思考の逃げ道


 人間は日々自分が生み出すたくさんの思考に追われる。

 欲望、願望、言葉遊び、絶望、希望、怒り、悲しみ、切なさ、喜び、官能、恐怖、真実、欺瞞、世迷言、

真理、嘘、勇気、愛、そういった感情が常に思考を生じ、人の心はその全てに直にさらされる。

 全てを受け止められるならいいが、実際には投げ捨てたい思考の方が多い。

 認めたくない、あまり触れて欲しくないもの。考えるだけで悲しくなる妄想。

 そんなものからはもう逃げるしかない。

 でもいくら逃げても追ってくる。自分の頭にあるものだから、どうしても消せない。隠そうとしても、す

ぐに見付けてしまう。自分で隠した物は、自分からは隠せない。

 いっそ記憶喪失にでもなれればいいのだが、それは難しいし。例えできたとしても、忘れたい事を覚えた

ままで、忘れたくない事だけを忘れてしまう事もある。

 だから逃げるしかない。

 ずっと逃げ続けるしかない。

 その全てをばねにして自分との誓いを一生守り、守る為に死ねるような人間は少ない。もしかしたら居な

いのかもしれない。

 自分だけではない。逃げても恥ずかしい事じゃない。

 だから逃げよう。

 幸い、頭の中はどこまでも広がっている。いつまでも逃げ続けられるし、どこまでも行ける。

 だけど思考はいつまでも追ってくるから、疲れて歩みを止めたりしたらすぐに追い付き、我々を縛り上げる。

 逃げ出された思考は我々を恨み、一層大きな失望に変わっていつまでも責めてくる。

 止まってはならない。

 どれだけ苦しくても、辛くても、逃げ続けなければ。

 それとも立ち向かってみようか。

 大きな大きな絶望に。逃げ出したかった自分の思考、認めたくない考えと戦ってみようか。

 でもやっぱり恐い。

 逃げるのも、迎え撃つのも恐い。

 こうして人は迷い、壁を作る。

 人を止め、前にも後ろにも進めなくさせる壁を。

 そしてそこに待っていたかのように思考が追いついて来て襲いかかる。

 何重にも積み重ねられた恨みと失望が心を何度も何度も打ち叩く。

 壁があるから逃れる事もできない。後はもう狂うしかない。行き場を失くした心は狂うしかないのだ。

 耐え切れず、逃げられもしないのなら、そうやって全身から感情を吐き出すしかない。

 そうしなければ本当に壊れてしまうから。

 それは悪い事ではない。

 誰でも毎日のようににやっている事だ。人の生み出した知恵なのだ。

 泣いたり、笑ったり、叫んだり、怒ったり、走り出したり、色んな事をして人は感情を吐き出す。

 でも狂う程強くなった感情は、自分自身をも傷付けてしまう。

 大き過ぎるのだ。自分自身で耐え切れない。

 思考から逃げている時間が長ければ長いほど、そして迷っている時間が長ければ長いほど、追い付かれる

思考の数が増え、強大な痛いくらい強い感情に変わってしまう。

 そうなるともう笑ったり、泣いたり、怒ったりするだけでは吐き出せない。強い感情には強い行動。狂う

か、それに近い行為をするしかない。

 つまり他人が見れば恐怖を覚えるような、強過ぎる行動を。

 自分の生み出した思考に追い詰められて、発狂という方法によってしか吐き出せなくなった人間は悲し

い。何が悲しいと言うと、自分で自分が悲しくなるのが悲しい。

 それでも抑えられないのが悲しい。

 逃げ続けるのにも大きな危険があるという事だ。

 確かに間違ってはいない。一生逃げ続けられるのなら、その方が良いに決まっている。

 でも逃げ続ける事は不可能に近いくらい難しく。狂気に耐えられるくらいなら初めから全て受け止めてし

まった方が楽だ。

 それでもやりたいという猛者を止めはしないし、挑戦する事は素晴らしい事だとも思うが、できればまだ

弱い内に受け止めてしまう方が良いのだろう。

 誰もが当たり前のようにやっているような方法で、つまり笑い、泣く、怒るといった簡単な当たり前の方

法で吐き出す方が、きっと自分にとっても楽である。

 自分の生み出した思考、妄想に自分の心が耐えられなくなる前に、吐き出してしまう方がいい。

 受け止められるものは早くに受け止め、受け止められるものは早くに吐き出す。それが一番現実的な方法

と言える。

 そして多分、それが人間として当たり前の、本来の生き方なのだろう。

 しかし人の中には笑ったり、怒ったり、泣いたりが上手く行えない人間が居る。

 それは多分、自分の思考、妄想の強さをはかるのが苦手な人なのだろう。だからまだまだ大丈夫だ、と思

っている間に、どうしようもできないくらい大きくなって、壊れた時に初めて気付いてしまう。

 そしてその事で、自分はなんでこうなんだろうと更に自分を追い詰め、どうしようもなくさせてしまう。

 不器用な人なのだろう。

 もし自分にそういう傾向があったとしたら、自分で何とかしようとはせず、誰か一緒に受け止めてくれる

人を探すべきだ。

 嬉しい事に、人の心というものは分け合える。

 嫌な事は半分以下になり、嬉しい事は倍以上になる、という何とも都合の良い仕組みになっている。

 それはきっと、人類が誕生した頃から似たような悩みを持っていたからだと思える。

 長い長い時間をかけて、自分に打ちのめされないよう、少しでも精神的健康でいられるように進化し続け

てきた結果。だから都合のいいようになっているのだ。

 それは先祖からの遺産、贈り物と言える。

 人はそれだけの時間を懸命に生きてきたのである。

 そしてその何百万年かの進化の結果が他人と心を分け合う事だと言うのなら、素直に従うべきだろう。

 初めは恥ずかしいかもしれない。自分をさらけ出す事で自分から離れて行った人も居るだろう。でも確か

に居るはずだ。今も貴方を大事に思ってくれている人達が。

 人は色んなものから逃げ続けている生き物だから、自分から逃げて行ってしまう事もある。でも受け止め

てくれる人も確かに居る。

 何度逃げられても、それでも人を信じるべきなのだ。貴方もその事を知っているはずだ。信じる事の強さ

とあたたかさを。

 そして自分もまた誰かから信じられる人間を目指すべきなのだろう。

 人が長い年月の中で見付けた答えは、おそらくそれだ。

 一人で自分の全てを受け止めきれると考えてはならない。

 いつまでも逃げ続けられると思ってはならない。

 何でも自分一人でやろうとしてはならない。

 助けを借りよう。

 そして誰かを助けるよう。

 求め、求められ、人は生きていける。

 何百万年も昔から人が選んできた生き方、たった一つの答え。

 人が親を、兄弟を、友人を、恋人を、そして伴侶を当たり前のように求めるのは、自分もまたそうだと生

まれながらに悟っているからではないか。

 本当は人は一人で生きられるのかもしれない。

 けれど、自分の思考から最後まで一人で逃げ続けられる人間はいない。

 もしそんな人間が居たなら、それは神であり、仏であり、それに近しい者であり、人である事を超越し、

別の存在となった人外の人である。

 自分がそうなれると信じているのなら、その道を行くのもいい。

 ただその過程ではやはり誰かの協力が必要だという事を、私は付け加えておきたい。

 誰かに頼る事、すがる事は、決して間違いでも悪い事でもなく、人として当たり前の事で。それを自分一

人で生きてきたように考える事は、人間を最も否定する行為である。

 赤子が母親を求めるように。その気持ちはごく自然な当たり前の事だからだ。

 それが自然な生き方なのである。

 それでも恐いと思うなら、その恐さもまとめて受け止めてもらえばいい。

 優しさに甘えればいい。

 申し訳なく思うなら、その相手に自分もまた優しくすればいい。

 何も恐くなんかない。

 それだけの事なのだ。




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