想いは形と成って存在す


 心、感情、気持ち、そういうモノはあやふやで、形在る物ではないと云われている。

 そこに在るようで無く、目にも見えず、ただ人の心の中、脳中にのみ宿るものだと。

 しかしこの世に存在する以上、やはりそれは物質的、形を持ったこの世に干渉できる何か、だと考える

方が、自然ではないだろうか。

 確かにそれは形と成って、何かに宿り、残す事が出来ると思える事がある。

 例えば、丁寧に包装され、見るからに心のこもった贈り物といった風の荷物があるとする。それを運ぶ

役目を貴方は任されたのだが、どうという事も無い事務的な荷物に比べ、やはり遠慮というか、何か大切

にしなければならないという気持ちが、自然に起こってこないだろうか。

 別段、自分には関係の無い、仕事上の物でしかなくとも。不思議と扱いを丁寧にしなければならないと

いう義務心が浮び、遠慮にも似た気持ちで接していないだろうか。

 気持ちに形が無いとすれば、それが人の中だけのモノであるならば、何故このように気持ちが伝播する

のだろう。

 では、逆に悪意に満ちた物ではどうだろう。

 例えば、汚い言葉を書き連ね、それでも飽き足らず、刃物で切り裂いた写真か手紙があったとする。そ

れを見た時、貴方はぞっとする恐怖を味わわないだろうか。気持悪い、関わりたくない、全てを否定した

い。そういう想いが自然と浮んでこないだろうか。

 見なかった事にしたいと、他人事であれ、思わないだろうか。

 心や気持ちが、伝染し、形としてこの世に残る物でなければ、このような現象は説明出来ない。

 単に人の中に在り、この世とは別せられた物ではないのだ。それは確実に形を持った、この世に干渉で

きる、我々の体と同じく、何かの物体である。

 それを構成する物は違うし、人がはっきりと見たり出来る物では無いとしても、確かにそれは明確にそ

の場に存在する。人はそれを感じ取れる。目や耳、鼻とはまた別の器官で。

 しかもこれは不思議な性質を持つ。

 物に宿り、人に伝染し、更にその宿り伝染した先からも広がって行くのである。拡散して消えてしまう

どころか、ある時は力を増したりもする。時間だけでは、距離だけでは決して失う事が無い。

 だがその癖、不意にすっと消えたりする。前触れ無く何処かへ去って逝く。

 不思議な未知の物質、物体。人と深く関わりながら、人と何かを隔てて存在するような、不可思議な物。

 或いはこれそのものが心なのだろうか。この塊が、これを生む何かが。

 そうだとすれば、人は常時をそれを発し、或いはそれを発する事で、初めて他者に干渉している。つま

りはそれこそがこの世という、現実という、説明できない現象の正体なのかもしれない。

 干渉し合うその理由も原因も解らないが、確かにソレであると言えない事もない。

 暗い気持、明るい気持ち、技術の上手下手、何から何まで、人の何かは人へと伝播する。それは必ず影

響を与え、逃れようが無い力。防ごうとしても、決して防げない、絶対的な影響力を持つ。

 その気持ちと云う影響力、干渉力は、極めて強大だ。

 人が群を為す事も、おそらくその力で纏まるのであるから、集団の源、組織の源、人を集める力、そう

いう考えも出来るかもしれない。或いは人そのものだとまで、言えるのかもしれない。

 とすれば、人はこの力によって、これを持って初めて、人足る力を得、人でいられる、人になるのか。

 いや、人だけではない。動物植物、その他の何を問わず、そういう力で互いに干渉し合い、そうする事

でお互いを繋ぎ止め、初めてこの世に存在していられるのだと。そういう気にさえなる。

 ソレは恐るべき力だ。

 千年、二千年前に考えられた思考が、未だ尊ばれているように。

 千年、二千年前の悪業が、未だに忘れられないように。

 それはあまりにも強く、薄れながら、時には濃く力を盛り返し、誰かが覚えている限り、決して失われ

る事は無い。

 いや、もしかすれば、人が、生命が、ソレを失う事を好まず。無理矢理記憶に残し、この世に残そうと

しているのかもしれない。

 人が何かを失う事を極度に恐れるように、ソレを失う事もまた、恐れるのではないか。

 或いは法則か。生命がそれを残す事を、自然に選ぶという可能性がある。高きから低きへと流れるよう

に、それもまた自然法則の一つなのかもしれない。

 人には未だ何故そうなのかを理解出来ないし、考える事さえ畏れるが、そういう仮定も成り立つ。何も、

解らないが故に。

 そしてそういう仮定を置くなら、人が何かに執着したり、拘ったりする理由も、おぼろげながら見えて

くるような気がする。

 全てはソレに左右されている。

 感情や心でさえ、その力を生み出す源ではなく、単にその力の一つでしかないのではと、そのような考

えも浮かぶ。心や気持ちが目的ではなく、それから生まれるその影響力、干渉力を残す為に、我々はこう

しているのだという仮定も。

 目に見えぬ、聞えもせぬ、あやふやな心や感情を、確かに認識出来るのがその力のおかげであるとすれ

ば。その力こそが世界維持に必要な唯一つの物質なのかもしれない。

 生命そのものにも似た、全ての前提となる存在、物体。

 だとすれば、そのような偉大なる物とは、一体何なのだろうか。

 その根源は、発生源は何か、何処にあるのか。また何処から来て、何故生命を介して伝播されなければ

ならないのか。

 この地球そのものなのか、或いは宇宙そのものか。それとも何でもない何かなのか。

 神、道、自然、それでさえ、その一部か、又はその亜流ではないだろうか。

 いや、それらが根本なのか。ソレそのものなのだろうか。

 違うような気がする。

 人も生み出すだけならば出来るのだ。だから如何に強大な力を持っていても、単に生み出す力を持つだ

けでは、ソレそのものとは言えない。それらもまた、人と同じく、結果として存在している何かでしかな

く、それを生み出す、またはそれを求めた、根源ではないはずだ。

 ソレそのものとは、おそらく単純に全てを具現化する為の何か、純粋な力の塊、力の源。

 絶対なる影響力、干渉力を生み出す為の、原動力となる何か。私達にソレを、その力の一端を与えてい

る何か。干渉力、影響力そのものではないが、それと同じような、ソレそのもの。

 原因となる力、世界が存在する為に、絶対に無ければならないもの。

 我らを照らす太陽と、我らを潤す水のように、そのものを成す為の大いなる力。

 それは何処にあり、何をしているのか。

 何の為にあり、何処へ行くのか。

 生命や人を問うのであれば、最後にはソレを見付けねばならないだろう。理解しなければならないだろ

う。ソレを通してしか、全ては見えない。

 おそらくは、それだけが全ての答え。

 或いは、それが全ての始まりなのか。

 人の理解など塵のようなもの。世界は常に、深奥である。

 認識出来ない物を理解する為に、この知恵があると言うのなら、我々はソレを目指すべきだろうか。そ

れとも、ソレはそっとそのまま、誰にも行けない何処かに存在するままに、いつまでも放っておくべきな

のだろうか。

 でも放っておくべきだとすれば、何故ソレは我々に、このような考える力を与えたのだろう。

 それともこの知恵という物自体が、ソレにとっての癌なのか。


 

                                                            予




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