悟り


 悟る、という言葉がある。

 はっきりと理解する。見抜く。感付く。心の迷いが晴れ、真理を得る。そう言う意味の言葉である。

 ふと頭を過ぎるひらめき、とも呼べるのかも知れぬ。

 元々さほど難しい言葉ではない。むしろ万人が日常の中で、当たり前に体現している事であり、何ら苦

ではないと思える事柄だ。

 だがこの言葉ほど重みのある言葉は、そうは無い。

 それは正に万感の想いが、あらゆる意味が、そこに濃縮されている言葉だからだろう。全ての何かがそ

こにあり、人の営みの全てを包み込むような言葉。

 単純な意味としては簡単だが、その全てを知る事は難しい。


 では悟りとは何か。簡単に言うと、それをすぐに想像出来ること、だろうと思う。

 別に言葉に出来なくてもいい。その言葉を聞き、すぐさまその情景が浮かぶようであれば、その意味を

貴方は悟っている。

 勿論学術的な意味、辞書的な意味、とはまた違うのかもしれない。しかし貴方の中で、それは確かに悟

れている。

 夢、希望、愛、願い、祈り、神、自然、天、生命。そういった曖昧とも取れる言葉でも、言葉を耳にし

て何かがぽっと浮かぶのであれば、貴方はそれを掴めている、理解している。

 しかしそれは、単に自分だけの考えであって、自分にしか適応しないと思える。例え通じる何かがあっ

ても、やはりそれは他者には通じず、自分だけの、言うなればそれは、個人的な悟りでしかない。

 貴方はそれで満足してはいけない。

 本来の意味、辞書に書かれた意味とは別にして、一般に使われる悟りという言葉の意味は、もっと普遍

的な、全てに共通する、全てを内包する言葉である。

 言うなれば、普遍的な悟り、であろうか。

 例えば重力のように、この星に住まう我ら全てに働きかけるような何か。種を越え、生命すらも越えて、

全てに働きかける何か。そういう法則のようなモノを理解した時、真に悟ったと言えるのだろう。

 個人、自分の思うそれではなく。万人が持つ、或いは自然に発祥している何か。それを把握してこそ、

初めて万人の云う悟り、つまりは一つ抜き出たかのような、迷いが晴れた、天の境地とでも言おうか。そ

の場所に到達する事が出来るのではないだろうか。

 そしてそこに到れば、聖人君子、仏、神、の境地に近付き、或いはそういう偉大なる行いを、初めて真

に理解できる道を、その目に映す事も出来るかもしれない。

 故に悟りを得た人間は、自然に敬意と崇拝の気持ちが起こる。

 そうなっていないという事が、貴方の悟りは未だ単なる個人的なものに過ぎないという事を、示してい

ると思われる。


 悟りなんぞは簡単だ。誰でも悟れる。自分はもう悟った。などと思う事を、正しく傲慢と云う。

 自分が偉大だと思い込み、人に災厄を巻き起こすのは、その手の個人的悟者達である。

 それも当然なのだ。個人的悟りなどは、真の境地へ向かう為の、単なる出発点に過ぎないのだから。

 一ではなく、万を知らねばならない。しかし例え実際にその万を知れたとしても、その中には一つとし

て普遍的なモノが無い事の方が多い。

 悟りを求めるとは、そういう道なのかもしれない。


 ならば普遍的な悟り、真の悟りとは、一体どこにあるのか。どうすればそこへ辿り着けるのか。

 それはおそらく人の中には無いものだ。いや、自らも普遍的な一つに属す以上は、やはり人の中にもあ

るのだろう。つまりは在って無いものなのか。

 解り難い。言い方を変えてみよう。

 それは自分の想いでも、思考でもない、もっと内なる深奥にある、最も基本的かつ人間としての本来の

部分にある。故に、人に在って、自分には無い。即ち、在って無いモノになる。

 自己や意思とはまた違う所にあるのだと思える。

 そう考えると、一番に思い浮かぶのは、良心、だろうか。

 これは自分の願いや欲望とは別にして、何故かは解らないが、そうするべきだと示す、人の道標のよう

なモノだと思える。

 罪悪感、もそうかもしれない。これも自分の意に反して、自らを戒める。

 これらは、神の声、天の道、そういった言い知れぬ何かに、言葉で表せば矛盾して思えるモノに、一番

近いのではなかろうか。

 説明できない何か、それこそが悟る対象に相応しい。

 法を守るという正義感、責任感でもなく。罰への恐れからでもなく。当たり前に、自然に備わり、生ま

れついてより確かに持っている何か。まずはそれに気付く事が、悟りへと自らを導く第一歩になるのかも

しれない。

 そうするべきだからする。しかしならば何故そうするべきなのか。

 それを見付けなければならない。理解しなければならない。


 他に一般に普遍的な物と云えば、大体自然という物を思い描く。

 太陽、風、森林、天候、気温、土、熱、光、そこに満ちている生命とそれを育む何か。

 これもその一つ一つはすぐに思い浮かぶ。それが何をするもの、何を示すものなのかも、大体は解る。

それもまた個人的悟りと言えよう。

 ではそれら全ては、一体何なのか、何がそれなのか、何がそうさせているのか。普遍的な悟りとは、そ

ういう問いを意識する事から始まる。

 何の為にそうなのか、何の結果でそうなるのか。

 全く別に見えて、しかし同じ自然の中に納まるのならば、必ずやそこに到る道が、全ての存在に、共通

してあるはずなのだ。

 その道が、その道に気付く事が、おそらくは真の悟りの境地。それはたった一つの想いに気付く事でも、

たった一つの何かを知る事でもない。全てに共通する、全てにおいて一つである何かを見付ける事。

 ある意味で、この世の全てを知る、という事。


 困難である。まるで知らない事を思い出そうとしているかのようだ。

 しかし我々もそこに生き、おそらくその道、法則、力に従って存在している以上、それを感じ取る事は

可能なはずである。

 そこに同じく居るからこそ、我らの中にもその道が必ず存在している。

 であれば、例え自らの内しか見えぬ、解らぬ小さな我ら人間でも。その道が全てを内包するが故に、他

の全てを知る、はっきりと理解する事も、不可能ではないと考えられる。

 自分では悟れぬそれでも、自らの内にある道を通して、全てを覗き、悟り知れる事は、決して不可能で

はないと思えるのである。

 自らの内に脈々と流れ、今も我らに作用し、我らをこの地に留め、我らを生命としているその何か。誰

にでも流れているその何かが、神であり、天意である、唯一つの、文字通りの道である。


 それを悟れた者は人の全ての歴史の中でも、おそらく数える程も居まい。

 それは悟れた者の言葉が、意思が、何千年も当たり前に残っている事からも、察せられる。

 極々僅かな、生涯をかけて思考し、ただ自己満足だけではなく、真の意味で真剣に考えた人間の。それ

でもその中の数人だけが、僅かにそれに触れる事が許されるような、そのような道。

 掴みたい。そこへ到達すれば、一体どういうモノを見る事が出来るのだろう。

 私は変わるのだろうか。それとも変わらぬ事を知るのだろうか。

 大いなる悲しみか、大いなる喜びか。

 いや、人の感情などを超越した何かに違いない。

 人が神たらんとするのならば、神に近づこうとするのなら、科学や学問など外にあるモノではなく、も

っと内にあるモノに気付く事が重要ではないだろうか。

 意志無き力が、単なる暴力として、災害の如く破壊しかもたらさぬ以上、力のみ追い求めるのは危険で

あろう。知らぬ間に自滅しているかのような事を、当たり前に考え無しに望んではならない。

 そしてそれは、その道へ到る事と、正反対の試みであると言わねばならない。

 人の望みと、正反対の事をしていると言わねばならない。

 ある時、ある瞬間に、ふっと手が届くかのようなその境地を、今こそ、これからこそ、尚更に目指さな

ければならないのではないか。

 人が人である為に。人が人を超える為なら尚更に。それはきっと必要な事である。

 そしてそれこそが、真の意味での進化であるはずだ。

 人は精神をこそ進化させねばならない。 


 悟り、それは我らそのものの、進化である。




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