対話2


 天才というモノがある。

 これは才能の中でも特殊なもので、血族の中に脈々と受け継がれる類のものではない。

 常にその血筋の中のある一点にふっと現れ、それ以後は消えていく。稀に続く事も在るが、それは奇跡

以外の何者でもないと思われる。

 遺伝しない才能、突如現れる才能、だからこそ天から与えられた才、天才と呼ばれている。

 それはおそらく両親の遺伝子が交じり合う過程で、意図されずまったく偶発的に発生したモノで。云わ

ば突然変異した遺伝子が、たまたま良い方へ傾いた、そう解釈されても良いと思える。

 天才の子が必ずしも、いやほぼ天才とは無縁である事を考えれば、奇跡的な偶然、奇跡的なバランスの

上に成り立っていると考えて、差し障り無いだろう。

 天才である親を多少贔屓目に見たとしても、やはり子へはほとんど受け継がれないと見ていい。

 そもそも才能自体が遺伝するモノなのか。これもまた疑問と思える。

 人間の持つ遺伝子は、その数に多少の差異はあるかもしれないが、おそらく限度数は一定だろう。

 ある人は一万、ある人は二万、そういう風にはなっていないと考えられる。

 例え千代続いた家系だとはいえ、その千代目に千人分の遺伝子が全て詰め込まれているとも思えない。

そこまでの容量はとても無いだろうし、そうする意味があるかどうかも疑問だ。

 となれば、両親から受け継いだ遺伝子が合わさり、子の中でまったく新たな遺伝子が構成されると考え

た方が自然と思える。

 人間を決定付ける情報が大半で、そこに幾許かの個性を付与したモノ、それが遺伝情報なのだろう。

 その名からも解るように、受け継がれるのは間違い無いが、かといって全てが受け継がれる訳でも、ま

ったく同じ遺伝子が宿る訳でもないと思える。

 だとすれば、親に似るとはどう云う事だろう。

 それは遺伝子が、遺伝情報が強いと言う事だろうか。いくら交じり合っても、それだけは変化しない、

そういう遺伝子ならば、それ自体が残る事も考えられる。

 それは変化の無い完成された遺伝子と云えるのかもしれない。

 しかし言い換えれば、変化に応じない、困った遺伝子であるとも云えると思う。

 変化しないと云う事は、退化もしないが、進化もしないと云う事であるのだから。

 完成といえば聴こえは良いが、安定してしまうが故に、それ以上の変化に応じられないと云う事になる。

 それは生物にとって、一体良い事なのか、悪い事なのか。

 答えは解らないが。自分を考えると、よく思う事がある。

 親の悪い所ばかり似ているのではないかと。

 それは極端な物の見方であるとは思う。悪い所は目立つという事もあるだろう。しかしそう思えるのも

また事実。

 目立つが故によく解るのも事実であるだろう。

 もしそれが正しいとすれば。

 両親から受け継いだ遺伝子、それが上手く合致したものが良い部分として受け継がれ。より洗練された、

強化された遺伝子となって子に宿る。

 しかしその変化に応じなかった、或いは応じきれなかった遺伝子、それが悪い部分となって残っている

のではないか。

 親に似る。まったく同じ遺伝子を持って子が誕生する事が無い以上、例え親でさえも、似ているという

事自体がおかしい事とは考えられまいか。

 二つの遺伝子が合わさって尚、前の状態が残っている。それはそう言うことではないのか。

 しかしまたその似ているという受け継ぎがあるからこそ、人は家族を持て、子や孫に対して愛情を抱け

るような気もする。

 お互いに同じ悪い部分を持ってくるからこそ、逆に深く愛せるのではなかろうか。

 そしてまた、同じ悪い部分を見せられるから、親子は良く反発するのではなかろうか。

 だが愛も反発も同じものである。お互いに気にし合うという点において、さほど変わらない。

 愛するから反発する事もあり、反発するから愛する事もある。

 そして結果としては程々の仲へと安定していく。お互いに少しずつ理解を深めていく。

 理解し合う為に、わざと共通の部分、しかも目立つ悪い(人間から見て)部分を残しているのだとも思

える。

 遺伝子も辛辣なまでに合理的で、生命は貪欲である。無意味に残し続けていると考えるのは、間違って

いると思っても、あながち嘘ではないのではないか。

 そう考えれば、わざと似る部分を残しながらも、少しずつ遺伝子は変わっていくのかもしれない。

 それが進歩にしろ、退化にしろ、それはゆっくりと行なわれている。

 人から見れば急激でも、遺伝子から見れば、おそらくは本当にゆっくりとした些細な変化なのではない

かと思う。



 才能というモノを紐解く上で、少しだけ手がかりとなる現象がある。

 それは脳で描いた理想の映像が、自分の体をその理想へと導く、引っ張り上げる現象である。

 解り難く説明し難い現象であるから、そうとしか表現できない。

 ただそう聞けば、おやあれかな、と思い当たる事が、誰でもおありになると思う。

 直感や火事場の馬鹿力にも似ているかもしれない、あの良く解らない力である。

 その時の記憶もまたあやふやであるが、確かに身体が覚えているはず。

 難しいとは思うが、ゆっくりと思い返していただきたい。

 無意識に起き、しかし確実に体験しているあの感覚を。

 良く体が勝手に動いた、と云われるが、そういう現象を想像してもらえれば良いだろうか。

 そしてそれは誰もが一度や二度は体験した事のある、ありふれた、しかし珍しい現象である。

 詳しく書けば。

 まずふとした瞬間に、その力が発動される。これがどういうきっかけで始まるのかは、解らない。

 ともかくそのスイッチが入ると、まず自分が浮き上がったかのような、肉体から抜けてしまったかのよ

うな、現実から隔離されたかのような錯覚を受ける。

 引いた状態とでも云えば良いのか、少しだけ後ろへ下がって自分を見ているような、ふわふわとした感

覚に覆われている。

 それと同時に、或いはそれが起こる前から、体が勝手に動き始める。

 その間一体何が起こってるのか、正確には自分でも解らない。起こった後でも解らない。

 とにかく動いているのは解り、その時思い描いていた理想の結果への動きと、まったく同じ流れ、同じ

動作であった事が解る。

 理想へ現実を引っ張り上げる、無理矢理ではなく自然にその流れに乗せる、そのような感覚だろうか。

 まるで未来予知でもしていたかのように、その理想の結果とまったく同じ動きが出来。同じ動きをした

からには、理想と同じ結果が現実にも現れる事になる。

 成功した動きをそっくり真似ているのだから、それは当たり前である。

 言い換えれば、理想をコピーしたとも言える。

 そして気付いた時は全てが終わっており、いつもの状態へと還っている。

 しかし成功したという実感も、自分がそれをしたという実感も心には無い。

 何故ならば、体が勝手に動き、勝手にそれをしたからだ。

 だから見ていた人に誉められようと、本人はぼんやりとしている。

 ただ自分が確かにやった、いや自分の体がそれをやったということだけは解る。しかし納得出来ないと

いうのか、自分が一番理解出来ないのだろう。

 前述した直感や火事場の馬鹿力と同様、それはどうにも言い様がなく、どうしてあんな事が出来たのか

と問われても、それは本人が一番知りたい事に違いない。

 故に教える事も教わる事も出来ない。

 しかし完全なまでに見事な力。その時人は完全となっている。

 もしかすれば、それを人よりも数多く起こせる者が、天才と呼ばれるのかもしれない。

 それを当たり前のように引き起こせる者が、天才と呼ばれるのだろう。

 ただ云える事は、発動したその時確かに解っている。その行動は必ず成功する、完全な予測、完全な成

功であるのだと。

 人はその時、全てを理解していたのだろう。



 その現象は、理想の結果へと完全に導くその現象は、おそらく、いや確かに脳の力と思える。

 そしてその脳を動かすのは、集中力と経験である。

 今まで無限のように行なってきた自分の行動、他者の行動、様々な現象、それらの経験の中から今の状

況を照らし合わせ、たまたま百%の確立で成功する答えが導き出される。それがその力なのではないか。

 そしてたまたまその行動を完璧に、正確になぞる事が出来る、それが力の正体なのかもしれない。

 それは瞬間を支配する力であり、全てを計算し尽くし、世界をも統べる力である。

 その時、人は時間や空間さえ超越している。

 時が止まったように思える時もあれば、逆に過程が省略されて結果だけが見える場合もある。

 世界が変わった訳ではない。おそらく錯覚でもない。

 しかし見るもの聞くものは変化し、常と違う状態に在る。

 となれば、脳内に映る世界が変わっていたのだろう。

 人の感覚が研ぎ澄まされていたのだろう。

 それを起こすとすれば、やはり集中力が鍵となるのではないか。

 その事にのみ脳の全ての力を注ぐ、それくらいでなければ、おそらく理想の結果に導く事は出来ない。

 だから感覚もあやふやになり、勝手に体が動いたように感じるのだ。

 全ての意識と力をその一点に集中するからこそ、勝手に動いたように感じるのではなかろうか。

 確かに自分が動かしていても、それを感じ取る力すら、全てはその力へと使われていたのだろう。

 つまりは一つだけを思うと云う事が大事なのではないか。

 唯一つだけに、その全ての能力を発揮する。それが出来れば、確かに人間を超えたとすら思える力が出

ても、おかしくはない。

 普段眠っている力を、その瞬間だけでも全て発揮出来たとすれば、普段の何倍もの力が出せたとしても、

まったくおかしくは無いと思える。

 では何故それを人は平素自らの意志で実行出来ないのか。

 それが当たり前のように出来れば、人間は全て超人となれるはずだ。

 自然が合理的な存在であるとすれば、そうなる事の方が当然であるとも思える。

 しかしそれが出来ない。どころか、人は脳のほとんどをいつも眠らせている。

 それは肉体が耐え切れない為だと言われる。

 肉体は全ての精神を、脳の起こす力を、抱えきれないのである。

 その全てを使える程、人間の体は強くは無いと云う事だ。

 だからこそ、その力は瞬間に、しかも人生に数回と言う回数しか現れないのだろう。

 それ以上すれば、肉体の方が崩壊してしまうから。

 惜しむべき事だが、人が生きる為には、眠らせているしかない。



 脳力に肉体が耐えられないとすれば、生物はただその脳の力を少しでも多く引き出せるよう、進化して

きたのか。

 この何億という時間は、ただそれだけに当てられてきたのか。

 いや、生命は初めから脳を持っていた訳ではあるまい。

 いや、生命は初めから脳を持っていたのか。

 いや、この力を使う為に脳というものがあるのか。

 いや、この力こそが脳なのか。

 いや、この力こそが生命なのだろうか。

 何にしても、生命は何かの器とするべく、その肉体を強化させ、或いは退化させてきたと考えられる。

 或いはこの力を肉体に負担をかけずに使えるよう、肉体を進化させてきたのだろうか。

 また或いは、その力を放棄する為に進化したとも考えられる。

 その力がある必要をなくす為に、生命は進化するのか。

 例えば無限に増殖するウイルス、しかしその終わり無い増殖もまた自滅を招く。

 力あるということが、必ずしも生存とは結び付かない。

 だとすれば眠らせる事が必然で、超人的な力は必要ないのだと云っているのだろうか。

 もし放棄すべく進化しているとすれば、才能とはその残り香のようなモノなのかもしれない。

 それは生命が恐れた力か。

 人間にとって、いや生命にとって、必要のない力なのか。

 肉体が越えられない壁であり、生命にとって無意味な力なのか。

 祝福なのだろうか、それとも呪いなのだろうか。

 確かなのは、人が非常に不安定なモノの上に成り立っていると云う事だろう。

 訳の解らないモノの上に成り立ち、訳の解らないモノに振り回されて生きている。

 それは可能性なのか、それとも無駄に足掻いているだけなのか。

 逆にそれこそが行き着く先、全ての生命が目指す場だとしても、一体そこはどういう場所なのだろう。

 そしてそうなった時、一体人は、いや生命はどうなっているのだろう。

 果てして望むべく結果がそこにあるのだろうか。

 それとも。




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