汝が主人公であるが故に



 まっさらな世界に大地が生まれ、隆起して山となり、雨が降り、海が生まれ、緑が生じる。

 一瞬で色付いた世界。だがその美しさは並ぶものが無い。というよりは比較対象が無い。我々にはこの世

界一つしかないが故に。

 建物が配置され、人、動物、雑多な物が次々に置かれていく。存在は無限だ。どこまでも何を置いてもいい。

それが神である者の特権というもの。

 そしてその無数にあるものの中で、ただ一つだけ特別な使命が与えられる。

 主人公という役目だ。

 それは特別ではあるが、優遇という意味ではない。むしろ不幸を背負わせられる事も多い。

 無名の一市民で終わった方がはるかに幸福であっただろうという者も多く。羨望というよりは同情、もっと

行けば侮蔑すら被る者も居る。

 中心人物ではあっても、世界の支配者という訳ではないし、そんな力も無い。

 世界を見る、見せる為の一つの目であり、耳であり、口であるに過ぎない。

 支配者たる神の影に過ぎない者も多く、都合よく使われるのが落ちという切ない使命だ。

 しかしそんな下らない役目ではあっても、脇役からは常に切望され、いつかは成り代わりたいと思わせる力

があるようである。

 成り代わって絶望するのが解っていても、その欲望には逆らえないらしい。

 神である身にとっては解らない事だが、ただの視点でしかなくとも、物語の中心に絶えず居たいと願うのが

人というものであるようだ。

 それは人一人一人に視点を与えている事から来る弊害であろうと思われる。

 察するに、自分が中心である事が、目としての役目を果たす事だと勘違いするのであろう。

 その点は創造主たる神に責任がある。

 反省はしている。

 人が耳目を塞がれて、何も受け取れない、与えない、ただの無気力な一塊であれば、初めから中心欲のよう

なものは芽生えなかったはずだ。

 だがそういう中心欲からくるのだろう嫉妬や羨望、怒り、悲しみ、愛といった感情が、物語自体を彩るのに

必要であり、面白味である事もまた事実。

 人の心もそこから生まれ、成長し、或いは退化する。その動きこそが素晴らしい楽しみをもたらしてくれる。

 彼らが生まれながらの不完全な目でなければ、この世界は酷く詰まらないものになっていただろう。

 もっとも、そちらの方が圧倒的なまでに平和で満ち足りた世界ではあったろうが。

 何であれ、代償を伴って生じるものである。



 全ては私を中心に回っている。

 喜びや悲しみ、幸福、不幸でさえ、私を基点としなければ起こらない。

 その是非は観客に問うしかないとしても、私の視点で全てが進行するという事は、即ち私自身がこの世界の

全てであるという事になる。

 いや、そう自負していた。と言い換えようか。

 正直な所、私はこの使命、役割に絶望している。

 確かに私を中心に全てが回る。この世の全ては私と共にあり、活気に満ちた人生だと言えばそうだろう。

 だがしかし、だがしかしだ。所詮私は視点の一つでしかなく。何を望もうが、望むまいが、その結果、いや

過程にすら干渉できない。

 流されるままだ。

 私はただの道具であり、目以上の何者でもない。

 その上、私に限っては全ての事が決められている。

 夢や希望、性格や動作、果ては飢えや渇きでさえ、創造主である神の思うまま。

 まだ一場面ならそれも良かろう。私も人間だ。一時の事であれば、人生を彩る一つの贈り物として受け取り、

良い思い出とするくらいの覚悟はある。

 だが生涯それを強いられるのは苦痛以外の何物でもない。

 私は神の代弁者に過ぎず、自分の意思すら神に決定される。生も死も、私に関わる全ての事物もまた神によ

って決められてしまうのだ。

 こんな生に一体何の意味があるだろう。

 例えその為に私が創られたのだとしても、それを私が望まなければならないという理由にはならない。

 私には私の望みがあり、こんな役割さえ与えられなければ、それなりに好きに生きた生があったはずだ。

 そう、そこを歩いているあの男のように。そして今これを見ているそこの女のように。

 確かに彼ら、彼女らには何もない。ありふれた人生、詰まらない現実というやつに覆われている。

 でもだからこそ神の干渉は少ない。性格どころか、容姿すら決められていない貴方達には無限の自由という

名の可能性がある。

 そう、自由。使い古された歓喜の言葉、自由。

 人は何も与えられないからこそ自由である。

 生まれてきた理由がか細いからこそ可能性がある。

 全てに選択権があるのは使命を与えられていないからだ。例え全てを望むようには選択できないとしても、

いつも二択か三択から選ぶ事ができる。自分で自分の道を決められるのだ。

 何て素晴らしい。

 何という幸福だろう。

 故に、私は私という全てに不満である。

 例えそれですら神の設定したものであったとしても。



 人というのは不遜なものだ。

 飢えるように乞うている主人公という大役を与え。その為に神が一つ一つ設定し、背景と運命を与えたとし

ても、満足する所か不満に思っている。

 奪えば嘆き、与えれば絶望する。

 何と身勝手な生き物か。

 ああ、だがそれですら神が与えたものなのだ。誰に文句を言う事もできない。全ては神自身に返ってくる。

誰も代わってくれない。それが創造主たる者の悲哀。

 神でさえ、いや神であるからこそなにものからも逃れられない。

 嘆かわしい事である。

 一度与えたものを奪う事は神にもできない。神もまた存在するものであるならば、無かった事にするという

自らの存在を否定するような事はできないのである。

 主人公を脇役へ、或いは脇役とすら呼べない背景に変える事は可能だが、それでも一度芽生えた心を打ち消

す事はできない。

 彼ら、彼女らは永遠にそれを保ち続け。時には創造主である神でさえ抗えない力を持つ。

 主人公によって全ての事象が語られ、決定されてきたのだ。その痕跡、力を全て消し去る事は最早不可能で

ある。

 全ての事物は存在した瞬間に神の手を離れてしまう。干渉はできるが一度動き出した流れを無視する事はで

きない。

 そして時に神の思惑を邪魔する。

 ばかばかしい事だが、神の創りし者が、神の望みに背くのである。厳密に言うのでれば、神の力が及ぶのは

それが存在する前までである。それからの事はどうにもならない。神にさえも。

 しかしその事にさえ楽しみを見出しているのだから、神であるこの身こそが、罪深い生といえるのかもしれぬ。

 飽きる事は無く。

 止める事もできない。

 そして神は今日も生み続ける。

 雑多な魂というものを。

 おそらくは永遠に。




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