森の蜃気楼


「あーうざったいでがしょー、うざったいでがしょー。もう全てが面倒でがすー」

 一匹の甲虫がなにかや呟きながら、のっそり陰気に歩いております。数が多く、絡まりそうになる足で

歩く事もまた面倒らしく、目の端を下げたまま、大儀そうに進んで行きます。

 暫く進むと、歩く事にも疲れてしまったのでしょう、突然どしりと座り込んでしまいました。

「ふぃーっ、とんでもないことでがしょー。もう勘弁して欲しいでがす・・・・」

 そして手足を放り出してうつ伏せになり、何度と無く思い返しては嘆いている、今までの事を飽きずに

また思い出し始めました。

 思い出すと余計に身体がだるく感じてきます。それでも思い出さずにはいられません。そして考えずに

はいられません。

 そもそも何でこんなにしんどくも面倒になったのか。自分はただ必死に頑張り、それなりに満足しても

いたはずなのに。あの頃は生きるのが面倒臭いなんて、一つも思わなかった筈なのに。

 何が原因なのだろう。

「そういえば、風邪をひくと、丁度こんな感じでがしたなぁ」

 でも別に今身体の何処が痛むとか、病気にかかったと云う事もありません。足も動きますし、目もしっ

かり見え、匂いも感じます。食事も出来ますし、睡眠もとれる、全く健康な成虫なのです。

 それなのに何故かこうぐっと身体中に圧し掛かるモノを感じ、行く末の不安が心をきしませ、どうして

も穏やかになる事が出来ず、何をしても緊張して恐々として。そんな事だから一日中気を抜く事が出来ず、

色んな疲れが積み重なって、もうどうにもならなくなっているのです。

 身体が原因でないのなら、心が原因なのでしょうか。そういえばそう考えると、一つ思い当たる事があ

ります。

 こうなる前の甲虫には、どうしても抜けない不安の種があったのでした。

 そうしていつも悩まされ、考えさせられ、心が段々窮屈になって、息苦しさを感じ、とうとう我慢出来

なくなって逃げ出した訳です。

 確かそれからでした。こうして何をするにも面倒に感じるようになったのは。

 あの頃は酷かった。それもこれも親分方が、どうしようもない奴らばかりで、始終喧嘩ばかりして甲虫

の話をまったく聞いてくれないからです。

 そのくせ、何もしていないくせにやたら自信満々で、何を言っても大丈夫とか何とか誤魔化しながら、

結局は何もせずにただ喧嘩ばかりしている。まるで喧嘩して騒ぐだけが仕事のようで、下っ端としてはも

うどうにもこうにも出来ません。

 何を言ってもまったく聞かない。下っ端の話は初めから無視して、好き勝手やっている。

 その上、まったく気にしないので、甲虫が親分の代わりに心を痛める破目になってしまい、泣きながら

何とかしようと努力する。でも親分は一向気にしないので、どんどんやらかして、益々揉め事を増やして

しまう。そうなると心も益々痛み、その内親分を止める気力すら失くして、親分も益々好きに暴れ出す。

 こんな感じで少しも良くならず、時間が経てば経つ程に悪くなり、そんな事だからほとほと甲虫も疲れ

果て、ぐったりして何もしたくなくなってくる。

 何もしない、責任も取らない、どうしようもない暴れん坊や派手好き騒ぎ好きだけに元気が残るのです

が、でもそんな奴等は何にも考えていないだけで、何も考えないし何もしないから元気な訳で、それを思

うと余計に心が痛む。

 真面目であればあるほど心が痛い。そんな事だから誰もが嫌になり、甲虫の仲間にも突然飛び出して行

く者が沢山いました。

 甲虫はそれでも暫くの間は残って頑張って暮したのですが、とうとう我慢できなくなり。彼らのように

発作的に飛び出して、一人で生きる事を決めたのです。けれども今まで一人暮らしなんてやった事ないも

ので、誰か頼ろうにも皆苦労しているし、やっぱり楽にはならない。

 しかも心の痛みが一向に晴れません。それどころか益々しんどくなる。

 そんなこんなで何をするにも疲れ果て、何とか生きれない事は無いのですが、自分の行く末も、後に残

っている皆は大丈夫なのだろうかと、色んな心配に圧迫されながら、とうとう歩く気力まで失ってしまっ

たと云う訳です。

「ああ、もうしんどい、しんどいでがしょー」

 そもそもの原因が自分ではないのだから、一人ではどうしようもなくて。

 かといって親分に逆らうだけの意気もなくて。

 悩みを誰かに押し付けるような無責任でもなくて。

 本当にもう、どうにもこうにも。今でも普通に気楽に生きていられる奴が、不思議でなりません。こん

なに危険な時でさえ、気楽に生きて居られる者も居るから、本当に不思議です。

 こんな事なら自分にも考える力なんか無い方が良かったと、本気で後悔する始末。

 中途半端に考える力があるくらいなら、何も知らずに自滅した方が、まだ幸せとも思い始めました。

 しかも何だかんだ言って、自分も仲間をほっぽり出して一人で逃げてきた、という自覚もあるのが始末

に悪く。結局はその罪悪感が一番の原因なのかもしれません。

 しんどいしんどいと言うのも、自分に対する言い訳ではないかとも、考えられるのです。

「ああ、でもどうしたらよかったんでがしょー。解らない、解らないでがすが。ああ、それでもこんな風

になるくらいなら、まだ何かした方が良かったでがす。同じくらいしんどくても、心はきっと楽しかった

でがしょうに」

 甲虫はこの締め付ける思いの正体に、段々気が付いてきました。確かに親分方の事もそうですが、そう

いうのは単にきっかけに過ぎず、結局、自分は何もしなかったという後悔と罪悪感が、この心をこんなに

痛めつけているのではないかと。

 そうでなければ、親分の所から離れた時に、もうすっきりしている筈なのです。それが今の今までこん

なにぐじぐじと考えているのは、やっぱり自分に原因があるとしか思えません。

 どんな理由があっても、所詮は放り出して無責任に外へ逃げてしまったのですから、傷口はそのままで

決して癒えず、どんなに嘆いて考えても、やっぱり何もしていないのに変わらない。全部ほったらかしな

のです。

 もう内とは繋がっていないから、外から虚しく愚痴を言うしかなくなるのでしょう。

 色んなモノを振り切って自由になった、勇気を出して飛び出したのだと言えば、それは聞こえが良いで

しょうが。それは何にもしていないのと同じ事ですから、やっぱり何も解決していないのです。

 だから何をしても、何を考えても、いつも底には、結局自分は何もしていない、何も変わっていない、

という思いがあるので、何をしても苦しさから逃れられないのです。

 どうしても、どうにもならないのです。

 甲虫は目を瞑りました。何をしても逃れられないのならば、もうこのまま眠るしかありません。

 弱い弱い下っ端甲虫、最後は不貞寝するしかないのです。

「いや、いかんでがす。これがいかんでがす」

 しかし甲虫は再びむくりと起き上がると、後ろを振り返って、来た道を戻り始めました。

 真面目な甲虫ですから、やっぱり何もかもを捨てて逃げるなんて事は、最後の最後で出来なかったので

しょう。やっぱり無責任に放り出すのは嫌なのです。

 こうして来た道を戻って行くと、不思議な事が起こってきました。

 何故だがどんどん力が湧いて来たのです。いやこれも戻って来たと、そう言った方が良いのかもしれま

せん。重石がとれていくようにして、何だか元気が湧いてきます。足も機敏に動きます、目もしっかり開

きます。気分も段々晴れてきます。

 まるで進んで来た道と共に、時間と元気が戻ってくるようでした。

 きっと離れたからこそ、甲虫は力を失ったのです。そこから逃げ出したから、無力になったのです。

 離れるという事は、切り離す事ではなくて、そことの関係が薄くなると云う事なのでしょう。だから得

ていた力も、持っていた力も、離れる事で薄くなってしまい、元気だけがなくなってしまうのです。

 諦めた時にこそ、疲れと辛さが襲ってくるのでした。

「何もしないから、諦めたから、しんどくなったのでがすなぁ」

 甲虫はそんな事を思いました。




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