カワハギ


 木の側に立ち、一枚ずつ皮をめくる。

 この一枚一枚がこの木の一年であり、その生の全て、時間の結晶である。

 それが剥がれ落ちる度、この木はその生を、生の証を失っていくのだろうか。

 刻まれた時は、その記憶や思い出は、こうして剥がれ落ち、失ってしまえるものなのだろうか。

 なら全てを剥ぎ、丸裸の、生れ落ちた時の全てであるような、純粋な根本に辿り着いた時、そこには何

があるのだろう。

 そこには木そのもの、木を木とする何かがあるのかもしれない。


 勿論、木は生れ落ちてから木である訳ではない。

 今は雄々しく立っていても、昔は取るに足らない小さな種、小さな芽であったはずだ。

 全てを剥ぎ、原初の根本に辿り着いたとしても、それはまた別の変化を遂げた、今の木の姿でしかない。

 剥ぐ事でさらけ出すモノはあるかもしれないが、それは時を戻す事ではないと云う事か。

 存在という物は、案外しっかりしている。

 剥いでも剥いでもそこに在る。決して消える事の無い今の木の姿。

 全てを解いて、囲っていた物を取り去っても、もう何もかも戻る事は無く、決して消える事も無い。

 それが時を刻むという事なのだろう。

 それはどうしようもない変化。

 とすれば私は何故、こうして剥いでいるのだ。

 何を求めているのだろう。何を期待しているのだろう。

 解らないが。多分、私はただ、それを見たかっただけなのかもしれない。

 木の深奥に何があるのか、そして私の深奥には何があるのか。

 この木は私だ。私は私を剥いでいる。そんな事を思っていた。

 そこに意味があるかどうかは解らない。私はただ皮を剥ぎ続ける、この木がそれをどう思おうとも。


 空虚な想いを抱きながら、私は皮を剥ぐ。なかなか骨の折れる作業だ。

 一枚一枚剥ごうとするのは実に難しい。

 堅くて爪で剥ぐ訳にもいかず、刃物で切り込みを入れ、そこから年輪に沿って剥いでいくのだが。奥の

皮を傷付けず、そして木の全身からくまなく一枚をめくるのには、結構な時間がかかる。

 今では何故こんな事を始めたのかと、疑問しか浮ばない。

 疲れ、無意味な問いが浮び、正直辛いものがある。

 だが、それでも私は剥がし続ける。確かに大した意味は無い。でも何か意味があるのではなくとも、私

はそれをしたいのだ。何故か、それを心が望む。

 無意味、無価値、それこそを私は求めていたのかもしれない。

 何かを関連付け、無理にでも付加価値を設け、そうしてその上で自己満足に浸る。そういう暮らしにも

飽いた。

 生まれ出でてよりそれを宿命付けられていたのだから、それは飽きもする。

 しかし単にそれに飽いただけならば、いくらでも他にやりようがあるはず。それでも私がこれを続けて

いるのは、やはり深奥が見たいからなのだろう。

 ある程度想像もつき、頭では解っているのだが、それを実際に目にして見たい。

 見えてない限り、そこに何があるのか解らないだから、私はそれを見たいのだ。

 確かめたい。誰かが言った情報ではなく、自分の持つ情報として、私はそれを見たい。

 くだらない思いだとしても、私はそうしたい。どうしてもそうしたかった。

 初めは不便な心だと思っていたが。こうして剥いでいると、それがあって良かったと思う自分が居る。

 一目で全てが解れば、それはそれで良い事があるのかもしれない。

 確かに便利である。

 しかし私はこうして一枚一枚を見ながら、ゆっくりと剥がして、少しずつでも、亀の動きでも、自分自

身で解き明かすのが好きだったのだろう。

 だからか、私は剥ぎ続ける。木にとっては、苦痛でしか、ないのかもしれないが。


 とうとう全てを剥がし終えた。

 どれだけの時間を費やしたのかは解らない。そんな事を気にする気持ちは、とうに消えている。

 遂に私はやり遂げた。

 嬉しさというよりは、何かを得たという想いが浮ぶ。

 それは単純な疲れかもしれず、それ以外のくだらない何かかもしれないが、私には区別が付かない。

 私にとってそれは、確かに達成感と呼べる、満たされる何かだった。

 だが結果を見れば、やはりそれはそう。面白みの無い、当たり前の姿。

 木の深奥には、ただ一本の芯が在った。

 強靭で堅そうだが、それ故に割れやすい、すっと天へ伸びる細い芯の柱。

 だが、確かにしっかりとしてはいても、それだけではただの細く脆い木でしかない。予想通りの儚い姿。

 芯が空洞になっている木もあるそうだが、こうなると在っても無くてもどちらでも同じ事だと思える。

在ろうと、無かろうと、木は雄々しく立つ。木にとって、芯が必要と云う訳ではない。

 それはただの起点であって、それ以外の何者でもない。

 木にとって、芯云々よりも、重ねてきた年輪の方が重要なのだろう。

 重ねてきた物があれば、木は雄々しく立てる。堅く、誰も疎外する事は出来ない。否定する事も出来な

い。木は木として、確かにそこに存在出来る。

 だとすれば、芯に、深奥、原点、原初、根本と云うモノに、何か意味があるのだろうか。何かが在って

も、何も無くても、何も変わらないのではないか。

 深奥に何があろうと、誰にも見えないし、無くてもその存在が消える事も無い。

 ただ、この木には芯が在った。それだけの事。

 それを確認し、何が変わる訳でもない。在るモノは常に在るし。無いモノは初めから無い。

 誰が何を確認して、何を実証しても、それは初めから何も変わらないはずだ。何故なら、確認と云う事

は、何かを生み出す事ではないからだ。

 それを初めて発見したからといって、発見するまでは何も無かったという事にはならない。ただ、人の

中にそれが知られる、それだけの事。初めから最後まで、何も変わらない。

 そう、何も変わらない。


 木には芯があった。なら私にも芯があるのかもしれない。

 しかし、あった所で、一体何が変わるのだろう。

 達成感の後に、不思議な疑問がわいてくる。今までは考えもしなかった疑問。

 あるとすれば、それこそが新たに生まれた生なのか。私が剥ぎ取る度に、重ねてきた時間の結果、その

証明がその疑問なのだろうか。

 解らない。変わらず何も解らない。

 私は細く立つ木を眺めながら、途方に暮れるばかりだ。




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