暑鬼退散


 風に粘りが出るような暑き日差し、天は燃え、大地は焦げ、あらゆる物が溶けてしまう、そんな季節。

 夏、それは人と暑鬼との永劫の戦いの時である。

「なんて暑さだ。今年はもう駄目だ。もう駄目だな、これは。えらい事だよ。えらい事だ、これは」

 熱気に佇む一人の男、美砂坂 蓮(ミササカ レン)。富士山山頂より遣わされた、凄腕の暑鬼祓い士。

正直フンドシ一枚で居たい所だが、ここは分別を見せて半袖半ズボンという格好。彼も大人である以上、

気配りをモットーとしている。

 当りは見る限り何処までも暑鬼が蹂躙(じゅうりん)している。ここに着た時からそうだった。いやむ

しろ山を下りる時点で居たかもしれない。だがそれを気にしてはならない。彼もプロである以上、仕事に

私情を挟んではならないのだ。

 例えどれだけ暑くとも、依頼を受けなければ動けない。それが暑鬼祓い士の悲しき定め。ボランティア

でやっているとはいえ、名義上はプロなのだから、勝手な理由で力を使う事は許されないのである。

「ふうむ、気温36℃、湿度72%だと! 何と言う事だ。そりゃあ俺が呼ばれるはずだ。見ろ、不快指

数が91もありやがる。何と言う暑気、まるで今にも身体中が汗疹になりそうだぜ。というか、もう引っ

越せよ、お前ら」

 こんな所に住むのが間違っているといくら叫んでも、聞いてくれる者はいない。それもまた、暑鬼祓い

士の悲しき定め。常人に暑鬼が見えるはずもなく、社会的に一切認知されていない以上、暑鬼祓い士の立

場など底辺にも及ばない。

 大体いくら働いても儲けは無しで、しかもしこたま待遇の悪いというこの職種を選んだのか、蓮はいつ

も不可解になる。何故選んだのか、その記憶も定かではない。いつの間にかやっていた。ある種の呪いで

はないかとも思うが、それを口にする勇気は無い。

 暑鬼祓い士の立場は厳しく。財政はもっと厳しい。それでも運営するとなれば、もう鉄の掟しかないと

いう訳だ。戒律で縛りつけ、有無を言わさず働かせる。それが富士連(富士環境組合連合会)のやり方で

ある。

 逆らう事は許されない。もし逆らえば、辛うじて経費で与えられている自転車を剥奪され、徒歩で移動

しなければならなくなる。真夏に徒歩は、もう死ねと言われているようなものだ。それだけは勘弁して欲

しい。

「ふう、駄目だ。これ以上余計な体力を使うと、流石の俺も・・・・。この暑気はただもんじゃない。た

だ居るだけでこれ程に水分を消費するとは、また公園の水道水に頼らねばならないのか。錆臭い水は勘弁

して欲しいぜ、まったく」

 歴代最高記録更新中の今、誰に後ろ指をさされようと、誰に白い目で見られようと。そんな事の前に、

白い目を剥き出して倒れてしまいそうな今、富士連への恨みは忘れなければならない。

 これ以上汗をかく事は勘弁だ。

 むしろこのまま逃げたい気分になるが、海水パンツを忘れた以上、海へ逃亡し、海水連(海水衛生協議

連盟)の世話になる訳にもいかない。

 海水パンツを忘れた事が悔まれる。こんな所で暑鬼祓いなんぞやっているよりは、砂浜のゴミ拾いでも

やっていた方がましなはずなのに。何故、何故いつも忘れるのだろう。こつこつ金を貯め、夜なべして作

った、手作りのパンツだというのに。

 もしかすればこれも、例の呪いなのだろうか。そういえばうっかり記憶が無い事も多い。一体何が本当

で何が気のせいなのか。それともうっかりなのかどじなのか、どちらをどう区別するべきかも、今の蓮に

は全く解らない。

 しかし何という暑さか。

 昼を過ぎ、もう三時も回って気温も下り坂なはずなのに、日差しも温度も衰えを見せない。

 いくらなんでも、この暑気は只事ではなかった。

 とんでもない暑鬼が居座っていると見える。

「このままでは不快指数が100に達しちまうぞ。まさか、まさか13年前の再来なのか!? あいつが

再びやってくるのか・・・・・」

 などとちょっとひんやりするような事を考えてみても、嘘だと解っているので、まったく体感温度は変

わらない。

 蓮の中の個人的な不快指数だけが上がっていく。

「仕方ない。真面目にやって、とっとと終わらせよう」

 蓮は独特の印を全身を使ってヨガのように決め、驚くべき速さでその印を変化させていく。

 馬、羊、猿、雉(きじ)、雪だるまに朝顔にお弁当の梅干、印を組めば組むほど、その効果は増大する。

そのポーズのあまりの気持悪さが、人に暑さを忘れさせるのである。

「ヒヤヒヤヒヤーリ、ヒヤヒヤーノ、ヒヤリーネ、ヒヤリーホ、ヒヤリノビッチノ、ヒヤヒヤヒヤリーネ、

ヒヤヒヤヒヤリーィッ、ヌッ」

 滝のように汗を流しながら、必死で呪を唱えながら、己が内に発する馬鹿馬鹿しさを、懸命に抑える。

「ヒヤリーヌ、ヒヤリーヌ、ヒヤコラビッチーーィヌッノ、ネッノ、ヌッノ、ヌッ」

 暑鬼が笑っているのが解る。

 暑い中馬鹿をやっている為に、幻覚を見てしまったのではない。確かに奴らは存在する。存在しなけれ

ば、それこそ蓮は一体何をやっているというのか、救いようが無いじゃないか。

 憐れだと思うなら、そんな目で見ないでやって欲しい。

 彼は、蓮は、懸命に使命を全うしているのだから。暑鬼を笑わせ、すっきり爽やかにさせる。それこそ

が暑鬼祓い士の仕事。

 何、怨霊退散と滅するのではないかと、そんな風に言うのか、馬鹿馬鹿しい。そんな事が出来れば、誰

も苦労しないし、夏を滅ぼし、当の昔に四季は三季になっていただろう。

 何をどうしようと、結局自然の摂理には敵わないし。それを変える事は、人間にとっても不幸しか招か

ないのである。

 故に暑鬼祓い士は、悲しくもこうするより他に無い。やるしかないのだ。不退転の、涙ぐましい決意、

一体誰が、他の誰にこんな事が出来るだろうか。

 恥も外聞もなく善意を尽くす、何という立派な、例えとてもそうは見えなくても、立派な仕事だろう。

 その必要性があるかどうかは、置いておいて。

「くッ、手強いぜ。今日の暑鬼は一味違う。俺の汗も一味違う。やばい、汗すらかかなくなってきた。あ

あ、もう駄目だ。これだともう、後はボクサーにでもなるしかないな」

 どれほど気持悪い印を組んでいても、明瞭なまでにはっきりと言葉を喋る事が出来る。これこそが暑鬼

祓い士の修行の賜物であり、その気持悪さ加減は筆舌に尽くし難い。いや、むしろ語りたくない気持悪さ

だと言える。

「さあ笑え、俺を笑え、暑鬼どもめ。笑い転げてさっさと去るがいい。お前らのせいで充分人間はおかし

くなっているのだから、もう良いだろう。これ以上おかしくなるともうやばいぞ。何がやばいって、これ

以上はもうどうにもならないから、来年来ても、とっくに皆おかしくなってて、お前らの仕事が無くなる

ぞ。さあ、帰れ。もうとっとと帰れ。というかもう、皆さっさと引っ越せ。富士山に引っ越せ。そうすれ

ば俺の苦労は無くなるんだ。氷でも抱いて、とっとと寝ろ、馬鹿野郎」

 流石の蓮もあまりの暑気に耐え切れず、心に深い傷を負ってしまったようである。

 このまま放置すれば、明日のニュースになりかねない。しかしそれでも蓮はやるしかない。むしろここ

にこんなにおかしい奴が居るのだと、それを知らしめる事が、彼の使命なのだから。

 だから別に移動する必要はないのだ。どこでも良いから、暑鬼祓い術を行なえば、自然と人が集まり、

笑われる。暑鬼にも笑われる。そうすれば多分報道される。

 それでも現地へ向わせるのは、その途上の苦労によって、暑鬼祓い士の理性を破壊し、極限状態とする

為に他ならない。

 故に暑鬼祓い士は一回限りの使い捨てである。いかに蓮とても、二度の使用には耐えられない。あれ、

凄腕じゃなかったの、とかいう話は置いておいて、真に暑鬼祓い士とは悲しき職業である。

 これがなければ秋を迎えられないというのに、その献身は永遠に理解される事が無い。

 暑鬼祓い士。嗚呼、暑鬼祓い士よ、永遠に。

「ヒヤヒヤ、ヒヤリ、って火槍かよ、暑いじゃねえか、あっはははははははははは」

 今日もまた、暑鬼祓い士の尊い犠牲が街を木霊していく。

 おかしくなるならなるで、ここまでいかなくとも、笑い話にでもなる事をすれば良いのに、などと思う

今日この頃。

 人を笑っている人は、じゃあ笑われない生き方をしているのか、という疑問。

 美辞麗句を並べても、やっている事は大して変わらないのではないか、という疑問。

 誰が誰を笑っているのか、笑えるのか。

 誰がおかしくて、誰がおかしくないのか。

 そしてそれの何が悪いのか。

 そんなお話。


                                                           了




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