天罰とは他人にばかり下るものではない


 世の中には酷い人間が居るものだと思う。自分の事のみに終始し、他人の事は例え家族だろうと気にか

けない。それでいて自分は家族思いだとか、家族の為に生きているだとか勘違いしており。もし真実を指

摘されても強硬に反発する。

 自分は正しい。自分は立派な一人前の人間なのだと。

 その上彼らは大抵自分の為にすらならない事を、傍迷惑にしかならない事を、いかにも恩を売ったよう

な顔で押し付けてくる。後で当然のように失敗しても、その時は笑って済ますだけである。そのくせ自分

が同じ事をされると酷く怒る。つまり身勝手かつ誰よりも愚かな人間。それを自覚できていない人間。

 自覚の無い悪意は、自覚のある悪意よりも時に性質が悪いものである。

 だがそんな人間でもこの世で平然と生きている。天罰、仏罰、神罰、それらは全く人の世に意味を為さ

ないように思え。神や仏の名を借りて悪事を為す人間がいてさえ、神仏はそれを放置しているように感じ

られる。

 このような理不尽な事がまかり通るとすれば、神仏とは一体何なのだろう。我々人間とは一体何なのだ

ろうか。

 しかしふと気付く。何も天罰は他人にばかり下るものではないと。

 自分を鑑みるに、自分という一人の人間もまたこの恥ずべき人間達と大差ないと考えれば、こういう人

間をごく近くに配された事こそが、私自身に対する天罰というやつかもしれない。

 周囲の環境など自分だけではどうにもならない事で苦しめられる事は、天罰と考えても強ち間違ってい

るとは思えない。

 これは自分という人間に対する罰であり、悔い改めよ、そして改善せよ、そういう神の思し召し、一つ

の試練であると言えない事もない。

 とはいえ、それならそれで疑問が出てくる。それは例えば家族にろくでなしが居るとして、それが親で

あったりそのまた親であったり親類であったとしたら、自分という人間には全く関わり無い事で、自分と

いう人間もまた偶然そこに生まれてきたからには、生まれながらに罰を受けているという事になる。

 それは私という人間が生まれる前から罪深き人間であったという事で、こればかりはちょっと受け容れ

難い。生まれる前から罪深いと言われても、納得出来ない所がある。その時点では私はまだ何もやってい

ないのだから。

 この場合罪があるとすれば、そのろくでなしである両親や親類の方ではないのか。

 しかしこれもこう考えれば納得出来る。

 確かに家庭環境、育った環境というものは自分だけではどうにもならない点がある。いや、どうにもな

らない事ばかりで、それこそ運命というものに振り回されるしかないように思える。

 だが実はそう思う事こそが罪深い事なのだ。何故なら、確かに全てを簡単に変える事は出来ないが、自

分と周囲の環境とは常に繋がっている。それはその環境を自分の力で少しずつでも変える事が出来るとい

う事を意味している。

 つまりそういう周囲を改善するという努力を、我々は怠ってはこなかったのかという事だ。仕方ない、

どうしようもない、そういう言葉で諦め、努力する事を放棄してこなかったのか、少し考えてみるといい。

確かに本当にどうしようもなかった事もあるかもしれないが、大部分は自分の諦めが原因ではないのだろ

うか。本当は無理ではなく、面倒くさいから自分自身がそれを行わなかっただけではないのか。

 そういう事を考えれば、これは正に罰である。努力を怠り、怠けてきた自分に対する罰である。本当は

いくらでも変えようがあったのに、我々はそれを怠り放棄した。それこそが最も重い罪であり、それに対

する罰だと考えれば、今の自分が全く上手くいかない事に対しても、充分な理由にはなる。

 そして天罰を喰らえと願うだけで、他力本願で自分自身は何もしない事を思い返せば、確かに自分こそ

が天罰を喰らうに相応しい人間ではないかと思えてくるのだ。

 そこにどういう理由があれ、他人の不幸を願うような人間に対し、神仏が微笑んでくれる筈がない。幸

せを求める為の努力を放棄し、全てを諦めてしまった人間に対し、その上恥知らずにも他人の不幸を願う

ようでは、一体誰が力を貸してくれるというのか。神仏も呆れ果てているに違いない。

 自分の為にすら努力する事が出来ない人間が、自分の幸せさえ他人から与えてもらおうなどと虫のいい

事を考えている人間が、神仏の加護を受けるに相応しい人間であるのか。いや、あるはずがない。むしろ

罰を受けるに相応しい人間である。

 神仏は確かに見ておられる。我々人間に対し、一人一人相応しい罰を与えておられる。

 しかしそれならそれで何故上記したような傍迷惑な人間には罰が下らないのか。確かに自分も罰を受け

るに相応しい人間だが、傍迷惑な人間にも平等に罰が下るべきではないのか。何故こういう輩がいつまで

も人の世から消えないのか。

 自分の事を棚に上げるとすれば、確かにこういう疑問が湧いてくる。そしてこの疑問がいささか身勝手

ではあるが、幾らかは正当さのある疑問である事も間違いないだろう。

 確かに天罰は他人ばかりに下るものではない。しかし自分にばかり下るものでもない。それは全員が同

じ罰を受けるという意味ではないが、誰もがその罪に応じて平等に受けるものである。だとすれば、自分

だけが苦しんでいるのは納得できない。

 しかしそれもまた罪深い考え方である。

 傍迷惑な人間、他人に迷惑をかける事しか出来ない人間と思えても、その人自身は何も人に迷惑を行お

うとしてやっているのではない。多くは自分の為だとしても、わざわざ他人、それも自分に近しい血縁者

を傷付けたり、不幸に陥れたりしようとは考えていない筈だ。

 周囲の人間を不幸させる事は、回りまわって自分を不幸にする事にもなる。自分本位の人間であるから

こそ、必死に避けようとするだろう。

 だからその人間は傍迷惑な事を良い事だと考えてやっているのである。見当違いも甚だしく、全く何も

見えていないとしても、それが自分の為になると思ってやっている。自分の為になると思って自分や周り

まで不幸にしてしまうからこそ愚かなのであり、その愚かさ自体が自身に対する罰である。

 要するにその傍迷惑さこそが、その当人にとっても大きな罰なのだ。他人と自分を不幸にしながら、そ

の事に気付かず反省も出来ず、愚かさを愚かなまま繰り返して生きていくとすれば、確かにその罪深さは

他と比べようがないとしても、自分にもその愚かさの代償が降りかかってくるのだから、それ自体がその

人間に対する罰であり、常に罰を受け続けていると言っても過言ではない。

 やはり罰を受けていない人間などこの世には居ないのである。ただそれを人が理解出来ない、しようと

しないだけで、天罰、神罰、仏罰などというものは、この世界に溢れているありふれたものであると言っ

てもいい。

 わざわざ世界人類に目を向けなくとも、自分のすぐ近くを見れば用意に確認できる事である。自分の行

動が全て自分に返ってくるのだから、自分の全ての行動に対して自分が一番にその影響を受けるのは当然

だ。どんな人間も、どんな場所でも、平等に罰を受けている。人は常にその姿勢を問われている。

 そしていつ如何なる時も見られているのである。自分の良心という神が、常に我々を見守っている。罪

悪感という仏が、常に我々を教え諭す。

 それを無視し、自ら不幸を目指し、自ら好んで罰を受けているのは人間の方ではないか。我々はそろそ

ろこの愚かな行いを正さなければならない。

 誰がどうしようと、どんな運命だろうと問題にはならない。ただ自分がその為に行動すれば、それに応

じた結果が返ってくる。正しい事をすれば正しい結果が、悪しき事をすれば悪しき結果が返ってくる。

 そういう意味でもこの世は真に公平な世界ではないか。全ての事が自分に返ってくる。これこそが祝福

であり、罰であり、真理である。

 天罰は他人にばかり下るものではない。この言葉を胸に刻み、日々生きていく。それこそが幸せへの第

一歩である。世界はかように素晴らしくも悩ましい。だからこそ人が一生を費やす価値と意味がある。

 ただし、それだけに時に生々しいまでに残酷である事を忘れてはならない。

 公平さには恐ろしいまでの厳しさも含まれている。その中には、自分にだけ都合の良い事など、一欠け

らもありはしない。であるからこそ、公平、平等というものは成り立つのである。忘れてはならない、我

々は常に試されている。誰でもない、自分自身に試されている。




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