大衆の中の孤独


 いつも思う、何故自分はこれ程孤独なのだろうかと。

 私は一人ではない。いや、この世界のどこに居ようと、大抵は誰かの息吹を感じてしまう。車の音、ざ

わめく人の声、靴音、よく解らない物音、建築物、火、散かした跡。そんな物は世界中の何処にでもある。

嫌になるくらい、人間は何処にでも存在している。

 だからこの世界で、寂しさや孤独を感じる理由など、何一つ無いのである。

 世界などと途方も無い事を想像しなくても、今だって前を見れば誰かが歩いている。横を見ても誰かが

歩いている。人が座っている。人が立っている。人が話している。人が何かをしている。一目瞭然、何処

を見ても人の群れ、独りで居られると考える方がおかしいのだ。

 独り。それは不可能だ。今この星で、たった独りになる事の方に無理がある。

 夜闇も無いのと同じ。昼も夜も変わらず人が見ている。人が生きている。人が騒いでいる。人はいつで

も何処にでも現れる。まるで空気のようだ。この世界を覆う大気のように、人はありふれた物になってい

て、孤独感を味わう隙間も無い。

 しかしだ。果たしてこの中の何人が私を知っているだろう。私を個人として認識しているだろうか。

 通りすがり、今目があったあの人でさえ、私をいつまで覚えているか疑問だ。いや、ひょっとすると初

めから覚えていない可能性すらある。私など覚える必要も無い、名も無き通行人であると、私がその人に

対し思ったのと同様、考えてもおかしくはないのだ。

 孤独を紛らわす為に誰もが着ている格好をし、髪型をし、歩き方をし、人と同じ事で少しでも寂しくな

いようにしようとしたが、そうすればする程、不思議と私はありふれた全体の一人に益々近付いてしまう。

 誰かに近付こうとしてした事が、結局は私を見知らぬ一人にさせていく。個性は消え、私と云う存在を

も意味の無いモノへと貶めてしまうのか。

 せめて少しでも人の関心を得ようと手を上げてみたが、来るのはひたすらに軽蔑の視線。耐え切れず手

を下げ、足早にその場を去る。

 そう言う事ではない。孤独ではないというのは、目立つとか注目されるとか、そう言う事ではないのだ。

 突飛な事をしても一時記憶に映るだけで、決して印象に残らない。

 思い出として思い出される事はあるかもしれないが、ただ公衆の面前で無意味に手を上げたおかしな人

間、として記憶される事には、何の重要性も無いのだ。

 記憶されると云う事と、印象に残ると云う事は全く違う。人は人が考えているよりも遥かに記憶力が良

いらしいが、重要なのはそう言う事ではない。

 無意識に覚えられるかどうかではなく、意識して覚えてもらえたかが重要なのだ。私と云う個人を、私

として認識してもらえたかが問題なのである。覚えて欲しいのは、私の服装でも、行動でも、言葉でもな

い、私自身なのである。

 だがしかし、だがしかしだ、そのように上手く印象に残ったからといってどうなるというのだろう。本

当にそれで私は独りではないのか、寂しさが紛れているのか。

 いや、きっと紛れはしまい。見知らぬ誰かにいつも頭の中で想われているという光栄に与ったとしても、

そんな事に何の意味があるというのか。私は結局、それを知らぬまま、独り寂しさを味わうだけだ。

 ならばどうすればいい。

 友達でも作れば良いのか。

 しかし友達という言葉の、何と空虚な事だろう。今では本当の友達とか、本当の親友とか、馬鹿な言葉

まで生まれている。友達に嘘も本当もあるものか。嘘ならば初めから友達ではない。そんなものは友達で

はないのだ。嘘だの本当だの言う時点で間違っている。友達ではない。

 では友達とは何か。自分を見知っている事か。朝気軽に挨拶できる事か。それとも一緒に遊びに行ける

事なのか。

 どれも違う。そんなものではない。そういう上っ面な関係などはただの知り合い、見知っているだけに

過ぎない。知り合いが多かろうと少なかろうと、この孤独には何の影響も無いのだ。せいぜい自分を慰め

るに使うだけ。しかしそれもすぐに虚しくなる。本当の意味で知り合えている知り合いなどは、この世に

存在しないのだから。

 職場の同僚も、学校の同級生も、家族も、何となく違う。薄い、薄い関係である。

 だがその薄い関係もまた、同じ私が望んできた事なのだ。望んだ結果なのだから、おかしなものだ。

 私が私という意志のままに動く為には、誰かにまとわりつかれては困る。そのような存在は鬱陶しい。

私の都合の良い以上に関わってくる存在は、全く必要では無い。むしろ害悪である。そんな者がいたら、

私が私で居られなくなる。

 だから薄めた。極力薄めた。上っ面の関係で、上っ面のまま満足し、上っ面のまま歳を経た。

 その結果の関係だ。ならばこれは望んだ孤独なのか。

 なら私は望むまま、望みのままに生きて来た。そして望んでいた孤独を手に入れた。自分を手に入れた。

だのに何故、今こんなにも寂しいのだろう。

 そうだ。よく考えてみれば、全て私の望んだ道ではないか。希薄で上っ面な関係、じめじめせず、から

っと晴れ、何事にも執着なく、華麗に器用に上手く生きていく。

 私は望むままの人生を生き、私が望んだ人間になった。それは間違いない事実。

 それなのにこんな筈ではなかったと思うのは何故だろう。

 何故こんなにも寂しいのか。望んだ寂しさが、計算とは違ったとでもいうのか。

 誰にも干渉されず、一人で一人前に生きるという私が、何故こんなにも空虚なのだ。

 何故こんなにも哀れに感じる。

 私は何故私をこんなに哀れんでいるのだろう。私の生き方は、私の望みのままだったというのに。

 人を否定し、自らを肯定し、他人を排除し、ただただ自分の為に生きた。そして独り。それは当然の、

望む先の、まさに理想の状態。

 誰にも気にされず、誰を気にかける必要もない。

 私はただ独りであり、独りであるが故に誰にも邪魔される事はない。完全なる自由と云う奴だ。素晴ら

しい人生じゃあないか。

 例えこの道行く人の誰一人私を本当の意味で記憶しないとしても。

 例えこの道行く人が誰一人として私を私という個人と見ないとしても。

 それは全て私が望んだ事ではないか。全てを排除した私が、誰かに受け容れられる筈がない。全てを拒

否した私が、誰かに望まれる訳がない。誰も理解しなかった私が、誰かに理解される訳はないのである。

 私が私を優先したように、他人も自分を優先する権利がある。

 例えそんな権利が無かったとしても、少なくとも私がその人に文句を言える筋合は無い。

 私が私である為に捨て去った全てのモノは、決して私に与えられる事のない、失われた、いや自ら捨て

たものなのだ。自分で捨てたのだから、今私が持っている筈がない。

 だから無いと言って寂しがる事はないのだ。何故ならそれらは必要ではないのだから。

 だとすれば今思っているこの寂しさこそ捨てるべきモノであり、私は孤独を感じるべきではなく、今の

状態を喜ぶべきなのだ。空虚などまやかしである。私は完全な独り、つまりは完全な私。だから虚しい筈

がない。私は完全なのだ。

 間違いは無い。決して間違いは無い。

 今居る状態は、私が望んだ理想の私。

 なら、この寂しさはなんだ。この胸奥からこみ上げてくる、止まらない涙のような気持ちは何だ。私は

決してこの気持ちを否定する事が出来ない。どういう理屈を付けても、この気持は止まらない。虚しい事

を虚しくないと言えるとしても、そう思う事は不可能なのだ。

 この虚しさが、全てを覆す。私は決して満たされていないと嘲笑う。

 自分の心が自分を笑う。そんな時に人はどうすれば良いのだろう。自分を自分がどう言い包めれば良い

のだ。説得なんか出来るのか、誰でもない自分自身を。誤魔化す事なんか、出来る訳がない。

 それが本質の自分、心であるならば、それが真実私の声であるならば、否定する事はできない。

 全てを失くした私は、酷く虚しい。酷く悲しい。酷く空虚だ。

 独りである強さとは、このような苦しみしか味あわせてくれないのか。

 あれ程鬱陶しかったモノが、何故今懐かしく、愛おしく想えるのだろう。

 薄い思い出達が、今私の心に穴を空ける、いやその思い出そのものが穴なのだ。

 望むままの自分が、理想であった自分が、今私の中に空虚な存在として、絶望を与えている。

 確信した。いやずっと前から知っていた。私は間違っているのだ。間違えたのだ、私自ら間違えたのだ。

 では、私が私である為に、必要なもの、不必要なものとは、結局何だったのだろう。

 私が望むモノは、私が捨て去ったモノであったのか。私が見間違えていたのか。

 もしその答えが解れば、私も少しは満たされるかもしれないのに。

 解らない。解らないまま哀しみ、虚しさに身を委ねて生きている。

 だがこの悲しみですら、もう何処へか行ってしまうようである。

 慣れてしまえば、後は穴が残るだけ。

 私の中には最早何も無い。何も無いガランドウ。ガランドウだから、私は虚しかったのだろう。何を入

れても虚しいのは、私が空っぽだからだ。全てを捨て去ったガランドウだからだ。

 今更何を詰め込んでも穴は埋まらない。私が何をしようとも、私は世界で独りである。それを望んだの

だから、それを私は祝福すべきなのだろう。

 こうして道行く人達も、私と同じに違いない。

 自分と同じガランドウを見たくなく、一生懸命に目を逸らしているのだ。印象に残すまいと必死に抵抗

しているのだ。鏡に映る自分を必死に否定するように、私達はガランドウの同類から目を逸らすのである。

 ただでさい何も無いガランドウが、そうやって現実の全てを否定しているのだから、孤独なのは当然だ

ろう。今日もまたそれを否定し、ガランドウが濃くなっていく。

 中身の無いハリボテが、今日も貴方の街を行く。

 私は貴方、貴方は私。結局私らしい私とは、誰でもなく誰でもある、そんな不気味なハリボテに過ぎな

いのかもしれない。

 届かぬ想いは満たされぬ。

 いつまでも、永遠に。

 ガランドウはガランドウのままなのだ。




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