浮遊するクモ


 もくもくと生じ、流れていく無数のクモ。

 ここにはふんわりとした気体しか存在しない。その中で重いクモは下へ、軽いクモはそれに押しのけられ

るように上がっていく。

 自然と階層が作られ、そのそれぞれに似たような重さのクモが集まる。

 しかしその全ては同じではない。似ているのは重さだけ、他は少しずつ全部違う。

 だから決して交じり合わず、混沌として、はっきりとそれぞれが主張しながら複雑に一つの階層を形成し

ている。

 クモの濃さによって階層中の占める割合は変わる。濃ければ濃い程はっきりと強く、その階層の多くを占

める事になる。

 薄いクモはいずれ飲み込まれてしまうか、小さく散らばりながら細々と暮らすしかない。

 そうやってある種の秩序が生まれ、地位と居場所が自然と定められる。

 そんな中、小さな小さなクモが生まれた。針の穴ほどもないクモで、誰よりも小さい。しかしその濃さは

一番で、どんな場所に行っても決して薄まる事はなかった。

 小さいけれど誰もこのクモを阻む事はできない。

 そしてこのクモ、不思議な事に重さが一定ではない。自由に変えられないが、その日その時の環境によっ

て重くなったり、軽くなったりする。

 そんなだからどこかに定住する事も、多くを占める事もできないが。あらゆる階層のどこへでも行く事が

できた。

 このクモは初めは何も解らず、変化する重さのまま上へ下へと移動していた。何をするでもなく、生まれ

ながらの流れに従っていたのだ。

 しかし何度も何度も色んなクモと触れ合う内に変化が起こり、遂には一つの意思を持つようになった。

 それは他のクモのようにある階層を、いやできればこの世の全てを埋め尽くしたい、などという物騒なも

のではなく。色んな物を見たい。もっと色んなクモと触れ合って進化したい。という、ものだった。

 それにこのクモはとても小さいので、どこへ行っても大きな迷惑にはならない。

 無害に近い。

 ほんの塵ほどもない空間を一時だけ貸してやれば、それで満足して去っていく。

 初めは警戒していた他のクモ達も、それに気付いてからはこのクモを敵視しなくなり、逆に他の階層の情

報を得る為の便利な情報源として利用始めた。

 数多く居るクモの中でも階層を移動できるのはこのクモだけ。つまりこのクモ一塊しか、他の階層の事を

知る事はできない。

 クモ達はこのクモを重宝するようになり、クモの方も素直にその願いに応えた。

 それに何を教えたとしても、クモ達は結局この定められた場所から出てこれない。知った所で使い道が無

いのだから、無害である。

 そしてクモはどこへ行っても迷惑に思われる事がなくなって、今まで以上にたくさんのクモ達と触れ合い、

少しずつ進化していった。

 でも大きさは変わらず、いつまで経っても小さいままだった。

 ある時それを気の毒に思った大きなクモが、広げて大きくしてやろうと干渉したが上手くいかなかった。

余りにも密度が濃く硬かったので、押しても引いてもびくともしない。

 他にも同じように気の毒に思った濃く強いクモが、何とかほぐしてやろうとがんがんぶつかってみたが、

それでもびくともしない。跳ね返されるだけだった。

 そうこうしている内に何とかしてやろうと考えるクモは居なくなってしまった。諦めてしまったのである。

 クモは悲しんだが、できない事を期待しても仕方がない、同じようにさっぱりと諦めてしまう事にした。

 それからは少し楽になったが、そうなってしまうと今のようなふわふわとした暮らしが急に煩(わずら)

わしくなって、毎日少しずつやる気を失っている。

 しかし情報はきちんと教えていたので、他のクモも実害はないからと放って置いた。

 クモは少しずつ孤立していき、ただの情報源、自然に流されるだけのただのクモになっていった。

 でもそんな状態も悪くはなかった。

 流されるだけでも他のクモの影響を受けて進化できるし、むしろのんびり本来の目的を遂げられる。

 気に病む必要なんてどこにもない。

 理解したクモは余計な事を考えないで済むようになり、その分外に意識を向けられるようになった。

 今までとはまた違ったものが見えてくる。

 それはクモを更に複雑かつ細やかに進化させる役に立った。

 そうした日々の中、ある一つの疑問が浮かんでくる。

 何故クモには違いがあるのか。重さ、濃さ、何故そんなものがあり、それによってそれぞれの位置、強さ

が決まってしまうのだろう。

 そして何故このクモ一塊だけが移動し、他のクモとは全く別の考え、望みを持っているのだ。

 どのクモも初めは全く同じものだったはず。それとも初めから違っていたのだろうか。

 クモは探ってみる事にした。

 大分進化を遂げ、姿形こそ変わらないものの、自分である程度重さを変える事ができるし、他のクモの力

を借りればある程度自由に動く事もできる。

 ただふわふわと漂うだけだったクモとは違うのだ。

 クモは自分の生まれた場所、一番低く、一番重いクモのそのまた下にある何だかよく解らない場所へ行っ

てみる事にした。

 重く強いクモ達に頼み、下へ下へと引っ張ってもらう。

 後は最も重くなれる環境になるのを待てばその場所へ行けるはずだ。

 クモはゆっくりとその時を待った。


 体中に重みが加わっていくのを感じる。

 ガス状の先の先、空気よりわずかに濃い部分までしっかりと重みが伝えられた。

 重力が強く弱くとこのクモに対しては変化する。

 クモはその重みに従いながらゆっくりと高度を下げた。

 そして一つ一つ階層を降りていく間に、それぞれ最も重いクモがこのクモにわずかずつ重みを加え、下降

速度を上げさせる。

 初めはほんの少しだったが、見る間に速度が増し、未体験の領域に達する。

 速度に戸惑いながら、真っ直ぐに落ちていく。

 まるで自分ではない何かになってしまったかのようだ。

 クモというよりはもっとはっきりした形を持つ何かになって、硬く硬く底まで落ちていく。

 そんな感覚を楽しみ、恐怖しながら、クモは耐え続けた。


 最後の階層を抜けた。更に降る。

 そこは黒い気体に包まれ、奥底から赤く光る何かが叫び散っている。

 今までのように安定したクモが階層を作っているのではない。重さ、濃さ、それぞれ違ったクモ、いやク

モにもならないガス達が乱雑に積もっている。

 一番黒いガスは重くも軽くもないが、何か圧するものがあり攻撃的で、クモを変色させようと何度も干渉

してきた。危うく避けたが、もう少しで黒ガスに食い荒らされてしまっていただろう。

 それくらいこのガス達は貪欲で、何クモもそこにいる事を許さない、とでもいうような意志がある。

 クモは小さい体をもっと縮ませ、針の一点でその合間を縫い進むようにしてどこまでもどこまでも落ちて

いった。

 今となってはこのクモこそがこの世界で一番重いクモ、存在であるようだ。重みを重ねて生まれた速度も

緩む事無く、勢いは衰えない。


 延々と落ち続け、底に果てはあるのだろうか、そんな風に思ってきた頃、不意に目の前が開かれた。

 そこは赤い光に満ちた、うなる世界。

 絶えず音が聴こえ、クモの体を震わせる。大した音量ではないのに、その一声一声で体をばらばらにされ

そうになる。

 クモがこんなに硬くなければ。こんなに濃くなければ。おそらくばらばらに剥がされ、砕かれ、最後にあ

のガスにのまれて黒ガスへと姿を変えていた事だろう。

 それでも下降速度は落ちるどころか増していく。下にくればくるほど重力が強くなり、クモは自分達を求

めている存在を感じた。

 もうすぐそこだ。

 耐えるのに精一杯で見えるものも見えないが、それでもその力ははっきりと感じられる。生まれた時から

今まで、そして多分これからもずっと感じ続けるだろう力だ。間違える訳が無い。

 クモは不思議な懐かしさを感じた。

 始まりへ回帰する。

 つまりそれが、本当に生まれるという事なのだろうか。

 解らないが、重力は更に強まる。

 もう体を押さえているだけで精一杯だ。少しでも気を抜くとばらばらに散ってしまう。空に溶けて、自分

というクモではなくなってしまうだろう。

 この存在はクモを強く求めながら、その存在を壊そうとしている。

 それとも焦がれる余り要らない力が入り、それにクモの方が耐えられないのか。

 そうかもしれない。

 しかしこのクモならば辿り着けるかもしれない。応えられるかもしれない。数多いクモの中で唯一重力を

変化させる事ができるクモだからこそ、できるかもしれない。

 もうすぐ、もうすぐだ。

 クモはもう本当は消えかかっていたが、その一念だけで辛うじて耐えた。

 その意志だけが生の証明だとでも言うように。

 しかし次第に重力に飲み込まれ、意識を失ってしまった。


 意識が戻った時、クモは何も無い真っ白な空間の中に居た。

 黒くもない。光でもない。ただそれが在るという意味の白。それだけの白。その存在だけが本来持つはず

の白。それ以外には許されない色、場所。

 一色に染め上げられた空間に、クモだけが異質に存在している。

 圧力は感じない。おそらく達したからだろう。引っ張る必要は無いのだ。求めていたモノが目の前に居る。

後は望んだまま感じ取ればいい。その生を、存在を。

 クモは暖かく塗り潰されていくのを感じた。

 存在と存在が触れ合い、何かを共有し、また別のモノに生まれ変わる。

 進化だ。本当の意味での。独りでは決して得られない、本当の意味での進化、覚醒。生まれた時から望ん

できたモノ。

 クモは全てに満足した。

 望んでいたのは白だけではない。自分もまた望んでいた事。こうする為に生まれ、生き、ここまで来た。

 クモはゆっくりとほぐれるように体を広げた。その一つ一つに白が満ちていく。

 力だ。求めていた、進化だ。

 白にもクモが今まで様々なクモから得た色が与えられた。赤、青、緑、黒、数えきれない程の色が白い世

界を彩る。

 こうして白に形が与えられた。本当の意味でこの世界に存在できるようになったのだ。

 しかしクモがそれを感じ、見る事はもうなかった。

 クモはもっとはっきりとした存在となり、誰よりも濃く、重く、新たな形をとってその世界から抜け出す。

 ぐんぐん上昇していく。白から逃れるように、新たなる白を探すかのように。

 それに触れたガス達は全て取り込まれた。

 クモだったモノは更に姿を変え、大きく育ち、もっと多くのモノを取り込んでいく。

 どこまでもどこまでも広がり、まるでその全てが自分であるかのように成長し、還っていく。

 そのモノはこの世界における全ての力を手に入れ、クモ達に力を分け与えた。

 すると他のクモ達もそのモノと同種の存在へと変わり、同じ意識が生まれた。

 生きたい、誰よりも生きたいと。

 そして一番最初のモノに付き従うように上昇し、その地から完全に離れてしまった。

 最も求め合っていた白とクモが、最も離れていく。全てを終えた後は当然そうなるとでも言うように。

 そのモノ達は遥かなる宙空にてそれぞれが異なる世界として再生し、全ての色で彩った。


 こうして世界の外の世界、無数の宇宙が誕生したのである。

 宇宙達は数多の生命を生み、育み、大きく多様に変化、成長していく。膨らみながら、この全ての世界の

一つとなる日まで。


 今この時もまた一塊のクモが誕生している。宇宙の子たるクモだ。

 それが宇宙になるかガスと消えるかは解らないが。無限の可能性を持った、一つの世界、命である事に

違いはない。

 全ては形作られ、誕生する。新たな一つだけの形となり、現れる。

 今までも、これからも。

 果てしなく、永遠に。




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