれどもそんな生活がいつまでも続けられる筈はありません。もう無理だと思いました。小さいお子で

すらそう思うのですから、もう大変に無理だったのでしょう。

 それでも母はこの生活を変えようとはしませんでした。

 母はもうこれしかないと決めてしまったようなのです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 誰の為にぞそれはある。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 誰の為にもそれはない。

 誰も彼もが諦めておりました。もう十年です。今までそうだったのだから、きっとこれからもそうなの

でしょう。

 生きているのか、死んでいるのか。それすらもとんと解らないのです。

 父も流石に諦めてしまい、どこかへと引っ越して、新しい生活を始める事にしました。

 皆もお子のにこにこ笑顔も思い出せません。全ては忘れられてしまうのです。

 忘れられてしまったら、お子と母と外との関係は、外から見るとまったく無いのと同じでした。

 皆はお子を不憫に思いましたが、きっともう無理だと解っていましたので、何かをしようとも、母とお

子の居る家に近付く者もいなくなりました。

 その家は化物屋敷のように、誰からも避けられる場所になっていたのです。

 そしてその事を悲しむ人も居なくなりました。

 悲しむ訳すら忘れられました。

 何故なら悲しむべき父はおらず、母と子は外の事を全然知らなかったからです。

 皆は父が去り、母とお子もいなくなってしまったのだと、思ったのです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 あなたは何処かへ行きました。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 何処かへ行けば変わるのでしょうか。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 いてもいてもいなくとも。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 忘れられたらお仕舞いです。

 お子は一人で少し考えられる年頃になり、ようやく母を説き伏せました。

 母もいい加減弱っていたのです。溜め込んでいた色々な物もなくなり、もう本当にどうにもならなくな

ってきておりました。

 母も流石に人は何も無しでも生きられるとは、お子へ教えられなかったのです。

 母は弱っています。お子が探しに行くしかありません。

 お子は頑張って外へ出ました。でもほとんどが初めての景色、何が何だか解りません。誰かに聞こうと

しましたが、誰もお子を覚えている筈はなく、不審げな目で見ては、遠巻きに去って行くのでした。

 それにお子はほとんど言葉が話せません。ああ、だの、うう、だの言っていれば、それは不審に思われ

ます。

 それでも父が去る前に残してくれていた物を見つけ、母の下へと戻りました。

 父は去ると決めても、どこかで母とお子が生きている事を、信じていたかったのでしょう。

 父が居ない事が解っても、哀しくはありませんでした。お子は喜びしか教わらなかったからです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 お仕舞いになれば終わりです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 でも終わって始まる事もあるのです。

 お子はよく外へ出るようになりました。

 母はもう何も言おうとしません。お腹が減って、何も足りなくて、それどころではなかったのです。

 しかもほとんどの物をお子に与えていたので、母はぐったりして動けなくなっていたのです。

 助けて欲しいようでしたが、もうお子の他には誰も近くに来てくれません。自分からお子以外の人を追

い出してしまったのですから、それは仕方の無い事でした。

 母は今になって涙が出てきましたが、今更どうしようもありません。お子がいつも笑顔で居てくれる事

だけが喜びでした。

 お子はどれだけ辛くても、何かしらほんの少しの喜びを見つけては、嬉しそうに笑うのです。

 それを見ては、母も力なく笑っておりました。

 もう笑うしかなかったのです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 母は悔いても動けません。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 お子はいつも笑うまま。

 いつも笑顔なお子に慣れたのか馴染んだのか、皆お子へと同情を寄せ始め。暮らしは細々でしたが、お

子も母も飢えずに済んでおりました。

 お子の笑顔は愛されるまま、昔皆が好きだった笑顔のまま、そのまま残っていたのです。

 人はその笑顔を見て、お子をお子と思い出さぬまま、それでも慈しむようになったのでしょう。

 けれども長い長いおかしな生活によって母は病気にかかり、とうとう亡くなってしまいました。

 お子はそれでも笑顔で見送り、母が居なくなった後もひっそりと笑っておりました。

 お子にはそれ以外にする事も無く、また出来る事も無かったのです。

 笑う事だけがお子の全て。笑顔で居る事だけが、母から教わった唯一の事だったのです。

 人は不憫に思いましたが、今更お子に何をする事も出来ませんでした。

 お子は解らないまま、いつまでも笑っていたのです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 亡くした後は考えず。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 辛さはいつも残される方にある。

 お子は何一つ解りませんでしたが、それでも必死に生きました。

 朝起きては表を歩き、笑顔を振りまいては食べ物を貰い。

 昼には太陽を浴びて、ゆっくりと休みました。

 夕暮れまでは働いてる人を見て、手伝いの真似事をしてみたり。

 夕暮れ過ぎては帰る人達の後を追いました。

 夜になって家に戻り、一人あの部屋で笑って眠ります。

 お子は何かしたかったのですけど、何をしていいのか、何が出来るのか、さっぱり見当がつかなかった

のです。

 決して遊んでいる訳ではありません。お子もお子なりに必死なのでした。

 でもほとんど話せず、言ってる事も解らず、結局大した事も出来ずに、それでも笑って眠るのでした。

 笑う事と眠る事、それくらいしか出来なかったのです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 託された命はそのままに。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 教わる事はないままで。

 お子ももう一人の大人、大きく大きく育ちました。

 見た目は立派、頭も立派。でも人と交わる術を知らず、人からは可哀相な子だと言われております。

 それでも笑い、ただ笑い。せめて笑う事だけでも一生懸命にやっておりました。

 でもお子はいつも悩んでいたのです。何を悩めば良いのかも解らないままに、とにかく頭を悩ませてい

たのです。

 答えが欲しかった。でもお子は一つとして答えを知らないのです。

 自分で見つけるなんて論外でした。笑う事しか知らないお子に、一体何が解るというのでしょう。

 悩む事すら解らなかったくらいなのですから。

 お子はいつまでたっても、笑う事しか知りませんでした。

 悔しさも哀しさも知らないまま、何があっても笑うしかなかったのです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 涙の代りに笑います。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 それを悲しみと知らぬまま。

 笑う事だけは絶やしませんでしたが、その笑顔にも悩んでいる様子が見えるようで、皆もお子が心配に

なってきました。

 見ている人達も、流石にお子が苦しんでいる事が解ったのです。

 皆は今では同情よりも深い、愛情をお子へと抱いておりました。お子がお子なりに頑張っていた事は、

皆誰もが知っていたのですから。

 しかしお子にどう言って良いのか解りません。言葉をかけてもほとんど通じませんし、話しかけるとお

子も困ったような顔をしますから、哀しくて話しかけられないのです。

 そこである人が考えました。その人は生れたばかりの猫をお子へ見せて、一緒になって世話する事を教

えようとしたのです。

 言葉では説明出来ませんから、その人はお子の家へ毎日通い、一緒になって育てたのでした。

 お子も初めは何がどうだか解らない風でしたが、その内とっても嬉しそうな顔で、一人でも何とか世話

できるようになりました。

 お子は初めて自分で出来る事を見つけ、そして自ら学ぶ事、誰かを世話したり守る事を知ったのです。

 一緒に居る喜びを知ったのでした。

 お子は子猫を大切にし、子猫を通して色んな人との交流が増えました。

 その内お子は言葉を多く身に付け、人と会話する事も出来るようになっていきました。

 お子は子猫を育てる事で、初めて母の心が解りました。母は確かに身勝手な事をしましたが、お子への

愛情は確かに誰にも負けていなかったのです。

 お子は生れて初めて涙を流し、喜びも悲しみも同じである事を知ったのでした。

 お子は色々な事を知りましたが、決して母を恨んではいませんでした。

 父の事も恨んではいませんでした。

 恨む事を知っても、決してそうは思わなかったのです。思いたくもなかったのです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 悲しみも喜びも人の中。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 知れば知るだけ人となる。

 不思議なお子の噂を聞きつけた父が連絡を寄越し、お子と父は十何年かぶりに再会できました。

 父はお子が生きていた事を喜び、母を許しました。

 いや、初めから悪いとは思ってなかったのです。父の中にはただ悲しみと寂しさがあったのでした。

 父は再婚して子供もおりましたが、いつもお子の事を想い、忘れた事はありません。

 父はいつまでも父なのです。

 父はお子を連れ帰ろうとしましたが、お子は頑としてそれを聞き入れません。

 何故ならここがお子の家だったからです。お子は自分に良くしてくれる人達に恩返ししたいと思ってい

ましたし、決してこの地から出ようとは思わなかったのです。

 そこがお子と父の違う所でした。

 父も最期には諦めて、連絡先を教え、また来るからと泣きながら帰りました。

 でもお子はそれが嬉し涙だと云う事を知っていたので、笑顔で見送りました。お子の目からも涙が流れ

ていましたが、お子は確かに笑顔だったのです。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 人の繋がりは消えぬとも。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 人はそれを距離で測ろうとする。

 お子も良い大人。そこで皆がお嫁さんをお世話してあげました。

 寂しいだろうと思いましたし、皆お子の側に誰かが居て欲しかったのです。もう二度と独りにさせない

ように。

 お子はお嫁さんとか結婚とかが良く解らなかったのですが、優しい女性でしたのですぐに打ち解け、優

しく二人で生活する事が出来ました。

 そのうちお子は子供を授かり、猫達と一緒に末永く笑顔で暮らしたそうです。

 お子はいつも笑顔でした。何が変わっても、それだけは生涯変わらなかったのだそうです。

 もしかしたらお子は、笑顔で居続ける事で、母を励ましていたのかもしれません。

 悔いて死んだ母でも、お子だけは母へ感謝していたのでした。

 そしてお子は、今自分が生きていられるのは、この笑顔の教えである事を、誰よりも知っていたのです。

 たった一つしか知らないでも、人は幸せになれたのでした。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 お子はいつも忘れない。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 感謝は感謝である事を。

 辛さも辛くはない事を。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。

 かむかむすぐり、かむかむすぐり。




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