自分を休む暇が無い


 自分を休む暇が無い。

 こう言えば、ごくごく当たり前で馬鹿馬鹿し過ぎる事を言っているように思えるかもしれないが、そう

いう意味ではない。別に生きている限り自分は自分なのだからずっと自分で居続けるしかないとか、そう

いう事に愚痴っている訳ではない。

 ここで言う自分とは自分という心や体そのものではなく、自分の役割、それも他から与えられるという

よりは自分で自分に与えた役割の事である。誰から言われた訳でもなく、そうしなければならない理由が

他にある訳でもなく、ただ自分がそうしたいから、そうしなければ気が済まないからやっている事。

 例えばここに百円が落ちている。そして誰それがそれを拾った。さてその時、その誰それは拾った百円

をどうするだろう。いや、これでは漠然としすぎているだろうか。もっと簡単にするなら、例えば自分が

朝誰かに挨拶した時、その挨拶した人が一体自分にどういう反応を示すだろうか。それを考えてみよう。

 挨拶をされれば誰でもにこやかに挨拶を返す人も居るだろうし、逆に誰から挨拶されても不機嫌そうに

返す人、中には返事すらしない人も居るかもしれない。人によって態度が極端に変わる人もいれば、こち

らが挨拶する前に積極的に挨拶してくる人も居るだろう。

 それは思い浮かべる人によって当然変わってくるし、十人十色、実に様々な反応がある。ただ、そうい

う反応、当然こうくるだろう、こうするだろうという傾向は、その人によって大体決まっている。だから

こそ相手がどうするかを想像出来る訳で、それは何日か何週間か一緒に過ごしていれば、自然と解ってく

るものだと思う。

 ここでいう自分とはそういうものの事である。反応や当然とるだろう態度、それらをまとめてそう呼ぶ。

 それを細かく言うなら、歯の磨き方から手の洗い方まで、実に様々な自分というものがある。よくもま

あ毎日毎時毎分毎秒続けられるものだと思うほど、我々は毎日自分というものを続けている。人の言動に

は常に自分が存在する、個性がある。たまに大きな感情やその他の要因で、その傾向が変わってしまう事

もあるが。我々は概ね自分というものを持ち、誰もがそれに沿って行動している。

 価値観や善悪に対する考え方もそうだ。人間の全てに対し大きくそれは関わっている。意識無意識は別

として、それは常に我々の中にある。むしろその傾向や反応が自分自身だと言えるくらいに、我々に密着

している。

 人が来れば大体そのように応対し、電話やメールがきても自分らしい言葉を返す。一つ一つ仕事をこな

すかのように、我々はそれを繰り返す。

 その理由も単純だ。単に自分がそう望み、自分がそうしたいからそうしている。だから毎日やっていて

も大して疲れる事がなく、むしろそうしている方が一番楽なのだが。不思議とたまにその自分というもの

に、酷く疲れてしまう時がある。

 そういう時、我々はこう思う。自分を休む暇が無い、と。

 まるで連日働き詰めで食事すらままならない程忙しい時のように、自分自身の日々の行いに対して疲れ

を思う時があるのである。

 誰から負わされた訳でもないのに、自分が望んでそうなった筈なのに、まるで誰かに自分で居る事を強

制されているかのように感じ。いつも通りに行っている自分に対し、酷く違和感を覚える。

 家族の話を聞いている時、友達の話を聞いている時、それに対して返事をする時。その一つ一つに対し、

何故こんな事をしなければならないのか、何故こんな返事をしてやらなければならないのか。そんな疑問

が浮かぶのだ。

 別に面倒見いいようにしなくても良いじゃないか、てきとーに返してやれば。

 いや、もう無視すれば良いじゃないか。それで誰がどうにかなる訳でもなし。話と言ったって、世間話

と大差ないじゃないか。放っておいても何がどうなる訳でもない。

 丁寧に歯を磨き、丁寧に手を洗う。汚れれば拭きとり、いつも清潔を心得る、綺麗好きな自分。

 別に良いじゃないか、そんな事をしなくても。一体誰がそんな事を気にするのか。もっといい加減にや

っていてもいいじゃないか。多少汚れようと、死にはしないだろうに。大体どれだけ清潔を心がけようと、

人間はそんな綺麗に出来ていないのだ、初めから。

 それを望み、いつも当たり前にやっていた筈の自分。その自分にふと疑問が浮かぶ。そしてそこに意味

を見失う。いや、元々自己満足の為なのだから、意味などは無かったのかもしれない。ならその無意味さ

に改めて気付いたと言い換えるべきか。

 まあ、それはどちらでもいい。とにかくある時ふと自分に対して違和感、疑問を抱く。そうするとそれ

が解りやすいくらいの大きな疲労に姿を変えて、我々にどっぷりと覆い被さってくるのだ。そしてその疲

れが更に、自分に対して手を抜きたい気持ちを強くさせる。

 良いじゃない。別に良いじゃないか。こんな事はどうでも良いじゃないか。自分は一体何をそんなにや

っているのだ。何を拘っていたのだ。馬鹿馬鹿しい。そんな風に思えるのである。

 そして思う。自分を休む暇が無い、と。

 今の自分という存在は、自分が勝手に作り上げた自分である。そこに例え他者から望まれる自分になろ

うという、外部と関係のある意図が加わっていたとしても、基本的に自分を作るのは自分だけである。本

当は他の誰か、自分の置かれた環境など、大して関係の無いものなのだ。

 だから余計に自分に対して疑問を抱いてしまうと、物凄い疲労を感じるのだろう。自分で作り上げた自

分、誰でもない自分が作り上げた自分にだからこそ、それを自分で否定しなければならない事に、疑問を

抱かなければならない事に、非常な疲れを感じる。

 その上、その疑問は連鎖する。

 何故こんな事をしているのだろう。何故こうしなければならないのか。何故自分はいつもこうなのか、

こんな事が我慢できず、こんな事を見逃す事ができず、しんどい癖に、面倒な癖に、自分でも嫌になりな

がらそれを行っている。

 何故そうしないと気が済まないのだろう。何故そうしないと我慢ならないのだろう。

 もしかしたら自分が腹立たしいのかもしれない。違和感、疑問ではなく。それは他ならぬ自分に対する

怒り、自分に対する強い不満、自分を止めたいという強い欲求。自分から今すぐに逃げ出したいという、

破滅願望にも似た、自暴自棄な想いなのかもしれない。

 幸いな事に、我々はいつもそうである訳ではない。人生の多くはそのような疑問とは無縁だろう。でも

ふいに、ほんの少しの間、ぽっと浮かんでは心に強く響く何か。それは抑えがたい感情となる。

 望まないのに、そんなものは必要ないのに、我々はそんな想いを抱く時がある。

 何故だ。それこそ誰も望まない事なのに。誰も今の自分に疑問など抱きたくもないのに。すでに取り返

しの付かない自分に対して、誰も不満なんか抱きたくない筈なのに。それがどれほど滑稽で無様であろう

とも、我々は我々に不満など持ちたくはない。常に満足していたい。自分だけは許し続けていたい。

 それなのにそういうおかしな疑問が浮かぶという事は、我々の何処かに、自分に対する強い不満が、い

つもあるという事なのだろうか。自分を甘えさせたいと思う心の中には、誰よりも自分に対して厳しい自

分の目があり、ずっとそこから自分自身を見ているのか。

 自分の心の一番深い所から、自分の心そのものが、強い不満を持って睨み付けている。

 我々が望む望まないに関わらず、我々が自分に甘えを望む限り、自然の法則として、それに反発する心

を同時に同じ自分という心の中へと生み出しているのかもしれない。

 だとしたら、結局責めるも許すも自分一人という事なのだろうか。

 それが本当だとしたら、我々はもっと自分自身と向き合い、自分の心と話し合う必要がある。その不満

が激しい憎悪にまで成長してしまう前に、我々は自分が抱いている不満に気付くべきなのだ。

 自分を休む暇が無い。そうふと思った時、一度手を止め、気を休め、ゆっくりと自分の心と話し合う事

が、我々には必要なのだろう。

 それは警告であり、助言である。

 叱責であり、愛情である。

 ならばそれを受け入れよう、他の誰でもない、自分自身の為に。

 他の誰の言葉を聞かなくても、せめて自分の言葉くらいは素直に聞いていたい。

 そんな風に思う。

 これが省みるという事なのだろうか。




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