固形物と融解物


 固形物は言う。己を貫き通す事こそ至上であり、変質する、ましてや融けるなどという行為は恥さらし以外

の何者でもないと。

 融解物は言う。己を変えないのは一個の我侭でしかなく、何においても周りの環境に応じて変化する事こそ

が進化であり、それこそが生命体足る道であると。

 両者ともに自らの考えを固持し、長い間緊張を越えた臨戦状態にあった。

 考え方の違う二者が解り合う為には互いに歩み寄る、もしくは一方が一方に対して恭順するが如き姿勢が必

要になるが。彼らは決して自分を曲げようとしない。

 もし折れてしまえば自分の存在そのものが無くなってしまうかのような危機感を互いに抱いている。

 この二者が交わる事は過去にも未来にもありえないように見えた。

 しかし彼らも初めからこのような関係にあった訳ではない。信じられないかもしれないが、以前はとても仲

が良く、友情を越えた兄弟愛に近い気持ちを持つ関係にあった。

 それが変わったのは以前は固形物であった融解物が融解するという道を選んだからである。

 話を聞いた時、固形物は猛烈に反対した。融解する事は自分を失う事に外ならず、自分という存在、ひいて

は一番近しいはずの固形物の存在すら揺るがす大問題であると。

 だが融解物は聞き入れなかった。彼はもうずっと以前から融解の虜(とりこ)になってしまっていたのだ。

 自分を融かし、その全てをさらけ出すという事に快感を見出し。いつしかその快感に溺(おぼ)れ、中毒に

なってしまっていた。

 固形物は融解物が融解というものに興味を持ち始めた頃、無理矢理でもその想いを止めておかなかった事を

深く後悔したが、後の祭りであった。

 そうして融解物は固形物の制止を振り切って、いやその制止に反発するかのように急速に融解し、その姿を

変えてしまった。

 固形物は絶望した。その姿を前にしてはもう何を言う事もできなかった。

 最も近しい存在が自ら望んで全く別の物に変わっていたという絶望感。これは自分自身を、そして今までの

友情と思い出を全て否定され、捨て去られてしまったに等しいと彼は感じた。

 しかし融解物は固形物が呆然と眺めるより外ない姿を同意した、受け容れてくれたと身勝手に受け取り、更

に融解を進め、最早原型を留めない姿に変わってしまった。

 今更融解を止めたとしても、元の美しい固形にはもう戻れない。

 友のあの美しい固形姿を見る事は永遠にできなくなってしまった。

 だが固形物は信念ある固形だった。

 確かに融解した事は彼に対する大きな裏切りなのだが、友は友である、固形物は初め融解物を許そうと考えた。

 誰にでも間違いはあるし、自分にも数多くあった。これからも多分たくさんの間違いを犯すのだろう。それ

ならば友である自分が許さなければ、一体誰が融解物を許してやるのだろうか。この絶望的な状況だからこそ

力を貸すのが友ではないか。

 そう思い、固形物はあたたかく接しようとしたのだが。それに対してあろう事か融解物は友ならば同じ道を

選ぶべきと強引に固形物にまで融解させようとした。

 完全に融解しつつある今、融解物にとってはもう融解する、融解しきる事だけが至上理念であり、それ以外

の考えは全く無くなってしまっていたのであろう。

 彼にとってはそうする事が友情の証であり、最大の好意的表現であった。

 これは後戻りできぬ所まで踏み入れてしまった者特有の心。他者を自分と同じ場所にまで引き入れる事で、

或いは貶(おとし)める事で自らを救おうとするあのはた迷惑な心に違いなかった。

 固形物にとって断然承諾できる事ではない。

 ここに到って生来頑固だが温厚であったはずの固形物の心に修復できぬひびが生じた。

 自分は融解した友を受け容れようとしたのに、その友は自分を融解などという不浄な行為に巻き込む事だけ

を考えている。

 奴は固形物の気持ちなど考えようともしない。これまでもそうだ。いつも自分だけで、身勝手に、全てを決

めようとする。

 これが本当に友だろうか。友であり続ける価値があるのか。

 全てを受け入れ、我慢してやる事が友情だと考えていたが、それは違うのではないか。何故他者を無視し、

自分の願いだけを押し付けるような者を大切にしなくてはならないのか。

 そう考えていると今までの自分の行為すべてが呪わしいものに思え、まるで融解物自体が固形物にとっての

全ての災いの源であるかのような気持ちになってきた。

 固形物の融解物に対する友情は完全に冷え切り、絶交を突きつけたのである。

 だが融解物にとってそれは寝耳に水の出来事。今まで散々良くしてやり、楽しみを共有させてきたのに、こ

うも一方的に絶交されるなんてなんと酷い奴だろう。せっかく融解までさせてやろうとしたのに、とこちらも

固形物に対する憎しみを燃え上がらせた。

 そしてその憎しみはどういう手段を用いても固形物を融解させてやる、という決意を持たせるに到ったので

ある。

 それからの二者は事ある毎に争うようになり、その仲はもう決して修復できないかのように見えた。

 この状況を最も憂いたのが熱だ。

 固形を融解させるには彼女の力が必要であり、融解物にそういうものがあるという事を教えたのも彼女だっ

た。悪気はなかったし、まさか融解物がここまで融解にどっぷりはまってしまうなんて思わなかったが、それ

でもきっかけは彼女である。

 この状況を見て、責任を感じない訳ではなかった。

 そして同時に迷惑してもいた。

 熱にとって融解物との関係は他の固形と同じようにちょっとした火遊びで、初めから本気ではなかった。そ

れがまるで熱を自分の物のように思い、他物にまで融解させる事を強いるなんて失礼な話だ。これではまるで

自分が誰でも融解させるような軽い熱のようではないか。

 一個の固形物をここまで融かしてしまった事に対する熱としての悦び、自信のようなものは多少は浮かんで

くるが。それを差し引いても不快感と恐怖感の方が勝る。融解の事ばかり考え、融解ばかりを求めてくる融解

物には正直嫌悪感しか持てなくなっている。

 それに融解物はもう原型すら想像できない程に完全に融解しきってしまっており、もう魅力を感じられなかった。

 自分がここまで追い込んだという責任感からしかたなく今も融解しているが、こんな関係を続けていても仕

方がない。そろそろ清算させておきたい。

 しかし別れを切り出そうにも、融解物にもう融解したくないなんて言うと何をされるか解らない。それを思

うとこわくてとても言い出せなかった。

 融解を超えて完全に蒸発させてしまえば済む話かもしれないが、熱にもそこまでの熱さは無いし、さすがに

そこまでするのは気が引ける。今は迷惑に思っていても何度も融解した相手、情が無い訳ではないし。もう二

度と融解物が元の姿に戻れないのだと思えば、悲しくもあり申し訳なくも思う。

 身勝手だと思われても熱とはそういうもの。熱し続ける事もできず、冷ます事もできない。熱もまた哀しい

生き物であった。

 だがこのまま居てもどうしようもない。融解物の思いは激化する一方であるし、そんな事にいつまでも付き

合っていたくは無かった。

 そこで熱は思い切って固形物に相談する事にした。

 融解物が憎しみを抱く前に聞いた固形物像は頼もしく、そして誰よりも信頼できるものだった。今更自分が

のこのこ出て行って相談できるような筋合いではないのは解っているが、他に当ては無いし、頼み込めばきっ

と無下にできないだろうという打算もあった。

 固形物は融解物を融解せしめた熱に対して当然のように怒りの感情を抱いており、最初はまったく無視され

たのだが。熱の思惑通り、元々固形気のある固形であるから、熱の心情を徐々に解ってやるようになり、最終

的には二者で融解物を説得してみようという事になった。

 しかしこれがいけなかった。

 融解物は最初固形物が融解に興味を示してくれたのだと思って喜び、歓迎したのだが、それがまったくの見

当違いであり、むしろその逆である事を知って。そして自分が融け込んでいた熱の裏切りを知って、驚きと怒

りの余り自分を失ってしまった。

 彼は固形物の止めるのも聞かず、俺は融解の上を行く、もう熱などお前にくれてやる、俺は蒸発するんだ。

などと喚き散らし、熱の親であるマグマの許へ行き、その中へ躊躇無く飛び込んだのである。

 何も知らぬマグマが気付いた頃にはすっかり融解物は融け切ってマグマの一部になってしまっていた。融解

物は蒸発しきる事もできず、永遠に融解を繰り返しながらマグマとして生きるしかなくなったのである。

 固形物も熱もあまりの事に音も出せず、しばらく呆然としていたが、融解物は融解物でその本懐を遂げたの

だと思う事にし、悲しみを抱いたまま別れる事にした。

 だが共通する悲しみと喪失感を抱いた事で二者の心は急速に近付き、いつしか互いに恋いうるようになって

しまっていた。

 固形物は何を考えても熱の事を思い浮かべ、熱は熱で同じように固形物を思い浮かべる。

 しかし固形物に熱が近付けば融解し、融解物と同じ末路をたどる事になるかもしれない。それでもいいと思

う事もあったが、愛ゆえにどちらも一歩踏み出せなかった。

 こうして皆満たされぬ思いを抱えながら、それでも自己を保つ為に生涯我慢し続けるしかなくなったのである。

 そんなお話。




EXIT