私は一分子


 この世の全ては原子から出来ている。しかしその原子は唯一つだけでは存在する事が出来ない。他原子

と結び付き、分子となる事で初めて存在を許される。いや、分子となる事で、初めてこの現世で物質にな

れるのか。

 それは我々人間も変らないような気がする。我々もまた分子の集合という意味ではなく、何かと結び付

いてのみ存在出来ているような気がするのである。

 例えば誰しも属する何かがある。それは会社組織であったり、学校であったり、或いは家族であったり、

はたまた地域社会であったりする。

 言い方を変えるなら、肩書きが一番解り易いだろうか。

 人はその人そのものだけでは存在出来ていない。会社員であったり、医師であったり、教員であったり、

そういう属性とでも云うべき何かがくっ付いて、初めて一人の人間が、この場合は社会的な人間が、出来

上がっているように思える。

 誰もが裸一貫ではいられない。何かがくっ付く事で、初めて我々はその人を認識出来たり、評価したり、

或いは好悪の情を寄せたり、そういう事が可能になるような気がする。

 何かと結合する事で、初めて人に人として認識されるような、そんな気持がするのだ。

 そして属性とは、当然仕事のみに限った話ではない。

 情け深い人、非情な人、そういう精神面での評価とでも云うべきか、印象もまた常にくっ付いているよ

うに思える。

 そしてそれが先入観となったり、その人そのものを認識する手がかりにもなったりする訳だ。

 人はありのままの自分という、生まれ持った自分という一個の原子では存在しきれない。必ず何かがく

っ付いてくる。それは望む望まぬとに関わらず、必ず付属されるモノで、その付属されるモノも自分では

選べない。

 しかもその付属されるモノは、自分を見る人に寄っても違ってくる。

 つまりはその都度違った原子同士が結合し、絶えず自分という分子も様々に変化していくのである。

 たまにそれがまるで自分で無いように感じるのもその為かもしれない。私は私と云う原子から分子に変

化する事で、私以外の私も混じってしまうのだろう。その分子こそが私であるが、紛れも無い純粋な私は

原子である私なのである。

 ややこしいが、ようするに何かが混じらなければ、他の私が私に付属されなければ、私と云う人間は居

られないのだろう。

 私は日々絶えず変化している。しかも他人の心の中で、それぞれにそれぞれの道に沿って変化していく。

面白い事に、私自身ではなく、他人の心の中で様々な化学変化が起こっているのである。

 しかし同時に、私自身の中でも、私に対する変化は絶えず起こっている。

 私の私自身に対する見方というのも、他人同様に、常に変化しているのだ。

 それによって私は落ち込んだり、自信を持ったり、怒ったり、悲しんだり、笑ったりと、様々な変化を

繰り返す。心地良くもあり、不快な時もある。

 そしてその心の変化は身体にも影響を及ぼしている。心は必ず態度に出る。内に秘められたモノは、必

ず肉体の何処かに現れるのである。例えそれがどれほど微小であろうとも。

 これは人を心が動かしている事の証明となるだろう。

 それが他人の見方にも現実的な影響を及ぼす事になる。

 原子同士が結合し、分子という結果がでる。そしてその結果こそが現実に作用し、その時々の人という

物を形作る。それは私も他人も、人間全てが変らない事であり、全て人は同じ人間であるという証明であ

るかもしれない。

 我々人間は一分子である。何かと結合して初めて人なのだ。いや、何かと結合せずには居られないのが

人なのか。

 この事を考えると、所詮人も原子の宿命から逃れられない存在だと知る。

 結局は人も分子という結果も、原因となる理由、原子の影響を受け、その影響の中で生きているに過ぎ

ない。人は自らを形作っている物の宿命からも、決して逃れる事は出来ない。

 原子の場合で云うなら、一つだけでは居られない。つまり、人は一人だけでは居られない。そういう原

子から来る宿命に、人もまた支配されているのではないだろうか。

 だからこそ何も無い自分を思った時、耐えようも無い寂しさに襲われるのかもしれない。

 だからこそ嫌々ながら、何かを身に帯びて分子となる事を欲してしまう。

 考えてみるといい。今でこそ忙しい忙しい、辛い大変だと言っている仕事や勉強。しかしいざ自分が会

社や学校という組織から切り離されてしまえばどうだろう。

 ある朝、もう貴方は何もしなくていい。家族からも離れ、家を出て、自分の好きなように、一日中誰か

らも束縛されず、煩わしい人間同士の関わりなど持たずに暮しなさい。そう言われた時湧き上がる幸福感

は、果たしてどれだけの間続いてくれるのだろう。

 何日、何時間、何分、いや何秒だろう。何もしなくていい、何も繋がりのない寂しさに、人は一体どれ

だけ耐えられるのだろうか。その虚無感と、人は一体どれだけの間向き合えるのだろう。耐えていられる

のだろうか。

 人は決して切り離せないモノがある。例え切り離されても、必ず何かと結び付こうとする。それは人が

そう望んでいるからだ。それが過剰な時には嫌気が差すが、しかし絶対に不足する事には耐えられない。

 家族、友人、恋人、組織、上司、部下、同僚、そういうモノは望んで切り離せない。もし切り離せば、

狂いそうな飢餓感に襲われるだろう。

 あってもなくても苦悩する。それが人の本性なのかもしれない。

 目を背けて、そこから逃れようとしても、原始の宿命がそれを許さない。

 そして目を背けている限り、結局は抗えないという虚しさが、この胸の内からは消えてくれない。

 私は一分子。決して一原子には戻れない。全てと切り離された時、おそらくそれは死という現象が我が

身に訪れた時だけだろう。

 我々も原子から出来ている以上、その宿命からは逃れられないのだ。

 それは人の本能の前、生命の本能の前にすらある、本当の逃れ難き、存在という始まりが持つ宿命なの

である。だからこそ人は決してそれに抗えない。人の心もその後に存在するが為に、決してそこから逃れ

てはいけないのである。

 そんな風に思える。




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