悔い改めよう


 皆色んな事を他人のせいにしています。しかしその誰もが本当は解っている通り、実際はそうではあり

ません。何しろ自分に関しての事なのですから、その全ては自分が最も大きな原因であるに決まっている

のです。それは当たり前の事で、もし他人が自分よりも自分の生活により大きな影響を与えるとしたら、

その事の方が異常だと思えます。

 それを示す事柄は沢山ありますね。

 例えば親子の問題です。

 解りやすく身近な親子の話にしてみましょうか。子供は学生くらいで、まだ独立していない頃が良いで

すね。親子の関係が一番変化を来たす頃です。


 この頃になると、大抵の子供は大人を信用しなくなります。大体この頃に親という化けの皮が剥がれる

と言いますか、もう小さな時のように親は偉大な存在であるという嘘が通じなくなります。親の言う事を

そのまま信じるような事はなくなって、自分で考えようとします。

 これは大変良い事で、ようやく頭を使い始め、一人前への第一歩を踏み出したという事で、歓迎すべき

事態です。でもその分、親の言う事は正しいとか、大人は立派だとか、そういう妄想が通じなくなります

ね。今までの事を、むしろ否定しようとさえ子供は考えるようです。

 子供も本当は大人が皆偉大だと信じたいのですが。物事がありのままに見えてくるようになると、期待

が大きかっただけにがっかりします。多感な時期ですから、そういうので物凄く心が傷付けられます。そ

して全てに絶望してしまい、湧き上がってくる独立心と相まって、大人に対しある種の敵意を持ち始めま

す。表に裏に攻撃的になったりもしますね。

 残念ながら、世の中には大人らしい大人というのが、とても少ないです。テレビのニュースを見ても解

りますが、実に子供っぽい大人が多くいます。勿論それは全ての大人ではありませんが、子供は親へのが

っかりした気持ちから、それを率先して信じてしまうのです。

 そして思います。大人の方がむしろ子供っぽく、どうしようもない存在なのだと。今まで親や大人に騙

されていたのだと。

 反抗期というのは、そういう言ってみれば純粋過ぎる感情から生まれるのだと思います。

 だから決して悪くは無いのですが、それによって道を踏み外す事も多々あります。仕方ない事なのです

が、悲しい事でもありますね。


 では子に対して親の方はどうでしょうか。

 親の方も子供が段々自分の言う事を聞かなくなり、扱い辛くなってきて、子供に不満を多く感じるよう

になります。何でも反対し、何でも逆らう。そういう風に思っておられる方も多いでしょう。ちょっと前

までは素直な良い子だったのにと、親の身勝手な心から思ってしまわれる方もおられると思います。

 それもまた、仕方のない感情です。親もまた子供に少しがっかりしてしまうと思います。例え身勝手で

あっても、親もまたそう思うのが人情というものです。

 そしてどうしたものかと途方にくれます。

 子供に知恵が付いてきますから、これまでのように適当に誤魔化せないのですね。親という権威が無力

になっていくのを感じると思います。これは怖く、そしてそれ以上に不快であります。

 親はこう思うでしょうね。子供が解らなくなった、と。

 それは厳密に言えば間違っていて、親は初めから自分が思っている程、子供の事を解っていた訳ではな

いのですが、何となく裏切られたような気持ちになる訳です。

 こうなると、親は何とか今までの子供を取り戻そうとします。意固地になり、親の言う事を聞きなさい

とか、貴方の為に言っているとか、そういう事を繰り返すようになります。これまで通り、親の敷いたレ

ールの上を、言われた通りに進んで行けば良いのだと、そのように言いますね。

 そうすれば、これまでのように上手くやっていけるのだからと。

 口調も態度も段々刺々しくなってきますが。これは別に子供が嫌いになった訳ではなく、ただ怖くなっ

ているからそう言うのですね。子供が自分から離れていくのが嫌だから、余計な事を言ってしまうのです。

過剰に言ってしまうのです。

 子供が思っているように、もし本当に親が子供をどうでも良いと考えているのなら、初めから何も言わ

ないでしょう。一緒に住む事さえしていないかもしれません。

 本当は一緒に居たいからこそ、子供と衝突する訳です。

 もっとも、父か母か、どちらかが極端に強くそれを言っていたら、もう片方は逆に何も言わなくなる事

があるようです。これは子供を無視しているのではなくて、片方が言っているのだから、自分までごちゃ

ごちゃ言うのは辛いだろう、という親心からでしょう。

 そういう所から、暖かい気持も読み取れますが、しかし子供にそれを察してくれというのは、親の我侭

に過ぎません。子供は自分の事で手一杯なのですから、解ってくれなんて押し付けるのは可哀想というも

のです。


 お互いにこんな事を思っている訳ですから、親子はどんどんいがみ合うようになって、仲が悪くなって

いきます。

 そうして誤解したまま、お互いに苛立ちを募らせて、ついには爆発させてしまったり、そのまま疎遠に

なって行ったりする事があります。勿論、時間を置けば解決する事もありますが、仲直りのきっかけを失

ってしまう事も、当然あります。

 でもそれはお互いにとって一つも良い事は無いのです。

 親と子がいがみ合う事に、良い事はありません。正に百害あって一利無しです。

 親も子も別に嫌いたくてお互いを嫌っているのではありません。ただお互いにお互いが誤解するような

言動を取ってしまうから、その誤解によってその間に溝が生まれてしまうようです。

 本当の事を素直に言えば良いのに、なかなかそれが出来ません。皆察して欲しく、必要以上に物を述べ

無いのですね。解って欲しくて、こちらから解ろうとしないようです。大人も子供も困ったものですね。

 では、仲直りする為には、どうすれば良いのでしょうか。


 まずは親の方から行きましょう。

 一番解っていなければならない事は、親は子供が産まれれば親になるのではない、という事です。親と

はそのような事で、自分とは別の要因でなれる存在ではなく。人が親になろうとして、初めて親になって

行ける存在なのです。

 親であるから無条件に偉大なのだと、子供にとって偉大な親なのだと、そんな風に思ってはいけません。

そうなるように努力しなければならないのです。

 自分が子供であった時を思い出してみれば解ると思います。親はただ親と云うだけで、子供から尊敬さ

れると思っている。なんて傲慢で煩わしい存在なのか。そのように思った事はありませんか。

 そういう事を大した理由も無く押し付けられる事は、とても不快だったと思います。

 今も昔も同じで、親はいつも子供に見られています。つまりはいつも子供に審査されている訳です。親

に相応しいかどうかを、いつも子供に問われている訳です。

 自分が親になったからといって、子供の気持ちを忘れてはいけません。子供は子供の気持ちしか解りま

せんが。親は親の気持ちも子供の気持ちも解る筈なのです。だから親の方が譲歩して考えてあげなければ

なりません。

 昔の気持ちを思い出しながら、今どう子供と接するべきかを考えるのです。貴方の子供なのですから、

貴方の子供時代ときっと似たような事を考えると思います。必ず貴方なら解る筈なのです。

 昔自分が親に感じた違和感というのですか、納得できないという気持ちを、自分の子供にも感じさせて

はいけません。折角子供と親の両方の気持ちが解るようになったのですから、子供の気持ちを忘れてはい

けません。親の気持ちだけでは、本当の意味での親にはなれないのです。どちらの気持ちも大事にしなけ

ればなりません。

 貴方は無責任になっていませんか、投げ出していませんか、投げやりな気持ちになっていませんか。

 例えば子供が何かしてしまった時、妻や夫に対して、お前の育て方が悪いからこうなったんだ、とか、

あなたがそうやって子供と向き合わないからあの子がぐれてしまったのよ、とか言っていませんか。

 或いは、学校が悪い、今の教育が悪い、子供に悪い友達が出来たからだ、あの子とはもう付き合っては

いけません、とか思っていませんか。

 確かにそういう可能性もあると思いますが、それだけではありえませんし、誰かのせいにしてもむしろ

状況を悪化させるだけです。他人に責任を被せ、自分はそこから逃れようとする所に、子供は酷く醜さを

感じ、親を軽蔑する心を持つ大きな理由になるのです。

 親らしく全てに責任を持ちましょう。貴方が子供の時も、親にそういう期待を抱いていた筈です。今貴

方がその気持ちに応える時なのです。

 学校と教育が出ましたが、教師もそうですね。教師も常に生徒にその資格を問われています。教員の資

格なんて何の役にも立ちません。生徒から教師であると尊敬されて、初めて人は教師になれる訳です。

 腹の中で、親の育て方が悪いからこうなるんだ、この子供がろくでなしだからだ、自分の教え方が悪い

訳ではないんだ、などと考えていたら、いつまで経っても本当の教師にはなれず、生徒からも親からも軽

蔑されたままになってしまいます。

 親も教師も非常に近しい存在であると言えます。まずは自分の責任だと、そう受け止める事が必要です。

そこから全てが始まりますし、そうしてこそ親への教師への道が開かれるのです。

 むしろチャンスなのです。責任を持てば苦労しますが、それだけで子供達からの信頼を得る事が出来ま

す。それならば安い代償ではありませんか。

 さあ、紙とペンを取り出して、紙にこう書いてみましょう。

「今から悔い改めます。子供は私の鏡です。そうさせたのは私です。全ては私の責任です」

 書いたらその紙を丁寧に折りたたみ、そっと胸元へ忍ばせておきましょう。胸ポケットなりに入れてお

いて、身勝手になりそうな自分を感じたら、その場所に手を置いて、そっと自分で悔い改めるのです。

 いつも反省する心を忘れてはいけません。

 教師ならまだ良いでしょう。順調に行けば六年、三年、四年でその子達とはお別れです。それも長い時

間ですが、一時の関わりである事に変りません。しかし親は違います。一生子供と付き合っていかなくて

はなりません。それなのにいがみ合っていては幸せな老後を送る事は出来ませんし、それまでにも色々な

苦労があります。

 親子関係が拗れて、良い事なんて一つも無いのです。

 親は衰える一方ですが、子供はどんどん大きくなります。今はまだ力で押さえ付けられても、すぐに子

供の力の方が大きくなってきます。その時にどんな目にあわされるか。慕われるのか、それとも今までの

恨みを晴らされるのか、それは全て親次第です。

 どんなに子供が悪ぶっても、決して見放してはいけません。頭ごなしに形式的に叱ってみても、何の意

味もありません。もっときちんと話を聞いてあげて、何かやってしまったら、全部親の責任だと思い、自

分で反省しながら、最後まで面倒見てあげましょう。

 丁寧に接していけば、子供は必ず親を親と認めてくれるようになります。

 その頃は照れくさくて言えないかもしれませんし、天邪鬼な言動を取ってしまうかもしれませんが。そ

の心の中では、親に本当に感謝しているものです。諦めてはいけません。諦めた時、親子はそこで終わる

のです。そして貴方の幸せな老後の生活も、そこで完全に無くなるのです。

 子供に憎まれた人生、そんな人生に幸せはありません。断言できます。

 決して諦めてはいけません。努力し続ける事、それが幸せに繋がるのです。


 今度は子供の場合です。

 大人を大人であるから偉大などと思ってはいけません。大人は子供と違うなどと思ってはいけません。

大人も子供も同じなのです。年齢の違いだけで、考え方、物の見方はほぼ一緒です。人によってそれは少

しずつ違いますが、大人子供で実は差はありません。貴方が思っているように、大人も子供も大した差は

無いのです。

 それを逆に言うと、子供も大人同様に汚いという事になります。貴方が大人に思っている事は、そのま

ま子供にも、そして勿論貴方自身にも当て嵌まる訳です。

 大人とか子供とか、そういう区別を付ける事自体に、元々無理があるのかもしれません。

 でも現実には区別が付いています。確かに年齢による差もあります。だからそれを完全に否定する必要

はありませんが、それに拘る必要も無いのです。形のみに囚われてはなりません。

 今の内からそういう型に嵌った見方ではなく、ただ一人の人間として人を見られる事に、慣れておきま

しょう、学んでおきましょう。

 人は様々です。それに一々ケチを付けていても仕方がありません。貴方もまた欠点のある人間なのです

から、一々人の欠点をどうこう言うのではなくて、誰にでもある欠点を持つ、当たり前の一人の人間だと

考える方が、気は楽です。

 全ての事にそこまで貴方が関わる必要は無いのです。皆それぞれに貴方と同じく、自分勝手に様々な事

を考えています。その全てに貴方が干渉したり、責任を持つ必要はありません。それは人それぞれ、各々

が持っていれば良い事です。

 人は人で貴方が思っている以上の事を考えています。貴方が人が思っているように様々な事を考えてい

るように、人もまた貴方と同じように色んな事を考えているのです。

 例えば、自分にとっての理想の他人があるように、他人にとっても理想の他人が居る訳です。そしてそ

の中で、自分の理想だけが他人の理想よりも優先されたり尊重されるような事はありません。

 人間は皆平等。誰も優先されないのです。

 人によっては他人への影響力が大きく、優先されていると思える人もいますが、実際には大して変らな

かったりします。人は良く忘れる生き物です、一時の印象などはあまり気にしない方が良いでしょう。

 実に様々な意味で、総括的に、人は皆平等なのです。

 人に対する見方、視界もそうです。

 人は他人の事の方が良く見えますが、自分の事は良く見えません。

 ただこれはその言葉通りの意味ではなく、意識の差というものだと思います。

 目や耳から人は様々な情報を得ます。人間は、いや生命というものは、自分よりも周りの事を気にする

ものです。周囲に気を配るものです。それは身を守る為であったり、食糧確保など、生きる為であります

から、当然の事なのです。

 ですから、そう言う意味で人は自分の事を良く見えない、と言えます。逆に周囲の一部である他人の事

は良く見えます。極々自然な事ですね。仕方の無い事です。

 でも仕方が無いで済ますのは勿体無いです。仕方ないと思う事と、それを諦めると云う事は等しい事で

はありません。むしろ仕方ない状況だからこそ、少しでも良くしようと考えるのが、建設的というもので、

自分にとっても良い事だと思います。

 意識をもう少し自分の方へ向けてみましょう。そして人は他人の方が良く見えるという事を、逆に利点

として考えるのです。

 他人の方が良く見えると云う事は、他人が貴方を良く見ているという事でもあります。

 勿論個人個人で差はありますが、少なくとも自分自身よりも貴方の事を気にしている事になります。そ

して貴方と同じように、貴方が自分にとって理想の他人である事を強く望んでいます。

 そうであるならば、貴方がその理想の他人になれば良いのです。勿論他人の理想の全ては解りませんが、

大体理想の人間というのは誰もが似たような姿を描きます。それが例え他人のものではなく、自分の描い

た理想であっても、嫌われる理想などはありません。

 ただし肝心なのは、それが理想の自分ではなく、他人が思う理想の自分、と云う点です。それを意識す

れば、独り善がりにならなくて済むと思います。そこは慎重に考えましょう。

 そうして人にそれを望むのではなく、まず自分がそうなるように努力するのです。

 他人をどうこうするのは難しいですが、自分を変えるのは簡単です。自分がそうすれば良いだけなので

すから、やろうと思えばいつでも出来る訳です。とても簡単な事です。

 それを面倒くさいと思うのなら、他人にそれを望む事も止めましょう。他人も貴方と同じく、理想の他

人になる事は面倒だと考えるでしょう。少なくともそれを面倒と考える貴方に対し、そんな手間隙をかけ

ようと考える人は少ないと思います。

 人はただ好意をもらうだけで、人にはその好意を返さない人に対し、あまり積極的に好意や信頼を寄せ

ようとは考えません。

 自分を通して他人を見れば、それもよく解る筈。それが理解出来てくれば、人に対し無茶な要求を望む

気持ちが少なくなります。

 それどころか、ああ、あいつも面倒くさいのか、とちょっとだけ親近感が湧いてきたりもするでしょう。

 あいつも自分も同じ、面倒くさい事は誰がやっても面倒くさい。そういう当たり前の事に気付いた時、

他人と自分という溝が少しだけ埋まるのです。

 それは自分にとってもとても良い事の筈です。

 さあ、紙とペンを取って、いや筆ペンの方が気分が出るかもしれません、こう書きましょう。

「他人は鏡。他人は自分。それに何かを望むより、望まれる自分になろう。他人の望みは自分の望み」

 長いですか。まあ、そうですね、長いと思う場合は適当に端折っていただければ良いと思います。自分

が解っていれば良いのですから、自分で解るようにメモすれば良いのです。そんなものです。

 他人にケチを付けているよりは、他人に好かれる自分を目指す方がよっぽど良いと思うのです。

 世の中に良い大人が居ないのであれば、貴方がそうなれば良いのですよ。間違っても今の大人と同じ道

を辿ってはいけません。子供から尊敬されない大人、それほど虚しく惨めな事は無いのです。明日は我が

身、そう思って、今から良い大人になりましょう。さあ、なりましょう。

 自分の為にも、世界の為にも、なりましょう、なりましょう。


 人がいがみ合う事に何の良い事もありません。なのに人は、面倒くさいからとほったらかしにして、一

番面倒くさくて性質の悪い状況へと、自分を追い込もうとしているのです。

 悪魔がいつも誘っている、惑わしている、と言う人も居ますが。確かに人間には常にたぶらかす悪魔、

いやさ自分の欲望が付き纏っています。

 そこから抜け出す事だけが幸せへの道である事は確かでしょう。ようするに自分が面倒くさいと感じる

事を続ける事が、自分の幸せに繋がるのですね。これは大変解りやすいです。逆に運が良いと思える程で

すよ。楽な方へ行かなければ幸せになる、これを天邪鬼の原理と呼びましょうか。簡単に判断が出来ます

から、便利といえば便利です。

 それに人間には欲望という悪魔が居ますが、それと同時に良心と云う神も居るのです。悪魔を反面教師

とし、良心といつも相談しながら生きれば、人生に迷う事なんかありません。

 人は誰しも、生まれた時から一番良い道を知って生まれてきているのです。それが不変であり、普遍の

道であるかは解りませんが、少なくとも今の状況にある人間の幸せへの道というのは、生まれながらに誰

もが知っています。

 難しい事を考える必要はありません。難しく考える必要もありません。

 哲学にしろ心理学にしろ、本来は最も簡単な事なのです。何だか難しくして偉いもののようにしたがり

がちですが、自分を考えると云う事は、人は自分の事が一番良く解るが為に、一番簡単な事の筈なのです。

幸せへの道は、誰もが解っているのです。誰もが解るからこそ、幸せの道なのです。

 でもそれに従わない。誰もが楽なように見える不幸の道しか歩まない。

 哀しい事に、人は不幸の道を歩みがちです。しかもそれを望んで進むのです。

 ですが、貴方もそうである必要はありません。貴方は幸せの道を歩めば良いのです。貴方が憎む人、軽

蔑する人、その人と反対の道を行けばいい。それは貴方が思っているよりもとても簡単な事です。

 難しい言葉や心は必要ありません。ただそこを歩めば良いのです。

 怖がる必要もありません。そこにこそ本当の安らぎがあるのですから。

 自分の心に描く他人ではなく、目の前のありのままの他人を見。

 自分の心に描く自分ではなく、他人が見る自分を想像し。

 それを自分の良心に照らし合わせ、一番良いと思う道を進んで行けば良いのです。

 欲望なんてみみっちいものは捨ててしまいましょう。もっと欲しい、そんな下らない考えは捨ててしま

いましょう。

 いつも腹八分目。もっと欲しいが丁度良い。その考えで行けば、少しだけ心も軽くなる筈です。

 人は実は満腹になる必要なんて無いのです。おなか一杯食べなくても余裕で生きていけます。むしろそ

の方が健康的なのです。

 もっともっとなんて心は、初めから要らないのです。気にしなくて良いのです。

 何を嘆く事もありません。貴方はそれを知っているのですから。

 貴方は初めから救われているのです。

 他ならぬ貴方自身によって、貴方は救われているのです。




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