覗き翁


 ある所に翁がおりました。

 とてもとても年老いた翁でしたが、体の方はしゃんとしていて、毎日元気に野山へ登り、木の実や木の

枝を拾いながら生計を立てておりました。

 家族もおらず独り暮らしではありましたが、近所付き合いも良く、寂しい想いもせずに、翁なりに楽し

く暮らしていたのです。

 その日はいつも通り近くの山へ登ったのですが、ふとこの景色も飽きてきたなあ、と思い。気晴らしに

いつもと違う道筋を行ってみました。

 同じ山でもちょっと移動すると、不思議と新鮮に感じるものです。翁はまるで初めて来た場所を散歩で

もしてるかのように、楽しい一時を過ごしたのでございます。

 そのまま拾い歩きしていると、ふと地面に小さな穴が開いているのに気付きました。

 雑草の間に隠れるように開いた穴で、うっかりその穴につまづいてしまわなければ、おそらく気付かず

に通り過ぎただろう、特徴がある訳でも無い、山なら何処にでもあるような穴です。

 ただその穴はとても深そうで、太陽がいくら差しても、離れていると中の方までは見えません。

 何でこんな所に穴が開いているのかと不思議に思い、翁はそっとその穴を覗いてみました。

 どこまでもどこまでも暗く、真っ直ぐに掘り進められた穴は、思った以上に深いようです。底の方はど

っぷりと黒く、もう穴だか黒い物なのか、解らないくらいなのでございます。

 それでも暫く覗いていると、段々目の方が慣れてき、うっすらと奥の方が見えて参りました。

 何やら動いている影が見えます。それも一つや二つではなくて、いくつもの影がゆらゆらとゆらめいて、

上下左右へとふらふら、ふらふらと移動しているのです。

 しかしそれも暫くすると消えてしまい、後には何も見えなくなってしまいました。

 翁は気になってそのままずっと見ておりましたが、結局日暮れまで待っても、もう一度影が見える事は

ありませんでした。

 夜の山は獣が出て怖ろしいので、翁は慌てて山を下りましたが、その日は布団入っても気になってなか

なか寝付けません。

 それでもいつの間にか眠ってしまったのでしょう。人間は便利に出来ております。ふと目を開けると、

すでに辺りは明るく朝日が差しており、昨日よりもぽかぽかと暖かい風が戸口から流れて参りました。

 上天気に翁はいてもたってもいられなくなり、昨日の穴を目指して、早速山へと駆け上がりました。

 これだけ急いだのはどれくらいぶりだったでしょうか。翁には信じられない速度でございます。それで

も不思議と疲れもせず、まるで風に乗ったかのように、速く速く駆けられたのです。

 翁は穴の事が気になって、そんな事には気付きませんでしたが。確かに不思議な事でございました。

 山の上にも太陽がいっぱいに降り注ぎ、真に上天気であります。

 穴は昨日と同じ場所に空いておりました。当たり前の事なのですが、翁は何だかもう二度と見付けられ

ないような気がしていたので、ほっとしたのでございます。

 そうしてその穴をそっと覗きますと、目が慣れてくるにつれ、昨日と同じようにゆらゆら蠢く影を見つ

けました。昨日と同じように、いや記憶が確かならば、昨日とまったく同じ動きをしております。

 まるで舞踊のように、まったく同じ動きでゆらゆらとゆれておるのです。

 昨日よりも影ははっきりと見え、気のせいか穴の大きさも、少し広がっているように思えました。気の

せいなのでしょうけれど、翁はそんな気がしたのでございます。

 しかしやはり昨日と同じように、ある動きまでいくとぱったりと影は消えてしまい、それ以後はどれだ

け待っても何も見えません。

 翁は気になって仕方無いのですが、どうしてもそれ以上は見えないのです。

 まるで影だけが独りで動く別個の生き物であるかのように、それは暗闇にもくっきりとして見えるので

すが、ぼんやりとぼやけてもいるのでございます。

 影がそこにあっても決して交われないように、確かに見えても、やっぱりぼんやりとしておるのでござ

います。翁には良く解らないのでありました。

 残念に思いましたが、こうなれば諦めて家へと帰るしかありません。

 その日も不承不承家へと引き返したのです。

 次の日、また翁は穴を目指しました。もうご飯も抜きで、起きたらすぐに穴へと向かいます。不思議と

お腹が空いていないのです。

 風のような速さで、同じ山へ登りますと、穴はやっぱりそこにありました。ぽっかりと地面に開き、心

なしかまた広がって、真っ暗だった中が少しだけ明るさを帯びたようにも思えます。

 不思議に思いましたが、とにかく中が気になるので、またそっと覗いてみます。すると判を押したよう

に昨日、一昨日と同じ動き、同じ影が見えたのでした。

 しかし今日違ったのは、影の行く先にもっと大きな、もっと暗い穴が見えた事でございます。覗き穴が

広がった為に、もう少しだけ奥が見えるようになったからでございましょう。

 それにこれも気のせいでしょうが。何だか覗き穴が浅くなっているようにも感じたのです。遠くに見え

ていた影が少しずつ大きくなり、まるですぐそこにあるように。

 ただ動きはいつもと同じで、これまた同じ所でふっと消えてしまいます。続きが気になって仕方ないの

ですが、見せてくれないのでどうしようもありません。

 翁はがっかりして家へ戻りました。あっと言う間に戻りました。

 朝が明け、翁は同じように穴へ向かいます。もう疲れも眠気も一切感じません。でも元気であるという

感じはしませんでした。いつも同じで、何も変わらない、そんな感じでございます。

 何も感じないと言ったら、そうなのかもしれません。

 でも翁はそんな事は気にもせず、今日も一目散に穴へと向かいます。もう穴の事以外には、何も考えら

れなくなっていたのです。おかしな良い方になりますが、もう翁ではなく、穴と言っても良いのかもしれ

ません。

 その時には翁も穴の一部でございました。穴を覗いている翁の方が、家に居るよりも、ずっと自分らし

い気がしたのでございます。

 今日も穴は同じ場所に空いておりました。ぽっかりと、そして確かに大きくなっております。

 ここまで大きければ、翁でも通れるのではないでしょうか。

 翁は誘惑にかられ、穴へと入ってしまいました。

 真っ直ぐ掘られているので、下まで落ちるはずなのですが、まるで穴壁にくっ付いてしまったかのよう

に、普通に穴を這って行けます。落ちもせず、疲れもせず、辺りもはっきりと見えました。奥まではっ

きりと見えたのです。

 翁は逸る気持ちのまま、奥へ奥に居る影の側へと急ぎました。

 急がないと置いて行かれる。そんな風に思ったのでございます。

 必死で四肢を動かし、決して上品な格好ではございませんでしたが、それはやはり風のように速かった

のであります。

 しかし影達はもっと速く、どんどんと奥へと進んで行きます。真っ暗な本当に墨で塗り潰したように真

っ黒な奥の穴へと、するするとぼんやりとゆらゆらと進むのです。決まりきった形で、決まりきった速度

で、確かにしっかりと。

 翁は慌てました。このままではいつまでも追いつけません。それに何だか全然進んでいないような気も

したのです。ずっと同じ場所で足踏みしているような、そんな気持ちにもなったのでございます。

 焦ります。もうすぐ最後の影が行ってしまいます。このまま置いて行かれると、もう二度とそこへは辿

り付けないような気がしたのでございます。

 翁はどうにもたまらなくなり。

「わしを置いていかないでくれ!」

 大声で叫びました。

 するとそれっきりでした。次のまばたきで目を開けると、野山の上にごろりと横になり、満点の星空

を眺めていたのでした。

 まるで初めからそこにいて、ずっとそうしていたかのように。

 翁は驚いて辺りを見回すと、ありがたい事にまだ穴はそこに空いておりました。

 まだ間に合うかもしれない。翁はそんな風に思いました。そして実際、まだ間に合ったのでございます。

 急いで穴へ向かい、翁はそっと覗き見ました。

 すると今までとは違い、穴の中は何も見えず。まるで翁の目が真っ黒に塗り潰されてしまったかのよう

に、黒い物しか見えませんでした。

 そして足先と手先から、すぅーっと力が抜けていくのです。

 真っ黒な視界が薄れ、身体中がどっと疲れるのを感じました。

 翁は何も出来ずに目を閉じて、ぐったりと覗いた姿勢のまま横たわります。それ以上少しも動こうとは

しませんでした。まるで長い間、ずっとそこに居でもしたように。

 きっと、何かが抜けてしまったのでしょう。

 身体は温かいのに、もう動かす力が無いのでございます。

 穴の中へ吸い込まれてしまったのかもしれません。

 その証拠に、穴の中の影が、一つだけ増えていたそうです。

 そして今日もまた、一つ、また一つと増えていくのだと云われております。

 それが何かは解りません。ただずっと増えていくのでございます。終わるまで増え続けるのでございます。

 そこにあるからといって、迂闊に覗くのはやめた方が良いのでしょう。

 気になるからといって、発作的に行くのはやめた方が良いのでしょう。

 そこで声をかけるなんて、もってのほかでございます。


                                                        了




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