崩しの美学


 形有る物はいつか崩れる。どんなに完全な物であると呼ばれようと、実際にどれだけ強固であろうと、

いずれそれは崩され、壊される。行く末は皆壊れるのが等しき運命。

 何者であろうと崩される。ならば崩しこそが最上であり最後の形、全てが向うべき姿ではないか。

 それが完全であればある程、崩れる姿は美しい。完全なものが崩れ去る。そのなんと趣き深い事よ。

 崩すという至上の行為に身を委ねれば、甘美なる時を得られる。それは道に先駆けてそれを得るという

畏れ多さからもくる、至上の快楽。

 しかし勿論、最高の崩しである死を与えるのは天のみぞ行う事。人がそれを行うには余りにも過ぎてい

るし、例えそれが出来たとしても慙愧(ざんき)の念に耐えられない。

 そこまでは私も欲しない。だからこそ死ではなく、崩しを求める。

 崩しとはそこに到るまでの過程に過ぎないが、それ自体が完成された行いである。

 死という永遠の崩しではなく、それはただ一時ではあるが、崩しの美技には変わりない。それに一時と

いう限られた時間のみ道を踏み越えられるからこそ、得られる快楽もある。一時であるが故に、それを許

される。禁忌を踏み越えられるという悦楽。

 一時の崩し。それもまた美しい。無と有、死と生の狭間にある、境界の悦楽。

 一瞬の美。

 例えば武道でいう崩し。

 これは相手の力の流れ、本来の山のようにどっしりと構える姿、即ち完全なる姿を崩す事で、その力を

失せさせる行為である。

 態勢を直せばすぐに回復する事が出来るのだが、その瞬間は崩壊という言葉が似合う程に崩れる。正に

無力化されるのである。

 これは至上なる甘美と言わねばならない。

 一瞬で全てが崩れ、全てが戻る。そしてまた崩し、還り、刹那の営み、刹那の美が続く。この永劫に続

く営みは、美の連続であり、果てもなく広がる極大なる美だ。

 崩すという事は、そのもの全てを操る事でもある。その瞬間、その存在を完全に支配している。それは

紛う事なき美。至上の悦楽。甘露の如き美。

 全ては委ねられ、何者もそれに逆らえない。

 これは甘美である。

 美術的な崩しもある。

 神々しき姿が、年月をかけて朽ち、崩れ落ちていく。完全だったものが、未来永劫に荘厳と佇む筈だっ

たものが、抗えず崩れていく。それを見る者は、そのものが体感しただろう全ての時間を想い、その姿に

憐れみと敬意、そして若干なる優越の意を浮べ、悦楽を得る。

 そこに漂う侘しさと寂しさ、朽ちた中で生み出されるそれが、人の心になんともいえぬ情感を与え、静

かにだが確かに震わせる。

 何と云う美であろう。何と云う快楽であろうか。

 朽ちという崩しにこそ、朽ちて崩れているからこそ、人は美を見出す。時間という等しく与えられる流

れ、自分が得られないだろう時間に対し、あるいは自分の人生の大半に及ぶ時間に対し、そこに限りない

存在と生の意味を見出し、至上の美を感じ取る。尊さにも似た美がそこには在る。

 これらは全て崩しがもたらすもの。崩しの美学である。

 ならばその美を、私の手で与えたい、私自身が生み出したい、と思うのが人情ではないか。

 私は何であれ、それを美しく崩す事にのみ執着して生きてきた。

 私を憐れと思う者もいたが、その憐れさもまた崩しである。私と云う本分を崩す悪辣な行為ではあるが、

それもまた崩し。ならば美しいと言わなければならない。

 その者は崩しに執着する私を哂いながら、自身も崩しに囚われていたのである。この皮肉もまた美しい

ではないか。

 嘲り、憐れみもまた、美しい。私を永遠に崩す事は出来ぬ、一時の崩しであるが故に。私がそのような

愚かな戯言に耳を貸さなかったが故に、それは至上の美を伴うのである。

 私の気持ちが完璧であればある程、私の執着が強ければ強い程、それを揺るがす想い、崩しは美しい。

 もし私がその崩しによって、永劫に志を失うような事になれば醜い行為となるが。彼らにとって幸いな

事に、私はそれを死ではなく、崩しと出来るだけの強い執着があった。

 感謝するといい。その心の醜さを、紛う事なき美に変える事が出来たのだから。

 そう、私を否定する者もまた、崩しの美学に憑かれている。その事に気付かないのは愚かであるが、そ

れもまた崩しとみれば、美しいものである。侘しさと寂しさがそこにもある。

 ただそれを自ら悟れない事に対しては、美が感じられない。

 気付かぬまま、ただ自虐的に自らを貶める行為は、果たして美と言えるのか。

 私を貶めようとし、しかしそれは鏡に映った自分を貶めるような行為であるとすれば、それは美と呼ぶ

に相応しい行為なのだろうか。

 そこに救いがない行為ならば、それは死であり、崩しではないのではないか。

 崩しでなく、それが死に誘う行為であるとすれば、それは美ではない。

 しかしそこに死という強制力があるとも思えない。ではそれもまた崩しなのか。美であるのか。

 解らない。解らないがまた、この悩める心も崩し。ならばそれで良いのだろう。

 このように私の崩しへの執着は、私と意が合わない人間にも向いている。彼らもまた崩しに魅入られて

おり、その姿を見るのは悦楽である。

 私を蔑むその表情もまた程好く崩れ、私の好みに合う。むしろその顔を見る為と思えば、私自身に崩し

がふりかかってきても構わないとすら思える程だ。

 自己犠牲のない美学など、美学ではない。

 自らの犠牲を省みず、率先して実践するからこそ美が生まれる。人任せの美学など、ありえない。

 私もまた、崩れればいい。その一時、至上なる快楽となれるのならば、それを厭わない。それが美学と

いうものではないのか。

 全ては崩される為にある。私と云う存在もまたその為にこそある。

 崩しの美学。それは全ての人間が、自ら悟る事無く焦がれている、不可分の快楽である。

 人間が生まれ出でてより持つ、人間そのものの美学なのだ。

 完全なる物に手を入れ、指先を刺し込み、ゆっくりと動かしながらほぐし、掻き乱す。

 それを完全と知っていながら、その程度でそれを滅する事が出来ぬと知りながら、それを乱す。

 無意味である事を、すぐに復元する事と知りながら、それを揺らがせる。

 決して死を与える事はしない。

 云わば、その無意味さを楽しむ。

 それが崩すという事。

 そこにあるのが崩しの美学。

 陰でありながら、一縷の陽がある。

 それは救いと解してもいい。

 必ず後に救いがあるからこそ、遠慮なく崩せる。崩しを楽しむ事が出来る。

 それが崩しの美学。

 崩しは崩しであるが故に常に一定ではない。救いはいつも同じ所にある訳ではない。同じ好意でも、あ

る時には、予想以上の崩壊を生む事がありうる。

 そうなっては美しくない。だからこそ美学が要る。美を美足らしめん為には、学が要るのだ。

 私の執着はその美と学を極める為にある。決して破壊ではない。むしろ生ずる為にある。

 美学である事が、私にとっての執着なのである。

 いや、執着であるからこそ、そこに美学が生じるのか。

 どちらにせよ、変らない。

 私は崩しの美学と共に生き続ける。

 或いは死して尚、追い続けるだろう。




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