三つ足の遠足


 いい歳をして今更とも思ったが、年々足腰が弱りつつある、これを逃したらもう二度と機会は無いと思い、

旅に出た。

 以前から考えていた、徒歩の一人旅。当てがある訳ではない。目的がある訳でもない。ただ足腰がいう事

をきく間に、思いっきり歩いてみたかった。

 軽装に雨具と杖、おにぎりを三つに水筒を持って家を出る。

 空は晴れている。どこまでも遠く見通せるくらいに。気持ちの良い朝だったからこそ、出かけようと思っ

たのかもしれない。

 いつ帰るのかは自分でも解らない。そう長くは身体が持たない事は解るが、それでも頑張ってみたい気持

ちもある。

 道沿いでも良かったのだが、折角なので最近は行かなくなった山道を歩いてみる。山道といってもけわし

くない。山頂に至る道もあるが、主に山々を通り抜ける為に使われている。通学や散歩などに使われる事も

多く、今も走っている人達がそこかしこに居た。

 この道はいつも賑わっている。

 私も若い頃は毎日ここを歩いて学校に通ったものだ。

 あの木もその木も憶えている。人の寿命など、木に比べれば儚いもの。木は変わらない。

 手頃な切り株があったので、腰掛けて少し休憩を取った。その為にわざわざ切り倒したのだろう。ここま

で大きくなるのには、随分かかったろうに。

 切り株からは小さな枝が出て、その先には葉が付いている。何をされようとかたはら痛いとでも言うかの

ように。

 切り株の方が私を見、なんだこの辛気臭い奴は、などと笑っているのかもしれない。

 そう思うとふとおかしくなって、力が湧いてきた。水を飲んで、ゆっくり立ち上がる。

 二本の足だけでは立ち上がるのさえ不安になってしまったが、この三本目の足がしっかりと支えてくれる。

頼もしくもありがたい相棒だ。

 軽く杖を叩き、再び歩き出す。昼飯にはまだ早い。

 日差しがやわらかに差す。年老いた身体には木漏れ日くらいが丁度いい。いつもは眩し過ぎて避けていた

光を、全身いっぱいに浴びる。体中がぽかぽかと熱していくようだ。

 日光浴とはよく言ったもので、芯から温まる。

 見上げると葉の間から穏やかな太陽が見えた。貴方は今日も変わらず元気そうだね。

 沢山の人が私を追い抜いていく。少しだけ申し訳なさそうに見えるのは、私の気のせいだろう。

 昔は私もこうして沢山の人を追い越したものだ。若さというものは全てを速くしたがる。身体だけでなく

心もそうだ。有り余る力が速く速くとけしかけるからだろう。今の私には毒であるそれも、当時の私には心

地よかった。学校まで走った事もあったな。

 かわいいあの子と一緒に歩いた事もあった。もうずっと会っていないが元気だろうか。あの頃一緒に居た

仲間達は今何をしているだろう。

 思い出はどこにでもある。それが無いなどと言っていられるのはまだ若い証拠。速く速く生きられる証だ。

そんな時は過去を振り返らず、一生懸命走ればいい。まだ必要でないから、思い出さないだけだ。

 すると私は今ようやく思い出せるようになって、呼ばれるようにして旅に出たのだろうか。

 そうかもしれない。私の旅とはつまり、私自身を振り返る旅なのだろう。

 山道をこのまま進んで行けば、隣町に到る。そこにはそこで沢山の思い出がある。だが私は山頂に行って

みる事にした。そこまで登れるかは解らないが、坂道はゆるやかに続いている。さほど高くない山であるし、

何とか行けるかもしれない。

 無理なら引き返せば良いだけだ。

 私は自分の直感に従う事にした。そもそもそれを信じて旅に出たのだから、どこまでも付き合ってやれば

いい。

 緩やかに登っていくと木々の上に出、遠くまで見通せるようになった。

 ここは山間にある小さな村だから、見通せる範囲も微々たるもの。それでも私の人生の多くはこの村で過

ごした。この景色が私の人生の景色だと言えなくもない。

 あっという間に村中を見通せる高さにきた。

 小さな物だ。

 村全てが視界に収まる。左右に首を振らなくとも一望できる。小さい。なんと小さな村だ。

 ここで私は何十年という時を刻み、生きてきた。それで事足りたのだ。小さい事は幸せだった。

 色々な事を思い浮かべる。

 そうしてゆっくりゆっくり登り、夕方近くになってようやく山頂までたどり着けた。

 開けた場所で遊具が置かれている。小さな子供の頃はよく遊んだものだ。あの時はここに来るまで三十分

とかからなかった。小さな小さな身体で、それだけ速く生きていたのだ。それが今では数時間はかかる。不

思議なものだ。

 この心地よい疲れと達成感も子供の頃には感じられなかった。

 でも小さな頃は全てがきらきらと輝いて見え、落ちている木の実一つさえ宝物になった。

 飽きっぽい子供の宝だとしても、一時は何より尊い物に見えた。

 そういう思いは今はもうどこかへ消えてしまった。

 しかしそうであるからこそ、解る事もある。誰もが子供の頃の方が感受性が強かったと言うが。それは違

う。新鮮に感じたのは確かだと思うが、感じ取れるものは変わっていない。ただ受け取り方が変わったので

ある。昔だからこそ感じられたものもあれば、今だからこそ感じられるものがある。

 それだけの事。

 見方や受け取り方が変わっただけなのだ。だから今ここにくる価値がある。昔受け取れなかったものを受

け取る為に。それは自然との遠い日の約束。

 土の上に座り、おにぎりを頬張る。

 昔もこうして何かを食べていた。木の実だったり、草花であったり、ここには沢山の物が実っている。そ

れだけで生きていけるくらいに。

 秘密基地を作って、夏休みには何日か過ごしたものだ。

 まあ、母親達が毎日のように食べ物を届けてくれたが。それでも私達はここで一人前を気取って、楽しく

も厳しく過ごした。

 そして最後はケンカ別れのようにして終わる。あの時はどうだっただろう、あいつが黙って何かを食べた

のだったか、それとも私が弱音をはいたからか、或いはあの子が泣き出してしまったか。

 全ては他愛無い事でも、私達にとってはきらきらした思い出。すぐに忘れてしまう宝物。

 大地に横になり、空をながめる。

 今はここまで登ってくる子供はほとんど居ない。上までこなくても、下の方に楽しい場所がたくさんある

からだろう。その事を嘆く大人も多いが、私はそうは思わない。それにどうせここにきたって、危ないだの

心配だの文句を言うに決まっている。大人はとにかく何でも否定したいのだろう。別に理由なんてなんだっ

ていい。そうしていないと落ち着かないのだ。

 こうして寝転んで空でも見ていれば心なんて安らぐものなのに、あの頃はいつだって否定して、言い訳を

していた。

 子供なってほうっておいても元気に育つのに。大人は黙って帰ってくるのを待っていてやればいい。私が

子供だった時、大人達にそうしてもらったように。

 何故あの時はそれを忘れていたのか。子供の心を忘れてしまうのか。今になって、子供から最も遠い年代

になって思い出すのだから、不思議なものだ。

 大人の都合で振り回される事が、子供にとってもっとも傷付く事だと言うのに。

 忙しいからそれを思い出す暇も失われてしまったというのか。だとすれば、一体我々は何を言っているの

だろう。何を大事そうに築き上げてきたのか。

 今になって、恥ずかしく思う。

 せめて孫の為に、何かをしてやりたいものだ。

 溜息が空へ吸い込まれていく。

 いつの間にか日が落ち、星が見えてきた。

 この星も大人になった今の方が何となく輝いて見える。面白いものだ。今日はこのまま一晩明かすとしよ

う。この空なら、雨も降るまい。


 朝日がきらめく。この光が強くなり過ぎる前に、降りたいものだ。

 山道を降る前に山頂を探索し、木の実や草花を摘む。もう何十年も前なのに、どれが食べられるか、その

味までしっかりと憶えている。不思議なものだ。まるで感覚だけ若返ったように、全てが瑞々しい。

 腹ごしらえをし、弁当としていくつかの実を持ち、山道を降る。

 降りは足腰に辛い。降りる頃にはすっかり太陽が昇っていた。もう手も届かない。

 木の実を食べ、水を飲む。水筒が空になってしまった。

 確かこの先に広場があって、そこに水道があったはず。少し寄ってみよう。

 木漏れ日の中をのんびり進む。少し疲れがたまってきているが、まだいけるはずだ。

 分かれ道に来た。ここを真っ直ぐ行けば隣町、曲がれば広場。そういえばここもよく通った。でも広場の

方には行った記憶がほとんど無い。何故だろう。山頂の方が楽しかったのか。広場ができた頃にはそういう

年頃ではなくなっていたのか。

 水道がある事を知っているのだから、以前行った事があるのだろうが、それもよく思い出せない。

 道を曲がり、進んで行くと、程無く切り開かれた場所に出た。

 ああ、思い出した。この広場に色々な設備を整え、憩いの場にする予定だったが。隣町に様々な施設が増

え、大きくなっていく事で不要になり、開発途中でほったらかしにされ、運動会をする時にだけ使われるよ

うになった。

 その運動会も行なわれなくなり、今では使う人さえまばらだが、他に使い道もなくて、忘れられたように

放っておかれている。

 今も草がまばらに生えているのが少し悲しく見えた。人の場所か、自然のままか、どちらかなら良いのに、

どちらとも付かないと不思議と悲しく見える。

 この中途半端さが荒廃を思わせるのだろうか。

 しかしこれも一つのあるべき姿なのかもしれない。それが行き着く果てなのか、本来あるべき姿なのかは

解らないが、一つの答えではあるような気がする。

 その内ここは自然に還るのか。それともその度に手を加えられ、この姿のまま生き長らえるのか。

 解らないが、永遠というものはそういうものなのかもしれない。

 何となく物寂しい。早々に去る事にしよう。

 せめて水だけはいっぱいに汲んでおく。

 分岐点まで戻り、今度は街に向かって進んだ。

 舗装はされていないが、整地はされていて、並木通りのようになったこの道はそれなりに美しくある。

 地肌がまたこの景色に良い具合に薫ってくる。人の感性とは不思議なもの。同じ物であっても、その場所

や周囲によって大きく感じが変わる。印象だけでなく、その場所そのものが変わるような気さえする。

 年老いて尚、その思いは変わらない。むしろ強くなっていくようだ。五感が衰え、脳によってより多くを

補わなければならなくなったからだろうか。

 この辺りまでくると人通りが激しく、すれ違う人がどんどん増えていく。その多くは私を追い抜いていく

のだが、ゆっくりと歩いている人もいる。私のようにゆっくり歩くしかないのではなく、敢えてそうしてい

る人達が。

 今となって思うと、それこそが一番の贅沢である。

 まぶしい思いでそちらを見やると、気付いたのか会釈してくれた。私も会釈を返す。それだけの関わりだ

としても、だからこそ尊いものだ。

 たったそれだけでこんなにも心が晴れやかになるのだから、人は素晴らしいと私は思う。

 夕暮れが迫る頃、広くて大きな道に出た。もう山道とは言えない。言ってみれば都会の道、人工だけの道。

しっかりと強固だが、それだけに疎外感を感じる。ここはもう誰も必要としていないのではないか。人工物

だけで事足りているのではないか。

 そんな風にも思う。

 若い頃は夢中になって気付かなかった事が、今になって良く見える。こうしてゆったりとながめ見ている

と、不思議な孤独を感じる。ここには誰が居ても、誰も居ない。

 年老いてくると都会を離れたがる人が多いのは、このせいなのかもしれない。よほどの力を持っていなけ

れば、この冷え冷えとした隙間風に耐えることができないのだ。

 この辺りも随分変わった。それを憂う事も、反対もしないが、思う事はある。

 しかし全てが変わっても、記憶が断片のように残されたものたちから少しずつ受け取れる。

 あの街路樹。それから古いあの家。そういったものが、私の記憶を呼び覚ます。溢れるくらいに。

 全てが変わっても、全てが失われる訳ではない。

 痕跡は必ず残り、それが昔を思わせる。まるで映画でも見ているように、思い出の景色、もう一人の昔の

自分が重なる。そしてそこに加わっては消えていく無数の人の記憶。楽しいものもあり、悲しいものもあっ

た。だがおおむね、懐かしい。

 感情は消え、懐かしさが残る。酷い事をし、酷い事をされたものだが、それら全ては風化していき、ただ

私がかつてそこにいたのだという思い出だけが残っている。

 それ以外は全て空に吸い込まれてしまった。

 街の空は薄汚れ、昔の空ではないと皆が言う。しかし私は思う。皆昔の空を思い出せるくらい、ゆっくり

とながめた事があろうのだろうかと。

 私はそうは思わない。そして今空を見てこう思う。昔見た空よりもはるかに美しいと。

 誰もきっと、今も空なんか見ていないのだ。ゆっくり味わうように空を見る事などありはしない。だから

そんな風に言えるのだ。

 何に対してであれ、文句を言えるのは、それそのものを見ていないからである。だとしたら、それは果た

してほめ称えるような事なのだろうか。賛同すべき事なのか。

 夜更けまでかかって駅に来た。そして多くあるいすの一つに背を預ける。

 昔もこうして駅で一夜を明かした事があった。あの頃はもっとずっと小さな駅だったが、大きくなっても

やる事は変わらない。老人一人がここで眠っていたとして、誰も何も思うまい。


 朝目覚め、木の実を食べる。大して腹はふくれないが、まあこんなものだろう。

 ここから電車に乗れば、広く大きな世界へ行ける。

 しかし今はそんなものに興味がない。私はこの足で行きたいのだ。行ける所まで。

 駅内は人でごった返している。昔も同じように混んでいた。規模は違うが、本質は変わっていない。この

場所は人で賑わい、そして誰も居なくなる。通過点であり、だからこそ大勢の人が集まれる場所。

 ここにもたくさんの思い出があるが、大した事ではない。それにもう疲れた。思い出すのも面倒な、それ

くらいに多くの人の記憶がここにはある。その中から自分の思い出だけを探すのは、骨が折れるだろう。

 溜息をつき、水を飲んで外へ出た。ここはもう私の居るべき場所ではない。帰る場所でもない。

 外も人で賑わっていた。この街のどこにこれだけの人が居るのだろう。不思議に思ったが、大した事では

ないのかもしれない。本当は人が居るのに必要な幅など、小さなものかもしれない。

 あの椅子の片隅さえあれば、人は一夜を明かし、休んでいられる。

 水もどこからでも飲める。それがつまり進歩であり、文明であり、この孤独感。全てを空虚にして、人は

自らの居るべき隙間を作ろうとする。そして作りすぎて孤独になる。それを繰り返してできたのがこの街か。

だとすれば、この街こそが人間なのだろう。

 この孤独こそ、我々が創った人間なのだ。

 誰よりも相応しい。

 この街に溢れるばかりに流れる無数の思い出達。それと共にこれからもこの街は生きていくのか。

 私が死しても、その思い出は今までたどった様々な場所で、居た分だけ残るのだろう。誰が忘れても、こ

の場所そのものがそれを忘れる事はない。この星が滅びるその時まで、一人の思い出として長い時を生きる。

 そしてこの星もまたこの宇宙に記憶され、永遠に近い時を生きるのだろう。全ての思い出となって、この

宇宙が消え去るその時まで。

 人間もまた永遠。この足元に転がる石も、あの雲も、この光も、ここにいる人々も、全てが永遠。刻まれ

た時は決して失われない。永遠に積み重なる。その果ての終わりの時まで。

 いや、全てが消え去って尚、その無の中に生きているのかもしれない。

 私はそれを確認する為に来たのだろうか。

 解らないが、私が欲した事に間違いはない。そしてどうやら満足できた。いや、飽きたと言った方が良い

か。あまりに多くの思い出を持ってしまうと、どこへも抜け出せなくなる。だからこそ人は忘れるのだろう。

心にしまって、無かったように過ごすのだ。

 そして終には忘れた事さえ忘れてしまう。だからこそ、ふと思い出す為に旅に出るのだろう。決して自分

は消えてしまうのではない、忘れる事は失う事ではないのだと思い出す為に。

 どうやらその目的は果たされた。さあ、帰ろう。今からなら、夜には家に戻れる。老いた私には丁度良い

距離の旅だ。

 雨が降らなければいいが。




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