対話1


 この世のあらゆる存在は波から出来ている。

 可能性の波紋である。

 可能性のゆらぎである。

 しかし現実に在るのはその中の一体であり、切り取られた、認識された世界である。

 我々の生きている世界は可能性で満ちている。しかし誰もが選び取るのはその中の一つ。

 可能性だけの世界などは、いや可能性だけの現在などは存在せず。

 過去も現在もそれぞれが選ばれた一つであり、未来は無限に広がるとしても、我々が生きて来た世界は

全て一つである。

 一つでなければ我々は存在出来ないからだ。今存在するという事が、無数の可能性から一つを選び取っ

たという証明となる。

 そして現在の世界とは、各々の意志の集合、選び取った現在の集合とも云える。

 我々は大いなる一つ、全ての可能性から各々が選び取った答え、その総数の結果の世界で生きている。

 故にいつも一つの世界である。決められている訳でも、不確かでもない。自らが定めた、各々が定めた

世界。

 不確かな可能性の世界といえるのは、唯一つ、未来だけである。

 現在とはその認識された、選び取られた世界の、最も新しい状況であり、時間であるとも云える。

 そして人は連続して常に現在を選び取り続けている。

 故にそれを調べようとすれば、全てただ一点として見える。

 しかしそれを予測しようと思えば、つまりは確認する前では可能性の範囲としてしかそれを認識出来ない。

 何故ならば、その確認するという行為もまた、未来の一つであるからだ。

 人は過ぎ去った過去でしか、それを想定する事は出来ない。過去の中でしか通用しない法則、それしか

使えないのである。

 世界の法が不確かなのではなく。未来を覗く、計算しようとする事自体が不可能なのである。

 無限に広がる世界を、唯一つに定める事は、それが無限であるが故に、不可能なのだ。

 故に世界は不確かであると錯覚する。しかし実際に覗けば、やはり常に一つである。我々にとっての現

在や過去は唯一つなのだから。

 一つしか感じ取れないのだから。

 どちらも間違いはなく、食い違ってもいない。それがそうであるからには、やはりそう云う事なのだ。

あるがままに考えれば、世界はそういう風に成り立つと考えられる。

 そこに矛盾は無い。矛盾があるのは人の思考の中だけである。

 可能性としてのゆらぎ、波が存在し。現象としての、我々の現在、過去としての一点が存在する。

 そう云う事と考えられる。


 そもそも我々は粒という一個の物なのだろうか。

 物質は本当に一点の粒なのだろうか。

 もしかすれば、物質そのものが波ではなかろうか。可能性の収縮、波からなる一点ではなかろうか。

 この世の全ての物質は、可能性という波、あらゆる限界内での可能性からなる波、その集合ではないのか。

 だからこそ可能性というものが在り、物質は物質とも干渉しあえるのではないか。

 心と心が干渉し合う事もまた、そう考えなければ不可解である。

 人は場の雰囲気とか、視線とか、そういう目に見えない、物質とも言えない物を感じ取る事が出来る。

 それは人が物体ではなく、その物体を形作る波を感じているからではないのか。

 触るという事も物体として触れるのではなく、波として広がり、他者となる別の波に干渉する。そうい

う事ではなかろうか。

 そしてそれこそが相対性という事なのではないか。

 見る、見られる、意識する意識されるという関係は、そういう事ではないのだろうか。

 意志と意志が時に反発し、時に同化したように思えるのも、集合した意志が強大な力として膨れ上がる

のも、全ては波の性質と云えまいか。

 勢い、流れ、それもまた波である。

 いや、人だけではない。全てが波として初めて存在を場へと認識させられるのではないだろうか。

 だからこそそこに在るだけで、お互いに干渉し合ってしまうのではないか。

 物体ではなく、様々な感覚を感じてしまうのではないか。

 そこに在るだけで干渉しあう。それは常に何かを発し合っているからとしか思えない。

 海も空も人も、物体も空間も創造の中でさえ、全ては波としてゆらぎを持ち、限界内の可能性を形作る。

それが物質としてこの世に存在している。

 そして結果として選ばれた一点が、そのものの形としていつも存在している。

 個でも現象でもなく、いや個であり現象でもある。固体であり波である。

 どちらかではなく、どちらでもある。しかし正確にいえばどちらでもない。

 つまりは粒と波という考え方そのものが、そもそもの間違いなのかもしれない。

 物体も現象も同じではなかろうか。

 波はそのエネルギーある限り、無限に広がる現象だが。もしその波にある種の限界を、限定条件を作ら

れれば、それはやはりその範囲内へ、個として固定されるのではないか。

 その中でのみ無限に広がる。しかし逆に云えば、波もその中でなら固定される。

 勿論止まっている訳では無いが、その限定された場に固定されれば、それはそこに形作ると云う事と、

或いは同義ではなかろうか。

 波は確かに物質ではない、現象である。

 しかし共に我らが波であるならば、お互いに触れ、干渉する事は可能となる。

 物質がそもそも波であるならば、触れる事も可能である。

 波同士であれば、干渉出来る事に変りない。


 例えば広場に今一人の人間が立っている。

 それは彼が或いは彼女が選び取った現在である。それはその一点に収縮された波と考えられる。

 あらゆる可能性から収縮された、全ての可能性が結果として集まった、彼の現在と言う形である。

 しかし彼は必ずしもそこへ居る必要があった訳ではない。

 例えばその数歩横であってもよく、数十歩前であってもいい。

 時間をさかのぼればさかのぼる程、その可能性としての範囲は大きくなり、時間を短い過去へ限定すれ

ばするほど小さくなる。

 十分前からならばその広場全体のどこにでも行ける。しかし十分では人は千キロも先へは行けまい。

 それは逆にいえばその広場内が十分という限定された中での、彼の限界という事になる。

 ならば更にその時間を小さくし、瞬間瞬間の選び取る現在にまでしぼれば、それは限りなく一つの答え

へと収縮されるのではないだろうか。

 更にそこへ時間的だけでなく、他の様々な限定条件が加味されれば、それは益々一つへと近付く。

 人間でなくとも、自ずからその物体には限界がある。現象にも限界がある。

 とすればその限界内を総じて一点と見る事が出来ないだろうか。

 波が一点へと粒へと収縮されるのである。少なくとも、その瞬間だけならば、切り取ったように選び取

られたその一点が現れるのではないか。


 可能か、不可能か。

 その限界範囲内であれば、その物質は無限の可能性を持ち、確かに測定する事は出来ない。しかしその

可能性点の中に居る事だけは確かとなる。

 可能性は測定出来るが、未来の結果は測定出来ない。

 しかし可能性を阻めれば、或いは点にまで収縮させる事が出来るのかもしれない。

 時間による限定だけではなく、何かしらの法則と現象、他からの干渉によって、もっとそれは限定出来

るはずではある。

 しかしその限定条件、それはその各々によって全く違うはずだ。

 となれば絶対的な法則性など、ありうるはずがない、生み出せるはずがないではないか。

 無限の可能性など、どうやって測定すれば良いというのか。

 また測定した所で意味もない。その答えもまた無限なのだから。

 その無限の答えを、有限である一つに当て嵌める事が、果たして出来るのだろうか。

 世界が一つの不確かな可能性で決められているのではなく、各々の決める複数の現在が不確かなのだ。

 皆が選び取るが故に、絶対の法則など定められない。それこそが絶対的法則ではないのか。

 世界は誰かが観測した時に決まるのではなく、それぞれが自ら決めている。

 だからこそ他者の思惑という測定不能なものが関わり、自分からは他者も含めた総計の世界を、計る事

が出来ないと云う事となる。

 しかし測定した時は確かに一点となる。当たり前の事だ。我々は一つの世界しか認識出来ない、関われ

ない。

 我々が選んだ世界でしか、我々は存在する事も、感じ取る事も出来ないのである。

 これは確かに矛盾ではあるまい。

 ならばやはりそこに到達するまでの法則など、どうやっても出来るはずがない。

 今までこの星の生命無生命問わず、意思ある存在達が決定してきた事項を、どうすれば一つの法則へと

組み込む事が出来るのだろう。

 絶対的な事は、我々が我々の選び取った一点でしか存在も干渉も出来ないと云う事である。

 未来を定める事は出来ない。

 定められるとすれば、ある限定条件下での、可能性の範囲だけである。

 それが人の限界である。

 世界の全てを決めている法則などは、決して定められない。決して、いつまでも。


 しかし世界は、少なくとも我々が今居る自分の世界は、やはりたった一つの絶対的法則、いや絶対的決

定によって定められているではないか。

 ならばそれを定める事は可能ではなかろうか。

 確かに未来まで支配する絶対不変の法則は定められまい。

 しかし過去と現在だけを見て、それから定めるのであれば、それは出来るのではなかろうか。

 例え、大きく見れば大した意味がないとしても。

 現に我々はある状況下の限定された中だけであるならば、法則を定められているのだから。

 そしてそれは確かに有用だったのだ。

 これもまた有用でないと、誰が言えよう。




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