人は燃やし過ぎる


 人の世には火が満ちている。人は何でも燃やす。ゴミから燃料からありとあらゆる物を燃やし、まるで

燃やす為に生まれ、燃やす事で命を保っているかのようだ。

 人は火を使う事で飛躍的な進化を遂げたというが、確かにそうかもしれない。ここまで火と密着した生

命は、他にはいないだろう。

 人は物を燃やす事で何かを生み出し、或いは生み出したと思い込み、その生み出したものに対して一喜

一憂しながら一生を終える。

 その生の内、余りにも多くの物を燃やすから、最早この星の自浄作用でさえ追いつかない程だ。一体人

は一日にどれだけの物を燃やして生きているのか。数えてみると、恐ろしい事になるかもしれない。呆れ

る程に燃やしている。

 人は激しい炎に魅せられ、必要以上に燃やし、まず何かを燃やす事を考えている。

 人は自分の心も燃やす。燃やし尽くして激しく争い、激しく求める。その心をかっかと燃やし、全ての

原動力としているように思う。

 一体何が人を動かすのか。炎である。

 人もまた火で動く機械仕掛けの人形に変わりない。全ては熱を伴う。

 動くという事がまず熱である。運動というものに何故常に熱が伴うのかは知らないが。まるで火で動く

事が初めから宿命付けられていたかのように、動く者は全て熱を生む事を義務付けられている。

 熱もまた火である。過度の熱と言えばいいのか。その過ぎたる力を使い、過ぎた分だけ動く事を許され

ると云える。あらゆるものを燃焼し、全てはそれによって動いているのだと。

 自ら動かぬ者でさえ、何者かに動かされれれば、同じく熱を発する。

 全ての動きには熱があり、まるで熱そのものが動くという事であるかのようにも思える。

 熱というものが、火というものが、まるで意識を持っているような気さえする。

 それが突飛な考えだといえるだろうか。我々が実は熱によって動かされていたのだとしても、何ら不思

議ではない。

 振り返って考えてみよう。

 人が動く時、それはまるで熱に憑かれているかのようだ。何かかっかとしたものが、絶えずこの心にあ

り、頭を熱で満たす。浮かれ、熱くなり、何も解らなくなって、解らないからこそ考える力を失い、余計

な力を失うことで、初めて行動する事が出来る。

 後で恥を感じる事が多いのは、その為だろう。何も考えない、考える力を焼き尽くされるから、ああも

無思慮に動けたのだ。

 しかし、そうであるならば、何故人は動けるのだろう。考える力を失っている状態で、誰がその行動を

命じているのか。

 確かに考えてから動くから、という答えもあるが。しかしそれが当てはまらない事も多い。気付けば動

いていた。そういう状態の方が、人が行動する場合において、どちらかといえば多いのではないだろうか。

 やはり熱が、炎が人を動かす。

 そう考える事に何の不思議があるだろう。

 人、そして生命の全ては、本来動く事の無かった者なのだ。動くという意志が元々は無い者なのだ。

 しかしそれでは生きてはいけない。生命は行動しなければ生きていけない。これは恐ろしい事だが、本

当の事である。もしかしたらそう思わされているだけかもしれないが、今となっては動かない事には生き

ていけない。

 初めはどうだったかは知らないが、今はもうそうなってしまっている。

 だから生命を動かす為の何かが必要だった。それが熱であり、火なのだろう。

 それを得る事で、行動というものが広がった。その結果としての繁栄、少なくともこの星の上に最も多

く住むという意味での繁栄、がある。

 これも動く事で得たものである。動かねば得られなかっただろう。

 だがしかし、人は動く必要があったのだろうか。何故生命は動かなければならなかったのか。

 我々は本当に動かなければならなかったのか。

 大気も水もそしてこの大地でさえ、何故動く必要があるのだろう。

 熱によって皆動く、そしてまた熱を生む。これは逆に熱を生む為に誰もが動かされているとも考えられ

ないだろうか。熱を生み出す為にこそ、生命は動いているのだと。

 だからこそ人も燃やす事のみを考え、終にはこの星さえも燃やし尽くそうとしている。

 流石に自分の居場所が無くなるのは不味いから、皆躊躇しているようだが、いずれこの星を燃やし尽く

す事は揺ぎ無い事実となる筈だ。

 しかしそれを言うなら、この星そのものですら、初めから燃えている。

 その内側に閉じ込めたマグマ、それによってこの星もまた動いている、存在していられると言えなくは

ないだろうか。

 この爆発的に膨大な熱量があればこそ、この大きな星は動いていられる。存在していられる。

 熱を生み、熱を得る事で、全てのものは存在していられるのかもしれない。

 であれば、いずれこの星そのものが生を全うした時、自らの意志で爆発し、全てを燃やし尽くしてしま

う事も、自然の流れといえるのか。

 全ては熱の為に。

 熱を生む為に生き、生きる為に熱を求める。

 熱を得た、自ら動く術を得た事の、それは代償なのかもしれない。

 熱こそが本当の意味で生きているのか。

 その目的を達する為に、熱だけが生きている。我々は熱を閉じ込めた小さな殻に過ぎない。

 全ての根源は熱であり、この冷え切った宇宙に生まれた異分子が、必死で自分達を残し、生き続けよう

としている。或いは宇宙そのものを燃やし尽くそうと、自分こそが新たな宇宙そのものになろうと狙って

いる。

 そう考えても、あながち間違っていないような気がする。

 だとすれば、我々の営みの全てですら、その為のほんの小さな過程に過ぎないのだろう。

 星が新たな星を生む、より膨大な熱量を生む為の過程における、我々はほんの些細なおまけなのだ。

 熱を閉じ込め、膨大な爆発力を生む為の殻、人とはその殻の上で熱の真似事をする滑稽な生命の一種で

あるに過ぎない。

 我々が星を滅ぼす、星を殺す、などとは愚かな考えである。

 我々が滅ぼせるのは、同じくこの殻におまけとして生きている同種の生命のみだ。

 もっと言えば、我々が滅ぼせるのは、我々だけなのだ。

 そして我々が滅んで困るのも、やはり我々だけなのである。

 熱も星も他の生命も、何一つ同情を寄せてはくれない。全ては無意味な真似事であり、火を持ち、自分

が熱そのものになった、熱そのものさえ支配したと錯覚した愚かさ故の、救いようのない結果に過ぎない。

 人はいつまで出来もせぬ真似事などを続けるのだろう。

 人には人の生き方があるのだとすれば、熱にも熱の生き方がある。

 おまけとして出てきた命ならば、熱を離れ、人は人の生き方をしても良いのではないか。

 そもそも何一つとして、燃やす必要など、ないのではないか。

 人は燃やし過ぎる。

 そうする事に、人間の考えているような高尚な意味や意義など、何一つとして無いだろうに。




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