訪れた沈黙


 会話と会話の合間、ふと何気ない拍子に望まない沈黙が訪れる。

 それを避ける為に会話していたはずなのに。気付けばいつの間にかそこにあり、気まずい気持ちを味わう。

 どうしても避けようがなく。何度体験しても慣れない厄介なもの。

 笑ってごまかしても後に続かない。それまで知己のように話していても、それからはまるで初対面ででもあるかのよ

うに、ぎこちなく舌が回らなくなる。

 そして途切れ途切れの言葉をぶつけては、尚更きまり悪くする。

 誰も望んでいないのに、どうしてそれが訪れるのか。

 よく解らないが、それはそれでいい。

 問題は、沈黙というものが実はそういうものではない事だ。

 私は昔、仲の良い仲間と共に五人程で旅をした事がある。

 旅と言ってもごく近い距離で、その響きを使うには大げさにも思えるかもしれないが。

 ちょっと遠出した。くらいが一番あっているのかもしれない。

 それでも一応三泊はする予定で、なかなか大げさな、といえばちょっと違うかもしれないが、私達にとってはちょっ

とした旅であった。

 私達はずっとそれを楽しみにし、わきあいあいと準備を整え、それを今か今かと待っていた。

 そして待ちに待った旅が始まったのだが。その間中、なんとはなしに私は終始気まずく過ごした。

 別に何があった訳ではない。嫌われている訳でも、友と話し慣れていない訳でもない。それぞれと二人きりで旅行し

た事もあるし、子供の頃からの長い付き合いでもう兄弟みたいなもので、一緒に居る事の方が自然な間柄だった。

 他の仲間同士も大体そんなもので、そっちの組み合わせの方が仲が良い、というのはあっても、どれも悪くない友達

関係である。

 そんな仲で何が気まずかったかと言うと、全ての事に対してどういう訳か私だけ間が悪かった。

 皆が楽しげに会話をしていて、それに混じろうと思った途端に話が終わってしまう。

 じゃあ私も付き合うよと手を上げようとすればその前に全てが決まる。

 皆静まった後も一人だけ笑っていてしまう。

 二人組になればいつも私が余る。

 何をするにも一人だけ決まってずれ、いつも気まずい沈黙を感じてしまう。

 しかも不思議な事に、その気まずさを感じているのは私一人であった。

 誰を見ても楽しそうで、私に届く前に消える言葉を楽しそうに並べている。そこに悪意など見えない。初めは私をか

らかっているのかと思ったが、そうでもない。

 私を無視する様子はどこにも無く。どうやら彼らの意識の中では、いつも私が話の中心に居たようなのだ。だからこ

そ余計に孤独を感じたのかもしれない。

 私の方がおかしいのではないかと何度も思った。

 しかし違うのだ。明らかに私だけがずれている。まるで異空間から彼らと接しているかのように、大事な所でいつも

私は欠けていた。

 そうして三日間、結局何一つかみ合わないまま旅が終わってしまった。

 しかも話はここで終わらない。

 旅の間写真をいくつも撮ったのだが、どれを見ても私の姿は映っていない。初めから居なかったかのように、写真と

いう形ある思いでの中に、私は居なかった。

 そのくせ仲間達は、旅中と同じように私が常に写真の真ん中に写っているかのように話をするのだ。

 私としてはもう笑うしかなく。無理矢理合わせては苦い笑顔を浮かべていた。その頃には不思議なずれはなくなり、

会話も全てがかみ合って、当たり前のように私はその中心で居られた。

 皆と同じ体験をしているのだから話が合わないという事も無い。

 私という存在がその旅中に全く感じられない事以外は、いたって平常である。

 つまり、これは異常ではない。

 異常な出来事ではない、一般的な、誰にでもある事なのだろう。

 きっと。

 私は思う。この体験こそが本当の沈黙であり、それは間の悪さではなく、存在そのものが沈黙しているという意味で

あるのだと。

 私がそこに居て何の意味も成さなかった。しかしそれは決して負に向かうものではなく、単純に零だっただけで、支

障があるどころか全ての運行をむしろ円滑にさえした。

 私が居るが、居る事の意味が無い。それがまるで機械作業であるかのように完璧に無駄無く物事を進めさせたのだ。

 人の行いというものは人の感情、心を通さない方が上手くいく。自然現象のように、全ては高きから低きに流れ、循

環して運行されていくように、ただ現象として法則のままに動く方が何事も円滑に流れる。

 そこにこだわりや想いを挟むから、上手く回らなくなる。当たり前だ。自然はそういう風にはできていないのだから。

 そうであれば、そこに私が居なかった事でかえって私という利を高めたとしても、不思議ではない。そしてそれが私

という存在が完璧に無視されながらも、常に中心に居させた理由なのだろう。

 中心に居れば全てが上手くいくような便利な存在として、仲間達の認識の中では、私は確かにあの場所に居たのだ。

 全てがずれていたからこそ私という存在は彼らの中で際立ち、私の中では無に等しかった。そう言い換える事もできる。

 私という存在の拍子がずれてしまっている状態。

 私自身の沈黙。

 つまりは音ずれた沈黙という訳だ。

 ばかばかしい話だが、こういう事は割と良くある事なのではないか。

 自分では上手くできていなかった事がやたら評価されたり、まるで空気のようであったのに貴方のおかげで上手くい

ったとありがたがられる。

 そんな事は日々いくらでも起こっているのだろう。

 そしてそれが物事を円滑に進めるのだとすれば、そう悪い事ではないのかもしれない。むしろ望むべき事なのかもし

れない。

 何も無い空であったからこそそれができたのだとしたら、それこそが人間に対する全ての疑問に対する答えである。

そう言ってしまっても良いのかもしれない。

 成功者が常に孤独で理解されない事とも、それは通じる。

 だがそれを認めたくないのは、私だけでは無いに違いない。

 例え人に誉められたとしても、孤独になるのは嫌なものだ。

 生きるという事は、孤独で居たくないと思う事ではないかと思う。

 そんなお話。




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