勤労の人


 彼は遅刻欠席もせず、毎日真面目に働いている。

 煙草も吸わない。酒も飲まない。博打もやらない。三拍子揃っており、生活習慣も健康そのもの、真に

勤労の人である。

 朝から晩までみっしりと働き、息詰まるようでいながら、彼自身はそうでもない。当たり前のように仕

事をこなし、当たり前のように真面目に働く。

 疲れもするだろうが、それを苦にしている様子は見えない。毎日真面目に働く。

 病気を一切しないのは、身体に気を配ってもいるからだろう。心根も優しく、少々自分にも他人にも厳

しい所はあるが、かえってそれが信頼を呼び。同僚達だけでなく、上司からも目をかけられている。

 実際、彼以上に信頼するに足る人物には、私もまだお目にかかった事が無い。正に清潔、清廉といった

風情であり、威風堂々とし、誰からも一目置かれている。

 彼には確固とした考えがある。

 酒も煙草も博打もせずに、何が人生楽しいのかと問われれば。

 逆に、そんなものしか楽しみの無い人生なんて御免だ、と言い。

 そこまで真面目にやって、一体誰の為だね。もう少し、ゆったりと楽に生きてはどうだね。などと諭す

かのように問われれば。

 こうして生きるのは自分の為、悔いなく生きる為に好きでやっていること。好きでやってるものを、何

で苦労と思いましょう。と迷い無く答える。

 真面目、堅苦しい、誰がどう思おうとそれが彼の生き方であり、彼にとっての普通の生活なのだ。

 それが彼であり、その生き方に誰も文句を付ける事は出来まい。

 例え何と言われようと、彼がその考えを変える事も考えられない。何故ならば、他者の意見など、彼の

美しくすらある生き方に比べれば、どうでも良いような事柄だからだ。

 しかし誠実な彼であっても、普通に生きていて、そんな事を周りから言われるものだから、多少迷惑し

ているように見える。人から言われる度に、その真面目さからきちんと答えてはいるものの、その後は暫

く不機嫌になるようだ。

 そう考えると。彼の周りに居る人間は、彼らなりに心配してそう言っているのだろうが。第三者として

見させてもらえば、彼を何としても堕落させようと狙っている、悪魔の使いとしか思えない。

 それでありながら、当の悪魔達は彼を堕落させる事が至善であると思い込んでいる。悪気は無いようだ

が、行いは明らかに悪である。だからこそそれを人は悪魔と呼ぶのだろう。

 悪意のある者を悪魔などとは呼ぶまい。純粋に悪意だけであり、悪意である事が自然であるからこそ、

それを人は悪魔と呼ぶのだ。

 しかし彼は不機嫌にこそなるものの、それ以上気にした様子は無く、悪魔達の意見にはまったく耳を傾

けようとしない。聞く価値も無い事に返事をするからひたすら億劫なのだが、その代わりどんな誘惑にも

屈する事は無いのである。

 彼には悪魔の意見など必要ではない。

 何故ならば、彼は自らの中に神を見出しているからだ。

 彼は人に生まれ付き宿っている、良心という清き心をのみ、神と呼ぶ。

 私が堕落させる他人を悪魔と呼ぶように、彼は自分の中にある良心という最高の善を神と呼ぶのだ。

 まったくもって正当な見解と言えよう。この世に神だの善だの言えるものがあるとすれば、紛れも無く

それであり、他のあらゆるモノの中にも神はいない。

 神はいつも自らの中にだけ居り、わざわざ他者の口を借りたりはしないのである。

 人が何か不善を働こうとした場合、必ず神がそれを否定する。しかし愚かな悪魔である者達は、その声

を振り切り遮って、悪魔が正しく悪魔であるような行動をとる。

 そして後悔する。自業自得とはよく言ったものだ。

 しかし悪魔である以上、そうする事がその本来の心に叶うと言えよう。

 そう考えれば、彼が真面目であるというのではなく、彼だけがまともな人間であって、他の人間はやは

り人間のような見た目をした悪魔であるに間違いは無い。

 何度考えようとも、これもまた正当な見解と断言出来る。

 とすれば、少なくともこの会社の中で、人間は彼一人だけと言う事になるだろうか。私も無論人間とは

言えない。彼を真面目だの清廉だのと言っている時点で、私もまた人間ではない。

 私もまた悪魔である。だがそれを恥と思えず、当然であると思ってしまう。だから確かに私も悪魔であ

る。哀しいかな、誘惑に従うだけの悪魔なのだ。

 人間であれば目線は彼と同じであり、真面目、清廉、それを当たり前と言い。決してあの人は真面目だ

とか、或いは嫉妬したりだとか、そういう言動をとる事は無い。

 何故ならば、そういうものは人間には当たり前のように備わっているものだからだ。何ら特別ではなく、

嫉妬する必要すら無い。自分にも誰にでも在る。

 そしてこう言うだろう。

 自分の為に努力するのは当たり前の事であり。それに一々賞賛や報酬を求める事は、初めから筋違いの

事なのだと。

 筋違いである以上、誰も自分の努力を認めてくれないのは当然である。

 しかしこの世には誉めるべきではない自分の為の努力を、何故か不自然なまでに誉め称える者がいる。

それもやはり悪魔であると言わざるをえない。完全なる悪魔の誘惑である。

 悪魔は人を滅ぼす。

 しかも自覚症状無く人を滅ぼす。だからこそ、やはり悪魔は悪魔である。

 もしかすれば、自分が何を言っているのか、それすら理解していないのかもしれない。

 正しく、彼らは悪魔である。

 そんな悪魔どもの甘言を退け、今日も彼は真面目に仕事をこなし、人生を楽しんでいる。

 彼は私の知る、ただ一人の人間である。もしかすれば、世界でただ一人の人間かもしれない。

 この世は地獄。よく言われる言葉だが、それもまた正当な見解だと言えよう。この世は悪魔ばかりなの

だから。

 人間は唯一人。私は彼こそ神と呼ぶ。或いは神の子であると。

                                                           了




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