抜本的対策における根本的解決法


 それはどこから来るのだろう。

 我々と言う存在がどこから来るのか解らぬように、それそのものすら疑問である。或いは愚問であるの

かもしれない。

 解らないが、いつも我々の中にはある想いが去来する。

 それを人は、虚しさ、と呼んでいる。

 空白感とでも言えば良いのだろうか。何も無い、何も無さ、そういう漠然とした喪失が、いつも何処か

らかやってくる。

 何が足りない訳ではない。我々は一つの生命として、問題なく生きていける。

 栄養を摂取する必要はあるが、さりとて生きていくだけならば、他に何も必要無い。

 睡眠と食事、これがあれば、生存する事は可能だ。

 しかし生きるという至上の命題が満たされて尚、我々には満たされぬ想いがある。

 何故だろう。心だけはどうしても満たされぬ。

 個人で満たす事が不可能なのではないか。とすら思えるくらい、それは決して拭い去れぬ想いだ。

 それさえなければ、我々は最早何一つ不満足な事は無く。それさえ無ければ、おそらくただ素直に幸福

でいられるものを。何故に我らはそれを求めるのか。

 自ら求めている、としか思えぬくらい、我々はいつもそれを考える。心に抱く。

 そしてそれを忘れる為に、没頭出来る何かを探す。

 しかし忘れても、決して消える事は無い。人は自ら不満を創り、それを虚しさと呼ぶのだ。


 それを解消する方法。

 まず目が行くのが、死、という状態だろうか。

 しかし生きながら虚しさを解消するという事が目的である以上、初めからそれは除外されている。

 正直、何の解決にもならず、かえって虚しさが増すだけではないか。

 しかも死してどうなるかが解らぬ以上、我々にとって新たな災厄を招くとも考えられる。

 それが不明である以上、初めから解決方法にはならない。

 それを答えとするのは、二重に無意味である。

 逃れる為に死を想う者もいるが、それは無意味かつ無駄であると、そう述べておこう。

 これは誰にでも考え付く事である。故に、死もまた、虚しい。


 ならば人は死が来るが故に、虚しいのか。

 どの道死しか無いと解りきっているからこそ、虚しいのか。

 それもまた違うような気がする。

 死するからこそ、生きている間に満たされたいという想いがある。

 もし初めから死だけが望みであれば、死として諦められるのなら、人は悩みはしないはずだ。それは誰

にでも、いずれ訪れるのだから、悩む必要などは無い。

 人は生まれ出でた際に、或いは死を割り切って生を受けるのではなかろうか。

 虚しさと死とは何ら関係の無い事だ、とまでは言わないが。死が何ら解決策にならない事は、確かだと

思える。

 よってこれ以上死を考えるのは、止めとする。

 これは生きている限り、答え様の無い問題である。


 では本題に返り、虚しさ、について考えるとしよう。

 虚しさ。これを覚える一番の理由は、終わりの見えない繰り返し、ではないかと思える。

 毎日毎日同じ事を繰り返す。終わりはあっても、それもまた始まりでしかない。毎日食べてもまた腹が

減る。いくら水を飲んでも喉が渇く。餓鬼にも似た、哀れみ。確かにこれは虚しい。

 しかしその全ては無意味とはならない。

 消費するからこそ摂取するのであり、常に変化するからこそ、繰り返し求めるのである。

 ようするに繰り返しこそが生であり、そこに異論を挟むと云う事は、生自体への疑問に差し変わってし

まう事になる。

 だが死を論じると同様、生自体を論じても答えは出ない。

 何故ならば、死が意味の無いただの結果であると同様、生もまたある行為の結果でしかないと思えるか

らだ。


 そこに意義を求めるとすれば、種族繁栄と夫婦間の幸福である。

 だがそれは、その生まれた個人については、何の意味ももたらさない。

 誕生は誕生として大事な事だが。それもまた、生まれた、それだけであり。ただ人生が始まったという、

それだけの事でしかない。

 しかし不思議と人は意味を欲する。

 だからこそ人はまず自身の生の虚しさを知る。喪失感を味わう。

 それが人が味わう、初めての虚しさだろうか。

 でもそれは憐れむべき事ではない。何者かに与えられた意味で、この全てが埋まるのであれば、誰も苦

労はしない。

 一個人の生も、親の夢として、すでに意味がある。人類の生存というもっと規模の大きな夢と言い換え

てもいい。

 その程度の、意味、など、果たして拘る程のものなのか。

 これもまた、自ら虚しさへ追い込んでいると考えられる。

 意味の無い事は悩む事ではない。むしろ意味を見付け出す事を悩むべきだ。そしてその悩みを楽しむべ

きだ。

 しかし前向きな思考でさえ、ふっと虚しさを覚える事もある。

 単に明るさ暗さ、前向き後ろ向き、そういう事ではなさそうだ。


 だが何も与えられない、人生の命題が無いからこそ、人は自らの理由で生きていける。つまりは自ら由

とする、自由という奴である。

 この言葉は随分使われ、使われる度に貶められてきたが、さりとて、その価値の全てが消えた訳ではな

い。言葉自体は虚しくない。使う人間が虚しいのだろう。

 しかし何も与えられないからこそ、生に虚しさを感じると言う者も居る。

 確かにそれも一つの原因かもしれない。何の意味もないものに、何か意味をもたせようとする。だから

こそ途方も無い虚しさを覚える。

 それは考えられない事ではない。むしろ、自然かもしれぬ。

 だが現実に幸福に生きる者が居る以上、その意味の無さもまた、克服出来るものである。

 自分がたいした存在でなかったという事実は、誰でも当たり前のように理解していく以上、生涯に渡る

この虚しさの理由とは思えない。

 結局、それは一時的なものであり、気付くまでの事なのだ。

 人生の意味など、重要視するのは、せいぜい2、30年の間である。どうと云う事はない。

 本気で悩み考えた者ならば、それくらいの時間もあれば、充分に答えを出し、それなりに生きていく。

 大して考えていないのならば、それは悩むふりをしているだけ、初めから遊戯である以上、別に答えが

出ようと出まいと、どうでも良い事である。

 こういう虚しさは良く口にされるが、実際には大した事ではないのだろう。

 虚しい、虚しいと、口にして遊んでいるモノは、特に考えなくても良いと思える。


 では一体何が虚しさの理由なのだろうか。

 突詰めていくと、結局は何事も理由にはならないのかもしれない。

 本当は何事も虚しくは無い。ならば何が虚しいのか。

 他に理由が無い以上、やはり自分にあるとしか思えない。

 自分が虚しい。虚しさを追うしかない自分自身の卑小さが、何よりも虚しいのだ。

 虚しさを持たずにはいられないからこそ、人間は虚しいのかもしれない。

 虚しいと想いたいその心が、何よりも虚しい。


 虚しさ。そもそもそれを思う必要性は無いのだ。

 想ったとして、何ら意味が無い。正に無意味。だからこその虚しさ。

 考える事自体が無意味であり、虚しい。だからそれは虚しいと呼ばれている。

 虚しい事自体が虚しいのであり、他の何かが虚しい訳ではない。

 人がそう無理矢理考えるからこそ、虚しいのだ。

 人が虚しいのではなく。そう考える事が虚しい。

 虚しさに答えなどは無い。何故ならば、虚しいと考える事自体が答えなのだから。

 虚しい。それだけである。初めから答えは出ている。

 虚しさの答えは虚しさのみ。

 答えが出ている事を悩むからこそ、答えが出てこない。

 1+1=2だとすれば、その答えを2以外にしようとする愚かさ。何の意味も、目的も、理由も、例え

それが出来たとしても、どうにもならない事。

 つまりはそれだ。

 何の事は無い、ただの思い込みである。人が望む虚しさ故の、それ自体が虚しい思考なのだ。


 信ずる者は救われる。これも随分貶められた言葉だが、その価値はいつでも見出せる。

 考えない事だ。素直に幸福を喜べ。他にする事は無い。暇ならば、明日の献立でも考える事だ。

 一あるを喜び、一ある事に疑問を抱かない。

 二あるを至福とし、それが一となるも三となるも、不安と考えない。

 要らないのだ、虚しさ、という奴は。そこに思考を辿り着けるのは、ただの遊びである。

 不安を隠す為の、隠したいが為の、余計な現象である。

 不安という言葉を言い換えただけの、それだけの言葉。それが、虚しさ。

 一種の精神防御作用と言えるかもしれない。しかしそれもまた無意味である。

 この幸福もいずれ消える。どの道破滅する。そう考える方が、いざそうなった時に困らない。

 確かに備える事は大事だ。しかしそう考えるが為に、人は無意味に自滅していくのであれば。そう考え

るが為にこそ、不安が生まれるのであれば。

 それはまったくの逆効果。不安に思う事は、備える事ではない。

 それは考えていない。覚悟していないと云う事だ。

 覚悟と決意。逃避せず、素直に受け止めるべき。

 不安や虚しさなど、それそのものが虚しい考えである。本末転倒、まるで意味を為さない。これが虚し

さの正体と思える。


 自ら不幸を追うようにして、要らぬ災いを追う必要は無い。

 持つ必要は無いのである。それが虚しさ、虚しいが故に、虚しいだけの、憐れむべき心。

 そんなモノは、忘れてやるべきだ。

 答え無き問いは愚かでしかないが。

 答えを知っていて尚問う事以上に、悲しむべき虚しさは無い。

 認めよう、その虚しさを。




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