臆病者の茂輔


 茂輔という臆病者が居た。

 臆病者とは何かと言えば、恐怖をより敏感に、そして大きく感じる者の事である。それは他人からは必

要以上に大げさであるように見え、その敏感さに滑稽さをも感じる。

 そして自分より勇気が無い奴だと思い、侮蔑と優位を込め、臆病者、と呼ぶ。

 茂輔はその語感を裏切らず、滑稽なくらい恐怖に対して敏感で、そして大げさであった。それは慎重で

はなく、確かに臆病だったのである。

 風が吹けば物音に怯え、暗闇がくれば見えぬ事に怯え、寝ている間に何が起きるか解らぬと眠る事さえ

恐れた。それはもう大変なもので、仲間でさえ呆れ果てている程である。

 しかしそんな茂輔にも良い所はある。それは人の悪口を言わない、そして人様に顔向け出来ないような

真似は決してしない、という所である。

 何しろ臆病者なのだから、人に恨まれるのが何より怖い。そんな事は考えるのも嫌である。茂輔が人に

嫌われるような事をする筈がなかったのだ。茂輔の生活は生真面目なくらいで、この臆病ささえなければ、

きっと仁者か徳者として尊敬を集めていただろうと言われている。

 だがその徳も臆病からきているのだから、これは的を射た言葉とは言えない。むしろ臆病だからこそ徳

があるとすれば、茂輔は臆病であるが為に、仁者、徳者なのである。

 一般に人が生活と共に慣れてしまい、磨り減っていく筈の恐怖心が、まだ強くその心に残っているから

こそ、茂輔は良い人間で居られたのだろう。

 子供の頃に言われていた事を、それを破る恐怖から逃れる為、大人になってもきちんと守り続けるから

こそ、茂輔は良い人間で居られたのである。

 そう考えれば、勇気があるというのも、存外碌でもない事なのかもしれない。世間に慣れるというのも、

思っている程良い事ではないのかもしれない。何事にも動じないというのは、やはり心が鈍ってしまって

いるせいなのではないか。

 人は恐怖に包まれたまま、臆病者のままの方が、真人間で居られるのではないだろうか。

 まあそんな事はよく解らないし、茂輔は別に真人間になりたいから臆病者でいる訳でもない。茂輔はと

にかく色々な事が怖かったのである。茂輔が臆病者なのは、確かな事だったのである。

 数有る恐怖の中でも、茂輔が一体何が一番怖いかと言えば、他ならぬ人間である。人間は怖ろしい。意

味もなく喚いたり、腹が立てば怒鳴ったりもする。お侍に逆らえば斬られてしまうし、親方に逆らえば酷

い目に遭わされる。仲間と喧嘩しても殴られるし、下手すれば一生仲間外れにされてしまう。

 猫も触らねば怒るまい。犬も近寄らねば吼えるまい。人間だけだ、人間だけが遠かろうと近かろうと、

何をしようとするまいと、こちらには関係なく厄介な事をする。これはとんでもない事である。

 何故茂輔が臆病かといえば、そう言う事を一々に考えるからであった。人の心の動きが、敏感に感じ取

れるからこそ、そこにいつも大きな恐怖を抱くのだろう。

 別に感じ取りたい訳でもないし、人の心なんて知りたくもないのに。茂輔は周りをいつも見ていたから、

それがはっきりと伝わってくるのだ。

 伝わってくる以上、嫌でもそれに影響を受ける。それを無視出来るくらいなら、初めからそういう心は

感じ取れないだろう。臆病だから人の心が解り、人の心が解るから臆病なのである。それはどうしようも

ない。

 茂輔は自分と他人との関係を、ありのままに見る事が出来た。普通人は自分に関する事はよく解らぬも

のだが、茂輔にはそれが良く解る。茂輔は臆病ではあったが、それと同じだけ素直でもあったのだ。

 素直だった事が、茂輔の不幸だったのかもしれない。

 茂輔は人と居る時はいつもびくびくしていた。人が居ると落ち着かないのだ。全く人という者は、いつ

どこで何をしでかしてもおかしくはない。その上、こちらが何か下手な事をしようものなら、すぐに噂が

広まり、ある日突然馬鹿にされ、苛められてしまうような事さえある。

 人間は怖い。人間は恐ろしい。

 よくよく見ていれば解るが、茂輔が敏感に大げさにしているのは、側に人が居る時だけだった。勿論突

然大きな音などがすれば驚くが、一人で居る時などはそんなにびくびくおどおどとしていない。むしろど

ちらかと言えば安心している。その顔は穏やかである。

 猫や犬と居る時もそうだ。ひっかかれたり吼えられたりしても、茂輔は構わず笑っている。猫や犬のや

り方は良く解るからだ。こちらが何もしなければ、あちらも何もしてこない。本気でひっかこうとはしな

いし、吼えても噛み付いたりはしない。

 だから安心なのだ。ゆっくりしていられる。こっちがうっかり相手の縄張りに入らないように気を付け

ていれば良いのだから、こんなに楽な事はない。余計な事をしなければ、それ以上何もしてこないのだ。

 皆普段の茂輔を知らない。一人でのんびりと穏やかにしている茂輔知らない。茂輔が本当は何を怖がっ

ていたのかを知らない。

 だから皆が茂輔を臆病者と呼ぶ。しかしそれは本当の事なのだろうか。茂輔は臆病者なのだろうか。本

当はどっちがおかしいのだろう。

 茂輔は人間以外は平気である。人が居れば臆病者だが、人以外は恐れない。

 地震や火事、台風や雷、そんなものは茂輔は平気である。非常時の鐘が鳴り響けば、一人で逃げる所か

助けに行くし。皆がぎゃーぎゃー騒いでいる中でも、茂輔は落ち着いたものである。茂輔はそんなものは

全く怖くないのだから。

 何故かと言えば、地震や火事は起こればそれまで、いつまでもねちねち恨みに思ったり、苛立って追い

かけてきたりもしないからである。だから恐くはない。驚きはするが、恐くはない。高が知れている。

 狼にあっても恐くはない。山道の暗がりであっても、全く恐れない。茂輔が暗闇を恐れるのは、暗いと

何処から人が出てくるか解らないからである。正確に言えば暗闇が怖いのではなく、そこに居るかもしれ

ない人間が怖いのである。

 それを臆病者と云うのだろうか。だとしたら勇気とは何だろう。何故人はこの世で一番恐ろしい筈の自

分自身から、人の悪意から、目を逸らせるのだろう。

 何故人間自身の恐ろしさを忘れるのだろう。

 茂輔は確かに臆病者である。誰よりも臆病である。それは確かに間違いない。

 でもその臆病さの本当の理由を知った時、彼を知る者はどう思うだろう。変わらず彼を笑うだろうか、

軽蔑するのだろうか。

 自分を恐れない者が勇気ある者などと、一体誰が決めたのだろう。それこそ自分を省みられない臆病者

ではないか。

 茂輔だけだ。茂輔だけが目を逸らさずに、人間というモノを受け止める事が出来ている。

 何故子供の頃にああいう風にしつけられてきたのか、それは人間がこの世で一番怖ろしいからである。

だからこそ礼儀作法を作り、これをしていれば人に嫌われないという方法を生み出したのだ。

 全ては人が恐ろしいからである。だから煩く教えるのである。

 昔は皆、一番怖ろしいモノは何かと云う事を、よく知っていたのだろう。皆勇気があったに違いない。

素直に自分を見ていたのだ。美化せず、あるがままの自分を、人間を。遠い遠い昔の人間は、当たり前に

それを知っていたのだろう。

 臆病者の茂輔。しかしそれは人があるべき姿である。

 どちらが本当の臆病者なのか、我々はよく考えなければいけない。

 茂輔は極端であるとしても、我々もまたそうではないとは言えないのだから。




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