気付いた事


 穏やかな朝、いつも通り紅茶をすすり、気のない一服にのんびりしていると、日差しが強いからだろう

か、首の後ろ辺りに痒みを覚えた。放っておけばその内消えるだろうと思っていたが、消えるどころか時

間が経てば経つほど益々気になってくる。

 むずむずとした感情が消えてくれない。

 何かが内側から皮膚(ひふ)をなぞっているかのようなおかしな痒みを感じ、とても耐えられない。

 このまま自分と何処までも勝負するのも乙なものかもしれないと、そんな風にも考えたが。結局はそん

なものは強がりにもならず、当然のように自分に負け、片手でぼりぼりとかき始めた。

 しかし何だか物足りない。どうももっと奥の方が痒いような気がする。もしかしたらおかしな病気にで

もかかったのだろうか。首の辺りに変なできものが出来たのかもしれない。そんな不安を払拭(ふっしょ

く)する為、もう少し強くかいてみる。

 これで消えてくれれば、いつでもどこにでもある普通の痒みで終わってくれるはずだ。

 しつこくかいていると、何だか指先に当るものがある。

 よく解らないでっぱりのような。いや、いぼのような物ではなく、何だかもっとしっかりしているとい

うか、皮膚のようで皮膚でない、こうみょうにしっかりした抵抗感のある・・・。

 ん、いやでっぱりではない。これは溝なのか。盛り上がっているのは確かだが、何か裂け目を無理矢理

閉じて、そこからはみ出しているものであるような気がする。

 ああ、肉眼で確認出来ないのがもどかしい。頭の後ろに目が付いていれば、きっとこの疑問もすぐに解

けただろうに。

 洒落た若者や女性のように手鏡など持っている訳も無し。こうなれば手で探るしかないが、それもまた

もどかしい。

 うーん、むむ。

 おや、これは何だろう。これは何か・・・。

 しっかりとひっかるものがある。そこは今にも開きそうだ。

 傷だろうか。しかし別に痛みは感じない。しかし確かに痒みは感じる。そうだ、多分ここだ。

 ひっかかる部分に両手を添えて、思い切って力を入れた。

「おお」

 何かがずるっと剥けるのを感じ、頭全体がやけにすうっと心地良い。まるで脱皮でもしたかのようで、

今までの痒さが嘘のようにさっぱりしている。

 しかし目の前のこれは何だろう。よく解らない何かやけに生々しい物体。良く目にしていたような気も

するし、今初めて目にしたようでもある。

 これは何処にあって、一体何処から出てきたのだろうか。

 もしかしたらこの変な物がくっ付いていたせいで、あれだけ痒かったのか。

 物体の両端に私の両手が見える。やはりこれが私の首の後ろにぴったりと張り付いていたのだろう。

 いや、違う。こんな大きなものがくっ付いていれば、流石に私も気付いたはずだ。あのでっぱりも、こ

んなに大きくはなく、せいぜい小指の爪くらいなものだったはず。

 それが何だこの大きな物体は。ああ、訳が解らなくなってきた。

 何だろう。不思議な懐かしさのするこの物体はなんだ。

「ぎゃッ!!」

 良く見てみようと先の方から裏返してみると、そこには目、口、鼻、そして髪の毛から耳まで、実に様

々な物がくっ付いていた。これが今流行りの前衛芸術とかいうやつだろうか。いや、それならそれで、益

々そんなものがここにある意味が解らない。

 私の家に美術品などがあるはずが無いではないか。

 もっと冷静に考えてみよう。

 それにしても気味が悪い。これは明らかに顔だ。しかも何処かで見たような顔をしている。これは確か

に見た事がある。

 だが生首という訳ではない。妙に現実味のある物体だが、作り物だ。

 思わず叫んでしまったが、後で大家に怒られなければ良いのだが・・・。まったく、誰の悪戯(いたずら)

だろう。こんな事をする奴に、心当たりは無い。

 それに私は今起きた所だ。室内にも誰かが侵入した様子は無い。

 一応財布や通帳などを調べてみたが、ちゃんとある。中味もそのままだ。泥棒ではない。

 当たり前か。泥棒がわざわざこんなおかしな悪戯をする訳がない。

 暫く考えてみるが、どうにも見当が付かない。そこで洗面台に初めから設置してあった、この部屋にあ

る唯一の鏡で確認してみる事にした。

 頭のすっきり感もおかしな風情であるし、是非とも確認しておきたい。首の後ろは見えなくとも、自分

の頭くらいは解る筈だ。



 深刻だ。事は深刻な話になってしまった。

 剥(む)けていた。確かに剥けていた。頭部がすっきりする筈だ。今まで覆っていたはずの人間の頭が

剥け、私の本当の顔がそこにあったのである。

 それは見間違う事の無い、不可思議な虫の顔。

 蝉(せみ)のようで蝉でない。蟻(あり)のようで蟻でもない。何処かで見たような、しかし誰も見た

事が無いような不可思議な虫の頭がくっ付いていた。いや、私の中に潜んでいたのである。言うなれば、

私の本体は虫だったのだ。

 虫が人の皮を被っている。これは一体何の冗談だろう。

 悲鳴を上げながら、何度見返したか知らない。その度に虫の頭部がはっきりと映る。今日の鏡はやけに

しっかり映り、細部までくっきりと見えた。私を皮肉っているのだろうか。とうとう貴方の本当の姿を映

して差し上げましたよ、とでも言いたいのか。

 何たることだ。いやしかし、今まで全てを偽ってきた私だ。鏡に馬鹿にされても、卑下(ひげ)されて

も、仕方のない事かも知れない。

 何しろ私は、自分の事さえ知らなかったのだ。

 こうして剥けるまで、私は確かに人間であった。それを疑う事はなかった。しかし剥いてしまったから

には、もう後戻りは出来ない。知らない方が良かったが、知ってしまった以上、私は紛う事無き虫である。

何虫かは知らないが、とにもかくにも虫なのだ。

「あ、あ、あー」

 だが不幸中の幸いにも、声はいつものように出せる。試行錯誤の末に、再び人面を被る事にも成功した。

人面は私の頭部をすっぽりと包み隠し、驚いた事に舌も眼球も人そのものだった。これでは自分で気付か

なかったのも当然だ。誰が作ったのかは知らないが、恐ろしく出来がいい。

 今の私を見ても、誰も虫であるとは解らない。つまり日常生活にはまったく支障が無いという訳だ。私

が今まで普通に生きてこられたように。

 私という自分が完膚(かんぷ)なきまでに破壊されてしまったように感じるが、それでも私は私、こう

して自己は保てている。

 全てに否定されても、私という自己は決して消えないようだ。あれだけ普段希薄に感じていた自己とい

うものが、今しっかりと私を繋ぎとめている。不思議なものだ。

 どうすればいいかは解らないが。ともかくこれで生きる事はできる。人間社会で生きる事はできる。忘

れようとは思わないし、とても忘れる事はできないが、とにかく生きる事は出来る。

 医者の診断でも虫と云う事が判別出来なかった私だ。これがどういう理屈で、何の為に出来ているのか

は解らないが。この物体を着ている限り、私は人として生きられる。

 しかし不安がないではない。いつまた剥(は)がれてしまう事か。それに今日は首の後ろがほつれただ

けで済んだが、これからは突然腕が剥けたりとか、足が剥けてしまったりとか、そんな事もあるかもしれ

ない。

 この皮膚が限界に来ているから、こうしてあっさりと剥けてしまったのではないのか。

 もしそうなら、いつどこが剥がれてしまってもおかしくない。

 早急に直さなければならない。これを作った者を探して、修復し、再び人間として暮す。

 よくは解らないが、その他に生きる道がないからこそ、私は今までそうしてきたのだろう。

 誰が何の為にそうしてくれたのかは知らないが。私はその人達に感謝したい。私を、こんな私を生かし

てくれて、本当にありがとう。

 私は決して諦めまいと誓った。今更嘆きはしない。私は人の生を全うしてみせる。

 だが、果たしてどうするべきか。

 決意は固まったが、現実的な問題として、この人皮を作った誰かを探す事は難しい。

 父も母もすでに他界している。聞こうにも聞く方法がない。もしかしたら何か遺言のようにして残して

くれていたのかもしれないが、両親を亡くしてからすぐ実家が火事で焼け落ちてしまっている。何も残っ

ていない。全ては灰になった。

 ああ、せめて一つだけでも手がかりがあれば、そうであれば、私はどうにか出来ると思うのだが。

 何も思いつかないと云う事が、これほど辛いのは初めてだった。

 この件に関して、私は全くの無力である。



 その日はもう会社も休み、一日中悩んだ。

 私の秘密を知っていたのは、おそらく両親だけだ。しかしもうどちらも居ない。

 手紙やアルバムなども残されていないし、手がかりはない。

 この状況でどうするべきか。どうすればいいのか。

 私はずっと考え、そして思い出した。昔の私を知るのは、何も両親だけではない。叔父、叔母、祖父、

祖母、或いは懇意(こんい)にしていた隣人。その中の誰でもいい、きっと誰かは居るはず。両親の友人

でもいい、きっと私を知る誰かはまだ生きているだろう。

 それに両親がこの人皮を作った訳でなければ、製作者が居る。きっとどこかに居るはずだ。

 とにかく可能性はある。可能性がある限り、せめて確認だけでもしておきたい。絶望するにはまだ早過

ぎる。

 だが両親も私と同じく人付き合いの良い方ではなく。記憶にある限り、そんな深い付き合いをした人物

は居なかったように思う。

 いくら思い出しても、それなりの付き合いをしていた人、そういう人しか思い浮かばない。

 祖父や祖母もそういえば見た事が無い。両親の葬式にも来なかったような気がする。とすれば縁を切っ

ていたのか、それとも祖父母達もすでに他界しているのか。

 よくよく考えてみると、私は私の親類を良く知らない。まるで何処かからこの世界に放り込まれたかの

ように、血縁やこの世界との繋がりがとても薄いように思う。

 私はもう一人しか居ないのだろうか。上辺だけの付き合い、そういう人しか残っていないのだろうか。

いや、逆か。両親、そして私が、誰とも上辺の付き合いしかしてこなかったのかもしれない。

 何だか昔の事がぼんやりしてはっきりしない。これでは深い付き合いの人物など、どうやっても探し当

てられないだろう。私には同僚は居ても、友人一人さえ居ないのかもしれない。

 そんな事に今気付いた。

「今更こんな事に気付くなんて・・・・」

 深い悲しみが私を襲う。

 今まで生きてきて、私はこの世界と繋がる誰も得ていないのである。これほどの悲しみ、これほどの疎

外感が、他にあるだろうか。

 いや、今はそんな事を考えている場合ではない。そうだ、悲しむ前に、私を人間であらせる為の重大な

問題を片付けなければならない。

 しっかりしろ。繋がりなら、これからゆっくり作る事も出来るじゃないか。

 焦るな、逃避するな、立ち向かえ、立ち向かえ。

「そうだ!」

 憂鬱な状態が治まったからだろうか、私の脳に一人の顔が浮かび上がった。そうだ、確か両親の葬式の

時、一人だけ、一人だけ親戚に会った事がある。

 そう、あの人は確か、父の兄だ。



 私は会社から強引に長期休暇を貰い、記憶を頼りに実家のあったはずの街へと戻って来た。

 街並みは随分変わっているが、道、雰囲気、そういったものに懐かしさを感じる。見かけは変わっても、

不思議と変わっていない何かはあるのだ。私は確かにここに居た。ここには私の記憶という存在の証明が

在る。これほど嬉しい事はない。

 いっそ会社を辞め、ここに戻ってこようかとすら考えた。上司とも喧嘩(けんか)した事だし、どの道

帰っても居心地が悪い事になるだろう。それならいっそ辞めて引っ越してしまった方が良いかもしれない。

 そうだ、そうしよう。蓄えも多少はあるから、暫くは困らない。剥ける不安を抱えて仕事をするよりは、

いっそ辞めてしまった方がすっきりする。

 後は自宅でできる仕事でも探せば、安心して生きていけるだろう。

 まあ、まだ時間はある。またゆっくり考えるとしよう。ともかく今は探さなければならない。

 皮膚が剥ける不安だけは、晴らさなければならない。

 葬式の時に一度会ったきりの伯父だが、その時に名刺をくれていた。困った時は連絡しなさいと、お決

まりの台詞を付けて。

 私はまず電話してみたが、名刺に書いてあった電話番号は現在使用されていなかった。伯父も引っ越し

たか、転職したのかもしれない。わざわざ悪戯の為に名刺を渡さないだろうし、疑う意味はない。ここに

は、確かに伯父が居たのだ。今は居ないかもしれないが。

 住所は驚いた事に、私の実家のあったこの街である。これだけ近くに居たのに、葬式まで一度も会わな

かったの事が不思議だが。案外そういうものかも知れない。いつでも行けると思うからこそ、いつも行か

ない。これはありえる話だ。

 それに私の居ない所で会っていたのかもしれない。別に子供連れで会う必要もないのだ。

 引越しの通知がこなかったのも、私が引越し先を教えていなかったからだ。住所を知らない以上、助け

ようも、知らせようもない。

 迂闊(うかつ)だった。私は今まで何を考えて生きて来たのだろう。歳だけは取ったが、まるで成長し

ていない。これでは歳を得ただけ損ではないか。

 何故今まで唯一の血縁だろう伯父の存在を忘れていたのか。

 いや、そんな事はいい。とにかく伯父の行く先を掴まなければならない。

 とにかく全ては会ってからだ。これからは仲良くやれる。そのはずだ。



 伯父が居たはずの場所は、小奇麗な喫茶店に変わっていた。

 以前の景色を知らないので、変わっていたも何もないと思うが。流石に喫茶店に寝泊りする人は居ない

だろうから、多分変わっていると思う。

 伯父が店をやっていた記憶もないし。名刺にはそんな肩書きは付いていない。

 一応入って話を聞いてみたが、最近建てた店で、その前の事は良く知らないそうだ。まあ、前の住人の

事を知っている方が、おかしいといえばおかしい。普通は大して気に留めないだろうから、これは仕方の

ない事だった。

 代わりにこの土地を買った不動産を紹介されたから、そちらへ向う事にする。

 手掛かりが消えなくて良かった。親切な人が居てくれて良かった。



 そこは四角い箱をガラス張りにしたような、何処にでもある小さな不動産屋だった。

 家賃やらが書かれた紙が張り出され、独特の風景を作っている。誰が見ても不動産屋だ。それ以外の何

者でもない。それ以外の何かであってはいけない。そういう建物である。

「いらっしゃいませ」

 この土地の人間は皆親切で愛想が良いのか。喫茶店の時もそうだったが、細かに応対してくれる。

 客でない私を丁寧に扱ってくれ、伯父の現住所まで教えてくれた。どうやら伯父の同級生だったらしく、

昔から懇意にしているらしい。

 私の事も少し聞いた事があるらしく。住所を教えてくれたのもその為なのだろう。もしかしたら私が訪

ねてくるような事があったら、親切にしてやってくれなどと言ってくれていたのかもしれない。

 私は心で伯父に礼をし。不動産屋に礼を言ってそこを出、教えられた住所へと向った。

 いよいよ会える。これで解決するはずだ。

 私は多少浮かれていた。



 驚いた事に、伯父は今の私の住んでいる街に引っ越していた。

 では伯父は私の引越し先を知っていたのか、と言えば、まあ、偶然だろう。実家のあった近辺で大きな

街といえばここくらいしかない。仕事の関係であるにしても、何か別の理由であるにしても、引っ越すと

すればここになる可能性が高い。

 私が新しい家を求め、自然にこの街に辿り着いたのと同じく、伯父も自然にこの街に来たのだろう。

 大体私を心配で追ってきたのであれば、私に連絡しない訳がない。それを隠している意味もないし、偶

然としか考えようがないではないか。

 私は偶然に感謝して、一度私の家に戻ってから、改めて伯父の家へ向った。

 汗もかいていたし、服装も汚れている。久しぶりに会い、しかも世話になろうというのだから、せめて

格好だけは何とかしておかないと。

 同じ街とはいえ、伯父の家はかなり離れていた。これでは偶然出会うような事もなかった訳である。隣

りに引っ越してくるような偶然なら面白かったのだが、現実にはそこまでの偶然は期待できないと云う事

だろう。

 私は見慣れた街の見知らぬ道を通り、伯父の元へ向った。



 伯父の家は大きくも小さくもなく、丁度伯父が以前に住んでいただろう家と似たような大きさだった。

 喫茶店に姿を変えていた為、伯父が元住んでいた家がどんなものだったのかは解らないが。伯父はこう

いう感じの家が好きなのだろう。まったく違う場所を好む人もいれば、同じような場所を好む人もいる。

 私は玄関に立ち、扉を叩こうとした。

 だがそこでふと思う。

 私は伯父が居るという事を思い出し、その喜びに従ってここまで来た。伯父が唯一私を助けてくれる存

在だと思い、私はここに来たのである。

 しかしよくよく考えてみると、伯父も何も知らない可能性の方が高い。

 父の兄といっても、何でも知っていると云う方がおかしな話だ。もし父が私と同じような存在であった

ら、それは何か聞いていたり、知っていたりするかもしれないが。もし母の方がそうであったら、或いは

両親ともにそうでなかったとしたら、私がこんな事になっているなんて、想像もしていないに違いない。

 誰が思うだろう。弟の息子が、人の皮を被った虫であったなどと。誰がそんな事を考えるだろうか。

 それとも私が知らないだけで、ほとんどの人間はこうであるのか。いやいや、そんな事はない。それな

ら私も初めから認識していただろう。隠す必要も無い。

 誰も居ない、他に誰も居ない異常な事だからこそ、両親は私自身にも内緒にし、出来れば知らないまま

一生を終える事を祈って、私を育ててくれた。

 そう考えるのが、一番自然である。

 嬉しさのあまりここまで来たが、伯父が助けになるのだろうか。知っていてくれれば良いが、もし知ら

なければ、自分が虫などと話す私は、明らかに異常者と思われ、病院にでも入れられてしまうだろう。

 証拠を見せようと皮を剥げば、間違いなく化け物扱いされ、酷い目に遭わされる。

 知っている人物だけに、騙されたという思いが浮び、余計に腹が立つかもしれない。

 つまり私は、こんな所まで危険を得る為に来たと云う事になる。

 急激に恐怖が膨らみ、ぞっとした空気が背筋を昇った。

 馬鹿な事を考えたものだ。早く帰ろう。

 我に返った私は、そそくさと伯父宅を後にし、自宅へと引き返したのだった。



 休暇はまだ残っている。だから心を整理する時間はある。しかしそんな時間がどうだというのか。私は

一体何なのだ。どうすればいい。どうすれば安心して生きられる。どうすればこの不安から抜け出せるの

だろう。

 私は落ち着き無く室内を歩き、苛立ちを少しでも発散させられるようどこかで祈りながら、再び悩みの

内に沈んでいた。

 希望は全て費えた。私にさえ私の本性を悟らせなかった両親だ。きっと何も手がかりになるような事は

残していないだろう。そうして自分達だけの中にその秘密を収め、この世から旅立ったのである。

 絶望だ。まさにこれこそが絶望。

 日を経る毎に首のほころびが目立ってきている。初めはでっぱり程度で済んでいたものが、はっきりと

切れ目が現れ、徐々に大きくなっていく。

 髪や服で隠せはするものの、何かの拍子で見られかねない。粘着力というのか、そういうものも衰えて

いるようだ。

 そして痒い。暑い日は特に痒い。

 やはりあの日、あの剥いた日が限界だったのだろう。そして剥いた事で、止めを刺してしまったのだ。

 修繕する方法が見付からない以上、その内まったくくっ付かなくなって、ちょっと動くだけで剥けてし

まうような事になるかもしれない。

 そういえば最近手先や足先も痒くなってきた。これは剥ける前兆なのではないか。必死にかくのを我慢

しているが、もう耐えられない。

 この皮自体に問題が起きてしまった以上、もうどうする事も出来ないのかもしれない。

 一体どうすれば良いのだろう。

 嗚呼、私は一体何なのだ。



 会社や知り合いから何度かかかってきていた電話も、最近めっきり鳴らなくなっている。

 電話、水道代や家賃などは自動で引き落とされるから、使えなくなる心配は無いが、このまま閉じ篭っ

ていたら、その内限界が来る。

 だが最早私は外に出る事が出来ない。

 全て剥けてしまったのだ。いや、正確にいえば、全て剥いてしまった。あの痒みはどうにも耐えられな

い。全身が痒く、着ているだけで発狂しそうだった。

 こうして全てを剥き出しにし、全てを閉ざした室内に居るのは心地良い。何故今まであんな物を被って

いたのかとさえ思う。初めからこうしていれば、余計な悩みを持つ事もなかった。

 初めから中味をさらけ出していれば、何も悩む必要はなかったのだ。

 外には出られない。食料も残り少ない。その内私は死ぬだろう。

 だがそれがどうだと言うのか。虫が人の中で暮す方が無理なのだ。腐るほど居る人の中に、たった一匹

の気味の悪い虫が、どうして生きていられる。

 誰も居ない。もう私を知る者は私独りだけ。

 それとも何処かに居るのだろうか。私と同じく、私ではない私を知らぬまま生き。そして私が辿ったよ

うに、いずれそれを知って破滅に導かれる者が。

 しかし私にはその人に出会えう術も、警告してやる術もない。

 一つの生命として、真実の姿で朽ち果てるのみ。

 私は以前私であった皮の残骸を見ながら、そんな事ばかり考えている。

 そして伯父の事を思う。

 あの伯父は本当に私の伯父なのだろうか。

 それとも私の・・・・・・。

 いや、もう止そう。何であっても同じ事だ。私はもうすぐ死ぬのだから。

 例え私という虫を監視していたとしても、観察して楽しんでいたのだとしても、そんな事に意味は無い。

少なくとも、私にとってはそうだ。

 嗚呼、暗がりはなんて心地いいのだろう。



                                                       了




EXIT