形而上=形而下


 形而上、思想的、形の無い物を現す。

 形而下、物質的、形の有る物を現す。

 この二つは区別されてしかるべきだ。しかしこれは単に形の有る無しの区別であり、存在するという、

在るという点においては等しく同じである。

 どちらも人の頭の中にしかないという点で、両者は同じモノである。

 物質的な物、つまり触れられる物。見れる物、聴こえる物、確かにそこにあると五感で感じ取れる物。

 物質的でない物。何処にも無く、如何にもあやふやで、自分自身の頭の中にだけ宿り、決して触れる事

も、見る事も、聴く事も叶わぬ物。

 しかしこの二つは同じである。

 何故ならば五感もまた、人の脳で生まれるからである。

 物質的な物、それもまた人の脳が生み出した産物である。

 人の全ては脳から始まる。

 だからこそ、見る人によって違い、また状況によっても違いが生まれる。

 物質。何とあやふやな物だろうか。それもまた、脳という不可思議な存在の、一つの働きに過ぎない。

 であれば物質、非物質という区別をする事に、一体どれだけの意味があるのだろうか。

 形而上を究極的なもの、ありがたいものだと単純に考える。捉え難いからこそ立派なものだと考えるの

ならば。そこにこそ人の大いなる過ちが在るような気がする。

 どちらも同じ物。人と等しくあやふやな物。

 いや、人と関わったが故にあやふやになった物。

 人は何をもっても、あやふやであり、決定的な物は一つとして無い存在である。

 一片の石であれ、至上の正義であれ、どちらも同じく無意味な物である。

 人が未完成であるが故に、完全な物は一つとして得られない。

 少なくとも、今は、まだ。

 人が奢れば、破滅が生まれる。

 人よ、奢るなかれ。

 形而上を崇めるなかれ。

 形而下を侮るなかれ。

 全ては己が内にて。

 全ては己が内にのみ生ずる物。

 己が内にしか存在無き物。

 それだけの生命だと、そう考えるならば、おそらく道は啓かれよう。

 崇めるなかれ。

 侮るなかれ。

 すべては己が内に。

 すべての事象は我が内に。

 なればこそ、天上天下、全てはこの中に。

 天上天下唯我独尊。

 天上天下、全ての事象を己が内に見出せば。

 即ち人は仏となる。

 ただ己のみが偉いという意味ではない。

 ただ己が内にその道はあるのだ。

 全ての人よ、仏とならん。

 それだけが、人の求める道ではないか。

 永劫の幸福、それは不完全な人を脱却した所にある。

 不完全な脳を超えた所にある。

 そう考えるのが自然であろう。

 人がこの脳に頼る限り、決してそれは啓かれまい。

 人が区別を付ける度、人はそこから又一歩遠のいているのではないか。

 難しくするだけが道ではない。

 そう思い、これを記そう。

 不完全な人間の、不完全な思想として。




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