続 悟り


 普遍的な悟りとは、誰も否定できない真理である。

 そう考える事から全ては始まった。

 個人的な趣味趣向、そういった私的な全てを除いた公的な思想に、それがほんの僅かだが存在するのか

もしれないと。

 真理。

 例えば足し算がある。

 数式としての足し算ではない。この世の流れとしての、足されるという現象である。

 全ての物が過去から現在、現在から未来へと進行して行く以上、その全ての何もかもは、須く足されて

いなければならない。

 引かれているように思えても、それはマイナスを足したに過ぎない。

 全ては足されていく、それは当然の帰結である。

 勿論、これが未来から現在、現在から過去へ進んでいるのであれば、逆転する事になる。

 全ては引かれ、引かれる事から始まり原初へ還る。

 増えているように思えても、それはマイナスを引かれたに過ぎない。

 真理を逆転させても、須くそれは真理でなければならない。

 これもまた当然の帰結であるはずだ。

 こうして考えていくと、真理というのは何も難しくない事が解る。

 考えてみれば当たり前の事で、何も複雑な思考を必要としない。

 考えればすぐに解る、納得出来る。それが真理。

 宇宙一単純明瞭なモノである。

 何故なら、小難しい理論や思考は、全て人の頭脳の内にのみある事で。それを求める限り、絶対的な存

在である自然から、その分だけ遠ざかってしまう事になるからだ。

 思考の回帰、それこそが己を真理へ導く道である。

 決して難しくも、複雑でもない。真理は須く単純明瞭でなければならない。

 だからこそ、それは普遍的なのだろうから。

 やはり個を除いた所にそれは在る。

 そう結論付けるしかない。

 人の内だけでは、決して辿り着けぬ場所に、それは在るのだろう。

 遠い道、宇宙一単純で、一番近くにあり、自分そのものがその答えの一部でもあるのに、なぜこうも遠

く、そこへ辿り着けないのだろう。

 そして何故、悟れと、人は自らに課すのだろうか。

 自らそれを選んだのか、それとも誰かがそれをそうしたのか。

 誰がそうしたのか、誰がそう望むのかは解らない。

 自分であるのか、自分でないのかさえも。

 しかし人は自らを、そして森羅万象の全てを悟りたいという願望を、生まれながらにして持っている。

 これは不思議な事だ。どうしようもない事実であるが、とても不思議な事だ。自分とは何か、世界とは

何か、それを考えない者は何処にも居ない。

 他の生命は知らないが、少なくとも人はそうである。

 例え深く考えた事は無いにしても、必ず一度ならず頭に浮ぶ。いや、生きている限り、限りなくそれは

ふっと浮んでくる。

 そして自らに命じる。

 それを探せ。

 それを求めよ、と。

 つまりそれは、魂の命題なのか。

 解らない、解らないが、それを自分も求めている事だけは解る。

 そしてこの世に生きる、ほぼ全ての、いや、もう全てと言ってしまおう、全ての人間は、それを探して

いる。自分を知る事を望み、自分そのものを探している。

 例えそれが無意味なものであっても、知る事で絶望するとしても、永遠に求められぬとしても、人は生

まれながらにそれを望み、それを求め続ける。

 まるでそれが為に生まれ、それが為に存在するかのように。

 生命とは、そういう問いであるかのように。

 それにしても不思議なのは、真理とは何よりも単純であるはずなのに、何故その答えを人は見付けられ

ないのか。

 誰も未だそれに答えを出せない。

 例え出せたとしても、それは自分だけの答えでしかない。

 それは私的な悟り、普遍的ではない。

 つまりは真の悟り、真理、答えではないのだ。

 誰もそれそのものに対する答え、真理を、導き出せていない。

 ひょっとすれば、あまりにも単純であるが故に、気付けないのだろうか。

 路傍の石のように、ありふれているからこそ、人が何かを求めている限り、決して見出せないモノなの

だろうか。

 或いは全ての人間が、すでにそれに気付いていながら、それを認めたくないのかもしれない。

 とすれば、生命は何ら意味が無い、偶発的に生まれてきただけのモノだとでも、云うのだろうか。

 答えは無い。少なくとも人の望む答えは無い。それ以上に単純かつ明瞭、そして受け容れ難い答えはな

いと思える。

 もしそうだとすれば、一体何の為に生きるのだろう。

 無の為に生きるのか。

 考える為に生きるのか。

 悩むが為に生きるのか。

 死への、単なる通過点でしかないのか。

 或いは、死すら通過点でしかないのか。

 永劫の中で問い、永劫の中で迷う。

 生命とはそういうものなのかもしれない。

 それが悟りであり、真理なのか。

 もしそうだとすれば、人が答えを求め、自らの理解を求める事には、別の意味が、別の意志が見受けら

れてくる。

 人は自分の意味を求めるのではなく。それを求める為に悩んでいるのではなく。単に、自分の意味を見

付けたい、生み出したいだけなのではないだろうか。

 その意味を創る為、我らは永劫に生まれ、死に、存在し続けるのではないか。

 単純である。

 答えを創るが為に、我らは生まれてくる。

 そして死する事さえも、その答えを導く為の、手段と繋ぎでしかない。

 そう思えば、確かにそれは単純明瞭である。

 しかしこの答えらしきものもまた、私個人の、例え百歩譲っても人類全体の、答えでしかない。

 普遍的な真理とは、余りにもかけ離れている。

 私には人の心の一片しか解らず、そこから導き出せるものは、このような詰まらない答えである。

 これは私だけの答え。普遍的ではない。つまりは真理でもない。

 私は迷走している。

 何よりも単純。その答えを見付ける事が、何故こうも困難なのだろう。

 一体何を、私は見落としているのだろう。

 それとも、やはり答えなどは見付からないのか。

 未だ何も見えはしない。

 ただ道に沿って進むのみ。

 これを二歩目と云うべきか、いやまだ一歩すら歩めていないのかもしれない。

 下手すれば、逆に進んでいる可能性すらある。

 驕りを捨てれば、自らの思考の貧しさが、弥が上にも見えてくる。

 今解るのは、それだけ。

 自らの思考の貧しさ。あるとすれば、それだけが普遍的な真理。




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