ものまね


 器用である事が、果たして良い事だろうかと考える時があります。

 幸い、子供の頃より、練習すればある程度何でも出来、人より秀でているまではいかなくとも、決して

劣る事はなく。つまりは器用だということで、それはそれなりに役立ってくれました。

 今だってそれなりにできると云う事は、物覚えが良いということで、重宝出来る能力ではあります。

 しかし結局それは物真似が巧いと云う事で、人から教えられた事、誰かがやった事を同じようにするの

が巧いだけで、自分では何もできないと云う事ではないでしょうか。

 自分で何かをした事が、ほとんど無いような気がします。

 その証拠なのか、私は例えば誰かが描いたイラストなどを真似たり、美術で模写するのであれば、そこ

そこ巧く描けますが。絵が巧いという事ではありません。むしろ何も描けません。

 漠然と絵を描けと言われても、目にする景色や物を絵に写し取ろうとしても、模写した時のように描け

ないのです。手本どおりに真似るのは巧くとも、いざ自分で絵を一から生み出す事が、とても下手なので

す。どうしても巧く描けない。

 まず真っ直ぐ線が引けません。白紙に線を入れる事が、どうしても巧くいかないのです。どう頑張って

も、頭の中に思い浮かべている絵と、描き出した絵が一致しません。

 何度描き直しても、何度描いても、結局写実的に描けないのです。三次元を二次元に焼きなおすような

この作業が、創造的な作業が、まったく苦手なのです。 

 描いた絵らしき紙には、不恰好なのたくった線があるだけで、私の想像したモノとは、何もかもが違い

ます。絶望します。自分は本当は何も出来ないのだと、はっきり言われているようで、たまらない気持に

なります。

 この文もそうだと思います。突詰めていけば、必ず昔読んだどなたかの文、又は先生、或いは教科書な

ど、そういう物の物真似でしかないのでしょう。

 そうです、私は一度だって、自分の力だけで、何かを成した事が無い。全ては物真似で、誰かのやる通

り、手本通りにやらなければ、何も出来なかったのです。

 それを器用であるとすれば、私は一体何なのか。器用とは一体何なのか。

 無個性である。そういってしまっても良いでしょう。私には何も無いのかも知れません。何も無いから

こそ、多分真似るのが巧くなるのです。何も無いからこそ、簡単に写し取る事が出来るのです。

 便利な能力ではありますが、器用貧乏という言葉が示す通り、私は何をしても、おそらくそこそこ良い

以上の成績を残す事は出来ないと思います。

 失敗しないから良いと仰る方もおられるかもしれません。ですが、これはとても哀しい事ではありませ

んか。

 自分が一生懸命やり、自分だけの物として自信を持っていた全てが、結局は誰かの真似でしかないとい

う事実。この事実は重く心に圧し掛かってまいります。

 それも当然だ。誰もが模倣から始まるのだと、そう仰って下さる方もおられるかもしれません。

 ですが、私は模倣ばかりなのです。良い大人になって、未だ模倣しか出来ないという事は、やはり否定

しきれない恥として、私の心に在ります。

 何とかしたいと足掻きましたが、どうしても最後はそこへ落ち着くのです。

 この無力感が、とても辛い。

 物真似でも個性がある。そういう意見も確かにあります。テレビの物真似番組などを見ても、確かに同

じ人を真似ても、それぞれに違う味がある。素晴らしい事です。

 ですが、私のはそういう力が無いのです。哀しいくらいに、模倣なのです。モノマネという新しい芸で

はなく、あくまでも模倣なのです。

 しかしこの事を考えるにつれ、一つの光明が見えてきました。

 長い長い苦しみでしたが、それでも思える事があったのです

 文の構成や癖など、まるで写し取るかのようにして、私の中に入ってしまっている物、これはおそらく

変えられないでしょう。

 絶対に、とは申しませんが。変えるとなれば、全てを崩してしまう事になる。一からやり直す事になる。

それはそれで尊い事ですが。では果たして、私にそこまでしてやり直す価値があるのかといえば、それも

また疑問なのです。

 そういう冒険心、挑戦心も大事だと言われれば、私はそうだと頷くしかありません。

 しかしそうしてさえ、所詮は別の模倣になるのではないか、という不安があり。事実それは、もっとも

可能性が高い事だと思えます。

 私の今までが全てそうであったのですから、今だけそうでないというよりも、これからもそうであると

いう可能性の方が高い。

 いや、言い訳などしても仕方ありません。そうなのです、私は別に変えたい訳ではない。今の自分に満

足していないという事も無いのです。

 虚しさは感じていますが、模倣でも良いではないかと言う、そういう心も生まれております。

 例え文は同じでも、中の心が違えば、自ずと伝わる何かが違ってきますし。大体が、別人なのですから、

話の筋から何まで同じになる事もないのです。

 勿論似通った箇所も多い。けれども、まったく違う箇所もまた、多いのです。

 であれば、この模倣にも、一片の個性があるのではないでしょうか。この模倣にも、私の血が通ってい

るのではないかと、そのようにも思うようになったのです。

 双子でも、やはりそれぞれに別個の人間になるように。模倣の果てにも、何かがあるのではないかと。

 身勝手な考えですが、全ては私個人の事ですから、それで良いのだとも思えます。

 ここで自らの意に反するのも、それもまた模倣でしかないと思えますし。結局、私に出来るのは、どち

らを真似るか、その言葉に尽きると思います。

 それでも、模倣からは決して良い物が生まれない、とは言い切れないはず。模写にすら、やはり個性が

出るのであれば、それもまた自分の心が宿るのではないでしょうか。

 それが精巧であるか、稚拙になるかは解りませんが、模倣者にも生きる道があるのだと思えます。

 永遠の模写でも、そこに違う自分の心が篭っていれば、同じ絵でも、違う印象を人に与えるのではない

でしょうか。違う何かが宿るのではないでしょうか。

 同じ物を描いても、やはり何かが違うのではないでしょうか。

 作品は人の鏡と申します。であればこそ、私でも何かが生み出せるかもしれない。

 例え先人には及ばぬでも、また別の頂を目指せるかもしれない。

 模倣として開き直るのではなく。それはそれとして、自らの何かを高めていけば、いずれそこから脱す

る事すら、出来るかもしれない。

 勿論、私にそこまでの才覚があるのかは、解りません。物真似は物真似で終わる可能性の方が高いとも

思えます。

 それでも、私はそれを目指します。

 好きなのです。こうしている事が。例え何も実らなくとも、必死に世話をする事には、いくらかの楽し

みが存在するもの。私はそれが好きなのです。

 物真似であれ、模倣であれ、私はそれを受け入れ、そして目指したいと思います。

 諦めるのが手っ取り早いのですが。それでは面白くありませんので。

 幸い、まだ時間があるようですし。

 空っぽだからこそ、それを埋める喜びもあるのだと、今ではそう考えております。




EXIT