ふわふわと揺れている白い塊。とげもなく、ふらふらしていて、まるで幻影のようだ。 それでも確かに生きているそれは、ゆっくりと瞬きながら転がっては進む。 塊はまだ何でもない塊で、これから何になるのかさえ決まっていない。色だけは白いが、それもすぐに 染められてしまう、そんな儚さを示す色。 どこかにくっつけば、何かになれるのかもしれない。でもどうやってそれをすれば良いのか。手があれ ば繋ぐのに、とげがあれば刺さるのに、何もない塊はただ滑り行くだけ。 そんな塊にも夢がある。 どうせふわふわと揺らいでいるのなら、あの蝶のように草花を飛び回り、風とたわむれたいと。 豊かな翼をはためかせ、風に乗り、何かと共にありたい。 それこそが生きるという事。今はまだ自分には無い夢。在る前の夢。叶う事は無いかもしれないけど、 そうあれたらと思う。 今の自分では風さえ通り抜けていく。そこにある存在に弾かれるようにして転がされるだけの、憐れな 命、ただの塊。 全てを育むはずの大地さえ、塊を弾き、滑らせる。この上を転がっているのは、他の生命のように受け 止めてくれるのではなく、弾かれているからだ。塊は大地に触れる事を決して許されない。 宙に浮く事も許されない。空もまた塊を拒んでいる。そして大地も塊を罰するように、弾きながらも、 重力という呪縛からは解き放ってくれない。逃がさない、とでも言うように。 塊はこれ以上どこへ行けば良いのだろう。どこへどれだけ進もうと同じ事。誰も塊を受け容れてくれな い。だからいつまでも産まれる事ができず、さまよい続けている。 どうすれば受け容れてもらえる。 どうすればそこに居られる。 自分を迎え入れてくれる場所は、この世界には無いのだろうか。だとしたら何故自分はこの世界に現れ たのか。 この世界に呼ばれたのではなかったのか、迎え入れてくれるはずじゃなかったのか。 それなのに誰も受け容れてくれない。 塊にできたのは、花々を飛び回る蝶を羨ましそうに見ているだけ。せめてあの蝶のように軽やかに飛び 回れたら、ずっと楽しいだろうに。この世界とも少しだけ遊べるだろうに。 涙を流せるとしたら、塊はずっと泣いていた。この世界に現れた時からずっと何かを求めて泣いていた。 そして今それを見つけたように思うのに、自分は決してそこにはいけない。 どうすれば飛べる。飛び立つにはどうしたらいい。何故この身体には翼がないのか。飛べないのか。何 故求めるものは手に入らない。 産まれる事を許されないのなら、何故ここに現れたのだろう。 自分という塊は、何の為に。 誰に問いかけるでもなく心らしきものに疑問が浮かび、叫びたい衝動にかられたが、塊には誰かに何か を伝えられる力も備わっていなかった。 塊にできるのは転がる事だけ。全てに弾かれながら転がっていくだけ。 当てなんか無い。行く先も無い。今というこの場所でさえ、塊は受け容れられていない。過去も未来も、 決して誰にも受け容れられない。 生きたい、そう思うのに、今の自分は生きてさえいないのかもしれない。 死んでもいない。産まれてさえいない。 迷い子のようにさまよい。さまよう為だけにさまようかのように、ふらふらと転がり続ける。 振り返る思い出も無い。記憶も無い。まだ何一つ始まっていない。 終わりも無い永遠の存在なのかもしれない。でもそんなものに何の価値があるのだろう。 この無意味さ、無価値さはなんだ。 塊はふと自分が本来居るべきではない場所に迷い込んでしまったと考えた。 でもそうだろうか。本来居るべきではない場所なら、そもそも初めから迷い込めるはずが無いのではな いのか。 ここに居るという事は、ここに居なければならない理由があるという事。 だとしたら、全てに受け容れられない事が、その理由なのだろうか。 そして飛びたいと心から願う事が、その理由なのだろうか。 塊は転がる事も忘れ、どこに行っても同じ事だと諦め、その場でふらふらし続けた。時間だけが流れて いく。存在しない時間が空気のように流れて、そのどこにも塊は居ない。これからも、今までも、どこま でも、ずっと。 永遠というものがあるのなら、今の自分がそうだと塊は思った。 日差しはこんなに暖かいのに、なんで寂しくて冷たいのだろう。 あるけど無い空間に、塊はいつまでも触れられないまま。記憶すら亡くしてしまうくらい、ずっと、ず っと。 そんな時、存在のぬくもりを感じた。 ふと気が付くと塊の周りを無数の蝶が舞っている。羽化したのだろう、ありとあらゆる蝶が。 塊は取り残された。これだけたくさんの蝶が当たり前のように飛んでいるのに、塊は今もずっと飛び立 てない。 それでも少しでも近付きたく、ふるふると身体を震わせた。 そこにあるのかないのかすら解らないまま。頑張って、頑張って、誰にも届かなくても、とにかく大き く少しでも大きく。 塊は震え、少しずつ成長を始める。 大きく、大きく飛び立て。生きたい、生きたいと。 その時、今まで感じた事も無い優しい暖かさで満ちた。塊が震える度、降り積もる。蝶が嬉しそうに跳 ねた。 いや、蝶ではない。それはすべて無数の塊だった。蝶に見えていたのは、やわらかく軽かったからだ。 浮いていたからだ。それが塊の望みだったからだ。 蝶達は塊に向かって一斉に舞い降りてきた。そして塊はますます大きくなっていく。蝶達を取り込み、 更に大きく大きく成長する。 外から声が聴こえてきた。自分を呼ぶ声。導くように、誕生せよと願う声が。 その声は一つではない。どこからもそこからも遠くからも近くからも過去からも未来からも聴こえてく る。溢れてしまいそうだ。 塊は嬉しそうに笑い、浮かび飛ぶ事はできなかったけれど、あたたかいものに包まれたまま大きく跳び はねて、そこから跳び出した。 眩しさと共に目覚めた場所は、騒がしくも静かな部屋。白と無機質な壁に彩られた不思議な部屋。そこ に白い人達が居て、自分を抱きかかえている。 塊だったものは怖くなり大声で泣く。いつまでも泣き続ける。 しかしその声を聞く者は、誰もが優しい目で見ていた。まるでその事を祝福するかのように。 塊だった者は全てを吐き出すようにして泣き続けた。いつまでも、いつまでも。 そして産まれる前に体験した全ての事もまた、その泣き声と共に流れ出し、忘れてしまった。 それがつまり産まれるという事。誕生するという事。それまでの全てを失い、新たなものとして産まれ るのだ。 しかしそれは空っぽになるという事でもある。 だから思い出さなければならない。 自分がどれだけこの世に産まれ、そして生きたかったかという事を。 生まれる前の望みを思い出す。それこそが人生。 だとしたら、どれだけ長くかかろうと、苦しもうと、絶望しようと、奪われようと、必ず思い出してみ せる。 その為に生きるのだから。 望み、望まれて産まれてきたのだから。 自分がここに居る事がその証。 必ず思い出してみせる。 飛び立てはしなかったけれど、私は全てに受け容れられたのだ。 この世に産まれてきたのだ。 生きているのだ。 あれほどに望んでいたのだ。 |