人は皆、生まれた時は空を飛んでいる。 悩みなく、余計なものを抱えていないからだ。 それが成長するに従い、様々な事を考え、考える度に重くなる。 そしていつしか二度と浮かび上がれない程重くなり、大地にしっかりと繋がれてしまう。 別に大地が牢獄と言っているのではない。 大地が地獄だと言っているのではない。 ただ飛べなくなるのだ。 一度大地に降り立てば、人はもう二度と飛び立つ事ができない。 それが哀しいのである。
しかし人が考えるからこそ成長するのなら。 成長する過程で自然と様々な事を考えるというのなら。 そして実際に考えるという事から様々な恩恵を受けているからには。 この考えるという行為自体が間違っているとは思えない。 だとすれば、人は飛び立つ為ではなく、降り立つ為に生きているのかもしれない。 遥か昔、何も考えずただ無垢なまま飛んでいた日を懐かしく思う事も。 本当は余計な感傷なのかもしれない。
では何故、人はこうも空に焦がれるのだろう。 誰も大地を見ない。 空ばかり見ている。 身の回りを見ない。 夢ばかりを見ている。 そこにはきっと赤子に戻りたいという素直な想いがある。 やはり人は、成長したくもあり、元に還りたくもあるのだ。 そう思わなければ説明できない。 人が常に矛盾を抱えているのは。 生まれと成長、それそのものがこうした矛盾を抱えているからなのかもしれない。 それが人だと結論付けるのは。 まだ早過ぎるのかもしれないが。
人は身軽さに憧れている。 私もまた憧れている。 無意味だと思ってみても。 その想いを止める事はできない。 そして縛られきった自分を鏡に見て。 そっと溜息を吐くのだ。 毎日のように吐く。 まるでそうして吐き出すことで。 少しでも軽くなろうとでもするかのように。 涙さえ。 その為にあるのかもしれないと思う。
しかし人は飛んでいた時の事を。 はっきりとは覚えていない。 それなのに憧れているのは。 それを良く知らないからなのかもしれない。 だとすれば。 飛んでいた頃もまた。 今と同じようであったのかもしれない。 人が飛ぶ。 ただそれだけの事で。 何かが変わるとは思えない。 確かに気持ち良いのだろう。 空を飛ぶのはさぞや気持ち良かろう。 しかしそれだけで済まない事も。 我々は知っている。 大地には大地の苦悩があるように。 空には空の苦悩があるだろうから。
知っていて尚止められないこの想いは。 持っていなければならない心なのかもしれない。 良いとか悪いとかではなく。 使える使えないとかではなく。 意味とか無意味とかではなく。 ただそれが必要という事なのかもしれない。 例えその事で。 それよりも多くの辛い事を得てしまうとしても。 それがなければ生きられない。 夢がなければ生きられない。 憧れと希望がなければ生きられない。 そういうものかもしれない。 生きる為に。 それは必要なのだ。 きっと、忘れたくとも。
飛んでいた頃の気持ちを思い出す。 想像する。 何にも囚われず。 何事にも縛られない。 それが一体どういう事なのか。 全てに何も無い。 そういう事なのかもしれない。 だからこそ不安で。 飛んでいるからこそいつ落ちるか不安で。 人は必死になって降りる場所を探す。 それが考えるという事。 自分を縛り付けるという事。 絶対に逃れられないものを背負わせるという事。 つまり責任。 その二文字を得る為に。 人は必死で生きていく。 恐いから。 どうしようもないから。
人は空に憧れつつも。 皆空から逃げてきた。 空という何も無い場所から。 心が締め付けられるこの大地へと。 わざわざ降りてきたような者達なのだ。 人は皆飛んでいた。 その頃の記憶は素晴らしいものとして、我々を勇気付ける。 しかし我々はそこから逃げてきたのだ。 わざわざこの大地に。 皆して降りてきたのだ。 そのまま飛んでいれば。 今思う苦悩は何も無かった筈なのに。 我々は大地に降り立ち。 苦悩を受け容れる事を選んだ。 それが間違っているというのなら。 初めから間違っていたのだろう。
では間違っているとは何だ。 何が正解で、何が間違っているというのだ。 そして間違っていたからといってそれが何だ。 生き方。 そんなものに正解も不正解もありはしない。 ただ思う事は。 空はそれほどに恐ろしい場所である。 何からも縛られない。 何も気にする事はない。 好きなように好きなまま。 いつまでも勝手に生きればいい。 その何と恐ろしい事。 私は目を開けていられない。
人は落ちたのではないと知った。 考えに囚われ、落とされたのではない。 選んだのだ。 大地に降り立つ事を。 そして、そこで生きる事を。 考えるから重くなったのではない。 重くなる為に日々考えている。 そう思えばこの不可解な状態も。 自然に納得できるというもの。 誰のせいでもなく。 私はあの空が恐かったのだと。 今にして思い出せたような気がする。
今日もまた人は生まれ。 空から大地へと降り立つ。 大地へ降り立てば。 足元がしっかりして安心する。 もう飛べないという事も。 何も悪い事ではない。 飛んでいる自分が。 酷く恐かったのだから。 不安定な自分は。 何も無い自分は。 とても恐かった。 その事を思い出して。 ただ望むなら。 人はきっと大地で生きていける。 今よりももっと楽に生きていける。 この重みは敵ではない。 我々が選んだ。 人を護る為の。 殻なのだ。 我々の心を安心させる為の。 小さな、そして厚くて丈夫な。 殻なのだ。 人は空に生まれ。 卵に戻ろうとしている。 そんな不思議な生が。 人の生なのかもしれない。
では死とはどういう事だろう。 天に召される。 煙となって天へ送られる。 死とはつまり。 空へ還る事か。 頑丈な殻を割り。 そこから不安定な空へ戻る事か。 だからこんなに恐れるのか。 死というものが恐いのか。 私は空がそんなに恐いのか。
空に憧れるという事は。 死を憧れる事である。 それはつまり。 今ではない、今とは違う場所へ。 違う何かとなって逝く事だ。 人に死という果てがなければ。 人は今を生きていく事はできない。 その為の場所。 空に憧れ。 死に憧れるからこそ。 人は今日もまた頑張れる。 憧れている限り。 そこへ逝く事はないからだ。 だから安心する。 今日もまだ、大丈夫なのだと。 空から。 死から。 まだ自分は離れている。 そこへ逝くのはまだ先だ。 そして今日も何かを考えながら。 何かに悩みながら。 私は自分を護る。 護る為の殻を作る。 それが割れないように。 誰にも割らせない為に。
それが私の空。 |