軽石乾く


 軽石を拾った。

 とても軽く、スカスカしている。

 まるでスポンジを石化させたかのような形状に何となく親しみを覚え、そのまま持って行く事にした。

 初めはぽーんぽんと掌で投げながら歩いていたが。どうせ子供染みた事をするのなら、もっと子供がやりそう

な事をやってやろうと思い。近くに流れている川まで行って軽石を濡らし、濡れている間、つまり乾くまでの間

だけ歩いても良いという事に決めた。

 そこに何か確たる意味があった訳でも、そうしなければならない理由があった訳でもない。子供の頃そうして

いたように、単なる思い付きを、そうしたら楽しいかなって考えた事をそのまま行動に移しただけだ。

 気持ちが少し楽しくなる。

 川辺に行き、石を濡らした。

 まるで吸い込むように石の色がすっと濃くなり、水気をたぷたぷと含み、ぽたぽたと水滴が溢れる。しかしす

ぐに水気は切れ、またすうっと乾いていく。

 長いようで短く、短いようで長い。そんなどっちつかずの時間。

 もう一度濡らして歩き始めた。

 拳に握り込んで、掌に水の流れを感じながら。

 初めは微妙にくすぐったいような心持ちもしたが、すぐにそれに慣れた。乾きが早いせいかもしれない。

 掌の違和感が消えたので開いてみると、元のスカスカした軽石の姿が現れた。

 ぽーんぽんと投げてみると掌の上で乾いた音を立てる。できそこないの笛みたいな穴が、それでも精一杯奏で

ている音なのだろうか。

 もう一度川辺まで降り、水に浸す。

 湿った軽石はくすぐったくも拳の中に収まり、水分をゆっくりと吐き出しながら乾き続ける。

 その不可思議な感覚を楽しみながら、のんびりと歩いた。

 ただ歩く為に歩いたのはいつ以来だろう。いつから私は歩くことにすら意味を求めるようになっていたのか。

 ふとそんな事を思った。

 川に沿うように歩いていると、子供の頃の思い出がよみがえってくる。

 ゲームなんて便利な物が無かった時代だから、よく外で遊んだ。遊ぶという事が外出すると同じ意味だった頃

の記憶だ。

 近くの山に登ってアケビを採ったり、いが栗を靴越しに潰すように開いて実を採ったり、椎の実やどんぐり何

かもよく拾った。

 あの頃はそれを誰も拾わず、そこら中にほったらかしにされていたのがひどく不思議だったものだ。

 栗なんてどこにでも落ちているのに、わざわざお店に行って買ってくる親を見て、何とも言えない気持ちにな

った。

 そして落ちたまま腐っていく栗を見ては、勿体ないとも思ったものだ。

 いや、その頃の私にそんな気持ちはなかったか。

 あの頃の私にとってそれはありふれた物で無価値な物、大人がお金を出してまで買ってくるお店の栗の方が価

値ある物だと、単純に考えていたのかもしれない。

 それが間違いだと知ったのは、やはり大人になってからの事だ。

 子供の頃はそんな誤解をたくさんしていたように思う。

 いや、あの頃だけではない。きっと今も同じように色んな事に色んな誤解を与えている。

 価値ある物など知りもしないで。

 そんな気がする。

 いつの間にか掌の中が乾いていたので川辺に降りて軽石を濡らす。

 この時の何とも言えないくすぐったさには相変わらず慣れない。

 握り締めて、また歩き出す。

 一つ思い出すと次々に記憶が溢れてきた。

 まるで思い出してもらう事を何十年もの間ずっと待っていたかのようだ。

 どれも取るに足らないものだったが、その中で強く思い出したものがある。

 そう、少し遠目に見えるあの小さな山のような場所だった。

 いや、もう少し小さいか。山というには大げさな、上等な丘とでも言うような場所。

 その丘に切り立った崖のような面があり、そのままでは危ないと言うことでコンクリートで舗装されていた。

 丁度その頃、今も似たような番組はあるが、テレビで人工の障害物を乗り越えるような素人参加型の番組が流

行っていて。丘の舗装された面が丁度良い障害物になるのではないかと誰かが言い出し、それを面白いと思った

私達は、子供だけでそこを登りに行った。

 その舗装面はほぼ垂直で、土砂がむき出しな箇所もあり、コンクリートに砂や小石が積もった事でかえって滑

りやすく、今思えば大変に危険な場所だった。

 おそらく大人達は誰もそこを子供が登るなんて想像すらしておらず、取り敢えず土砂崩れを防ぐ舗装をしてい

ればそれで良いと考え、そのようにしていたのだろう。

 つまり先程の栗の思い出とは逆に、それは子供達にとっては格好の冒険場所だったのだが、大人達にとっては

ただのありふれた舗装面だったという事だろう。

 大人は誰もそんな物に価値を見出す人間が居るとは考えなかったのだ。

 けれど子供の頃というのはそういう危険を危険と解らず、今の私のように思い立ったままに行動するもの。

 ただそこにある物が、そこにあるだけでとても楽しい物であるかのように見えたのだ。

 確か三人か四人で行っただろうか。

 それでも最初は問題なかった。中腹、という程の物でもないが、まで達するまでは皆楽しく登っていた。

 誰もが真剣で、ただコンクリートの舗装面を登るという事が、とても楽しかった。

 きっと皆その時の私のように、テレビ番組の中に居るような気分で、アナウンサーや観客に応援される姿を想

像しながら、どうしようもない熱情に押されていたのだろうと思う。

 けれども後少しで一番上まで手がかかるという所で私は油断してしまったのだろう、足を滑らせ、そのままつ

るりと落下してしまった。

 いや、そう思った。そこで多分、私は自分の死を、死というものを生まれて初めて自覚したのだと思う。自分

も死ぬのだという当たり前の事を、そこで初めて知ったのだ。

 けれども落ちてはいなかった。

 覚悟してつむった目をおそるおそる開くと、そこに年長の友人の顔が見えた。

 彼は私の手をつかみ、必死に引っ張り上げようとしてくれていたのだ。

 今でもその顔をはっきりと思い出せる。

 必死でありながら、どこか諦めたような顔。多分、それが無駄な抵抗である事を、彼もまた知ったのだ。

 そんな彼の顔を私は不思議そうに見ていた。何が自分に起こったのか、それを理解したのはまだ後の事だ。

 その時の私が解ったのは、やはり私は死ぬのだという事。必死で手を引っ張ってくれている友人の姿、顔を見

て、ああここで終わるのだなとそう思ったのだ。

 そして私はずりずりと下がっていく自分を認識しながら落下し、たまたま下に設置されていた水路へと落ちた。

 よくもまあ上手い具合にすっぽり落ちることができたと不思議に思う。もしずれて水路の壁にでも当たってい

たら、或いはその水路にふたがされていたとしたら、そもそもその水路自体がなければ、私は死んでいたか、少

なくとも大怪我を負っていた事だろう。

 私が初めて死を覚悟した時、それが全身ずぶ濡れになるだけで済んだ事は何よりも幸運であったのだと今でも

思う。

 ぞっとするような無感動に押されるように、掌がゆっくりと開いた。

 すでに軽石は乾ききっていた。まるで今までに一滴の水すら飲んだことがないかのようだ。あの時の私とは丁

度正反対に、ぞっとするほど乾いていた。

 何が丁度なのかは解らないが、何となくそんな風に見えたのだ。これはあの時の私と真逆の生物、存在なのだと。

 軽石を思い切り握り込んだ後、勢い良く川へ投げ捨てる。

 あれが私の死だ。

 川から目を離し、反対側へ顔を向けると、防波堤のように高く積み上げられたこの場所からはたくさんの家々

が見える。台風の時は決壊し、水浸しになったこの区画も、今は平穏に人々が過ごしているのみ。

 私のように子供染みた事をしている人もいない。もしかしたら私の目に映らないだけかもしれないが。

 開いたままの掌を見るとほんのりと何かで湿っていた。

 そこにはいつでもあの軽石が居るのかもしれない。

 当たり前であるかのように。

 もう一度川を振り返る。

 川は何も答えてくれない。

 いつも通り、静かにさらさらと流れているのみだ。

 私は前を向いて歩き始めた。

 道中、数人の子供がすれ違い、私を走り置いていく。

 彼らもいずれ知るのだろうか。

 それとも、もう知っているのだろうか。

 そう考える私の目には、彼らが奇妙なものであるかのように映った。

 それは紛れもなく、あの頃の自分の姿だった。




EXIT