まあちょっと書いてみようか


 まあちょっと短編でも書いてみようか、という気になった。

 短編でも、などと言うとまことに傲慢かつ短編に対して失礼な話だが、短編というものにはそういう気

安さみたいなものがある事は確かだと思う。

 ここで長編と言ってしまうと、どうしても構えてしまう所がある。長いというのはそれだけで人を躊躇

(ちゅうちょ)させる何かがあるものだ。

 ただ長いというだけで人は恐れにも似た感情を持ち、ただ短いというだけでどことなく安心するような

所がある。

 他の人はどうか知らないが、そんな気がするのである。

 ともあれ、短編である。

 しかし一口に短編と言っても色々ある。短いからこそまとまりの良さも必要であるし、すらすらと読め

る軽快さが必要だろう。

 折角短編にしたというのに、何だかずるずると重苦しいようでは、あまり出来が良いとは思えない。

 勿論短編の評価はそういう点だけではないとは思うが、そういう部分を重視するのも人というもの。す

うっと読めるのも良い点であろう。

 いや人という大きな括りでは支障があるか。ここは私の好み、という小さな小さな点にまで収縮させる

としよう。

 そんな事を言われてもよく解らない。確かにそうか。そう仰るのも無理はないのかもしれない。

 だが、人は各々様々な感情や思いを抱くものであるから、その思いや考えに間違いなどというものはあ

りはすまい。

 ただそれが他人にとって相容れるものか相容れないものなのか、それだけの事である。おそらくは。

 だとすれば、これは私の作品であるから、私の基準で行こうと思う。

 他人の基準は、私には理解出来ない事であるし。

 私は誰の基準も正確に理解する事は出来ない。おそらく他の人もそうだろう。だからこそ人の心は面白

いものであるし、厄介なものであるといえる。

 こういう風に何に付けても人の心を持ち出すというのは優れた手法である。

 その手法を使った事による作品的優劣は解らないし、文学的にそれでどういう評価が出るかはまた別の

問題だとしても。人の心に無理矢理にでも繋げるというのは、何となく上手くまとまるような、落ちが付

くような、そんな気がする。

 とにかく人である。人は自分に近いものでなければ理解出来ないのだから、どんな話になるとしても、

人を基準に考えるしかない。

 擬人化、というやつだ。

 そして人から想像するそのものの姿、というやつだ。

 私もまた人であるからには、人に関係付けて全てを見、全てを人に例える事で、物事を理解している。

したように気になっている。

 人が人の理しか理解できぬのであるならば、他に方法はない筈だ。だから全てを人に繋げる事は、確か

に優れた手法だと言えるのである。

 それは言いがかりじゃないか。なるほど、考えてみればそういう言い方も出来るのかもしれない。確か

にこれは私個人の考えに過ぎず、それを普遍的なもののように言うのは、言いがかりだと取られても致し

方ない部分がある。

 しかしこれは私の文章であるから、その辺は勘弁していただきたい。誰も自分の目線を避けては通れず、

文章を完全に客観的にするには、余りにも自己と言うものの力が強すぎるのである。

 自らの意志がなければ書く事は出来ないが。自らの意志があれば、もうそこには客観性というものが消

えてしまっているのである。

 私に至らない点がある事も確かで、それは重々承知しているが、そこはどうしようもない部分だと思い、

どうにかご容赦願いたい。

 いや、私はこんな事が言いたいのではない。

 話が枝葉してよく解らなくなってきているが、短編の話である。

 これは書き手側にもある種の気軽さがある事は前にも述べた。しかし気軽さと容易さは同じではない。

良い物を書こうとすると難しいのは長短同じである。いわゆるネタという奴を見つけるのも簡単ではない

し、見付けたとしてもいざそれを文章に起こすとなるとこれまた難しい。

 案外長編の方が文章にしやすいといえば、そういう所がある。

 何故なら長ければその分説明しやすく、そういう意味で理解しやすく書け、その上長いので一気に全て

を詰め込もうとする必要も薄く、ゆっくりと仕上げていける。これは非常にありがたい点である。

 このように長短どちらにも利点はある。これは面白い事で、だからこそこの二つは基本的には同じもの

でありながら、長短と分けられているのかもしれない。

 単に短い長いというだけで、その話の作り方にそれぞれの工夫が必要になってくるのだ。

 しかしそうは言っても基本は同じであるから、まあ同じと言ってしまっても良い位の共通点はある。

 長編も短編の連続したものと考える事が出来るし、そうなればまあ同じだと言ってしまっても良いのか

もしれない。

 待て待て、それでは一体どちらが本当なのか。その答えは矛盾しているじゃあないか。

 確かに仰る通りだ。しかしその正確な答えを導き出すとすれば、やはり同じでありながら違う感じがす

るもの、というような表現にならざるを得ないのである。

 不思議な事かもしれないが、相反しながら、共存しているような場合が、この世には多々あるのだ。そ

こは私のせいではないので、どうにかこうにかご勘弁願いたい。

 それに私は今短編の事を言いたいので、よくよく考えてみれば特に長編云々を語る必要はなかった。

 面倒が増えるのは困るので、話を短編に集中させてみようと思う。

 短編は、とにかく短くまとめる事が肝要だ。それには言いたい事をはっきりさせる。そしてだらだらと

続けない。これが重要となる。

 しかしあんまりにも文が不足していては通じなくなってしまう。読み手の想像力にも個人差がある以上、

それに頼りきってしまうのは良い方法とは言えまい。

 要するに、誰でも補えるだろう程度の想像力を必要としながら、明瞭な文章を書きつつ、それでいて想

像外の含みがほんの少しある。こういう事になるだろうか。

 単に難解なだけでは放り出されてしまうが。ほんの少しの難解さ、あと少しで届こうという難解さなら

ば、それは深みと受け取ってもらえる事が少なくない。

 そしてその深みというのが、案外重要である。

 理解し難いものが多いと、何だこの無茶苦茶な話は、嗚呼、つまらん、となってしまうのだが。その難

解分が適量であると、逆に良い効果をもたらしてくれる。

 ああ、なるほど。というなるほど分が、人に心地よさをもたらすからだ。

 過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったもの。乱暴に言ってしまえば、文章というのはその丁度良い

難解さを、いかにして出すか、書き表すか、その点に面白さがあると言ってしまっても、或いは間違って

いないのかもしれない。

 あくまでも或いは、しれない、の話であるから、さらっと聞き流して欲しい。

 これを簡単に言ってしまうと、よく解るけれど若干良く解らない箇所がある、という事になるだろう。

 その良く解らない箇所を、想像の余地がある場所、と言い換えてもいい。

 そういうはっきりしない箇所を、ああでもないこうでもないと、知り合いと語らうのがまた楽しみとい

うものである。だからこそ、書き手は敢えてそういう部分を残しておく。

 しかし何度も言うが、肝心なのはその程度である。

 どれにどれだけもやをかけるか、はっきりさせないか、含みを持たせるか。そういう塩梅を定める事に、

筆者の力量が問われていると言っても、過言ではないのだろう。

 そしてそれは短ければ短い程難しいものである。

 長ければまだ色々なものを足して味を調整する事が出来る。しかし短いともう調整の余地は無い。入れ

過ぎても入れなさ過ぎても破棄するしかなくなるのだ。

 だから慎重に考えて書くか、行き当たりばったりを何度も繰り返し数撃てば当たる戦法でいくか、どち

らかの手を取る事になる。

 これはその人の好みで選べば良い事なので、詳しく触れずに置いておく。人は思うままに好きな道を選

べばいい。どうせ責任を取るのは全て自分なのだから。

 つまりはそういう事である。

 短編を書くとはそういう事なのだろう。

 まあちょっと書いてみようか、という気安さがあるくせに、失敗できない一発勝負の側面を持つ。なか

なかに怖く、難しい形態なのだ。

 だから私は何でもとにかく書いてみる。それが面白かろうがなかろうが、ありきたりだろうがそうでな

かろうが、とにかく書いてみるのである。

 そして何百という短編が生まれ、その内の一つか二つでも誰かの心に何かしらのものを与えられれば幸

せだと思っている。

 今の所その気配は薄いが、だからこそこれからも書き続ける。

 それもまた悪い手ではない筈だ。

 私がそう信じたいだけかも、しれないが。

 そんな感じの短編である。




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