木漏れ日の下で


 天気の良い空の下、木陰に座って絵を描いてみる。

 キャンバスを置いて、小鳥の囀(さえず)る中、黙々と描く。

 一人が通り、一人が駆けていく。一人は座り、一人は寝ている。私を気にする人は一人も居ない。実に

良い気分だ。

 犬の散歩だろう男女の二人連れが歩いている。犬の散歩を二人でするなんて珍しい。まだ若いが少年少

女という程には若くない。新婚だろうか、それとも恋人、或いは友達。解らないけれど微笑ましくある。

私はその二人と一匹を絵に加える事にした。

 こういう時にパイプでもくゆらせていれば良いのだが、私はタバコを吸わない。煙が嫌いだからだ。で

も何となく口が寂しくなる。ガムでも噛んでみようか。いやいけない。絵描きがガムを噛みながら絵を描

くなんてまるで似合わない。止めておこう。

 日差しは暖かく。私はこの心地良さをもし絵に出来たならどんなに良いだろうと考えている。それはき

っとどんな名画よりも素晴らしい絵になるだろう。美術的にどうとではなく、ただ人を和ませる、そんな

素敵な絵になるだろう。

 でも何千、何万と絵を描いているが、どうしても自然に感じるものを絵の上に表せていない。私は沢山

の絵を知っているけれど、それを少しでも出せている絵もまた少ない。

 私は少し焦りつつも、しかし程無く自分を取り戻した。この天の祝福たる心地良い日に、悩みなどは似

つかわしくない。

 親子連れが駆けている。父と息子、二人が一緒に駆ける姿は悪くない。運動会が近いのだろうか。それ

ともどちらかに付き合っているのだろうか。ただの習慣という可能性もある。私には解らない。でもこの

姿は悪くない。絵に加えておこう。

 私は基本的に人の絵は描かない事にしている。絵の中に人は入れたくないからだ。私はこの世に溢れて

いる人間というものをこの絵の中にまで描くのは嫌いである。でもこういう人の姿は悪くない。そこには

何とも言えない暖かい関係がある。なんて素晴らしいんだろう。

 ベンチに婦人が腰掛けている。年の頃は三十くらい、いやもっと上だろうか。実に落ち着いた表情。そ

こに居るだけで絵のように見える。この婦人はもしかしたら絵の中から出てきたのかもしれない。手にし

た何かをしきりにいじっているが、何も騒がさず、いつまでもしっとりと落ち着いている。素晴らしい。

絵に加えよう。

 時間と共に木漏れ日の影が姿を変える。無数の葉が組み合わさって姿を変えていくそれは、まるで万華

鏡のようである。いや万華鏡よりもずっと素晴らしい。輝きに満ち、しかしやんわりと影が受け止めてい

る。素晴らしい。是非絵に描きたいものだ。

 しかしいくら試しても上手くいかない。自然をそのまま描くという事はなんて難しいのだろう。何千、

何万と風景画を描いてきて、私はまだ何一つそれを描けていない。なんという無力さか。でもだからこそ

素晴らしい。私などには表現できないもの。だからこそ素晴らしい。例えそれに私の手が一生届かないと

しても。

 一匹の猫がふわりふわりと歩いていく。猫は何故いつも一人なのだろう。その柔らかそうな毛はとても

あたたかそうなのに、何故いつも一人で颯爽と歩いている。まるで何の疑問も無いかのようだ。なんて素

晴らしい。絵に加えよう。

 頭上で光が瞬いた。僅(わず)かな木漏れ日が波のように次々と揺れていく。鳥が翔けたのだ。葉と葉

の間に雄雄しい鳥の姿が見える。鷲(わし)だろうか、鷹(たか)だろうか、それとも鳶(とんび)か隼

(はやぶさ)。私は鳥の種類に詳しくない。だがそれが偉大である事は解る。あれは全てを支配する、支

配できる翼だ。生と死さえも超越して飛ぶ。素晴らしい。直ちに絵に加えよう。

 だが私が描く前に遠く遠くその鳥は消えてしまった。いや高く高くかもしれない。でもどちらにしても

同じ事だ。彼らもまた私の手の届かぬ存在。その姿は私の絵に影として描き込まれた。

 少し休憩しよう。

 大地に座ってぼんやりと眺めてみる。何故この風景はいつも違って見えるのだろう。そこに居る人が毎

日違うとか、そういう問題ではない。この風景はいつも違って見える。私の部屋がいつも同じである事と

はまるで対称的である。ああ、何故私の部屋はいつも変わらないのだろう。

 木漏れ日が少し強くなってきた。日は高く真上から刺すように降ってくる。もしこの光が全て槍であっ

たとしたら、貫けない物などこの世にあるのだろうか。

 大地に影と光がさざめいている。その全てが目だとしたら、一体彼らはどれだけ瞬きをしたのだろう。

 空気までもが暖かい。この空気が人を暖めてくれるとしたら、どんなに良いだろうか。

 私は何かをかじり、お腹を少しだけ満たした。腹がすいているくらいの方がいい。人はいつも絶対に一

つだけ、満たされていない何かがあった方が良いのだ。

 絵を再開する。

 もう随分描いた。描けるだけのものは全て描いたと思う。後は仕上げ。色を付け、全てを私の意志で染

めあげる。そしてこの絵は私だけの絵になる。私の描いた世界になる。

 それは非常に滑稽だが大切な事だ。私にとって、そしてそれを知る誰かにとって、とても大事な仕事。

最後の仕上げ。

 雲が出てきた。これを描くべきだろうか。もし描くとすれば光を全て一から描き直さなければならなく

なる。でもこの雲を無視しても良いのだろうか。そこにあるものを見ない、消すという事は、とても罪深

い事ではないだろうか。

 悩んでいる内に日が暮れてしまった。

 雲はすでに無い。まるで初めから無かったように流れて消えた。でも確かに先程まではこの空にあった

のだ。まるでたった一つの何かであるかのように。それはとても滑稽だが、大事な事であるように思えた。

私には解らないが、そう思える時はある。

 全てが朱に染まっている。まるで秋のように。

 しかし木枯らしが吹く日のようには、骨に響く冷たさはない。日が暮れてもここは暖かく。まるで理想

の何処かであるかのようである。全てが朱に暮れるのも、今日一日を惜しんでいるに過ぎない。

 そうだ。惜しい。私は全てが惜しい。

 私は全ての色に朱を加えた。特別な事は必要ない。皆が惜しめば良いのだ。今日という日を惜しみなが

ら過ごせばいい。そうではないか。それこそが生命だ。尊く、そして儚い、そしてそれ故に輝く。まるで

この太陽のように、朱に染まる太陽のように、朧(おぼろ)に、消えそうに、しかし何よりも強い。その

光は全てを染め変える。何て素晴らしい。これこそが絵だ。

 日が完全に落ち、全ては黒く塗り潰された。それでも生命は抵抗し、全ての物質は己の存在をそこにあ

らせようとする。素晴らしい。でもそれは描くべきではない。静かな夜は、終焉の夜は、決して誰にも描

かれるべきではないのだから。

 私は全ての道具を片付け、キャンパスを抱えて木漏れ日の跡から出た。

 描くべき絵は今日描けた。私が描くべき絵はここにある。何と素晴らしい事だ。ああ、是非絵に加えた

い。私という一日は、何て偉大なのだろう。それを描くべき絵はないけれど、私はその事を誰よりも今知

っている。

 素晴らしい。全ては隙間無く素晴らしい。


                                                               了




EXIT